第9話 八歳の二人

「遥か昔の話。清き心を持つ人間は悪しき心を持つ魔族に敗れました。」


 この世に生を受け、友人を作り、友人を失い、親友を作り、親友を失い、愛しき人と出会い、家族が出来て、愛しき人と別れ、家族の多くを失った……くらい彫り込まれた皺の老人。


 彼は巨大な本を畳んで、床まで伸びた髭を引きずりながら、少年の部屋から出て行った。


「それだけ⁉あの人、でっかい本を広げて、人間が破れましたって言って出てったけど‼」


 ただ、少年は落ち込まない。これは彼の日常の一部でしかない。

 人間はそこまで追い込まれているのだから、自分に時間を掛けるのは勿体ない。

 だから大賢者であらせられるグレート・ズノール先生に来て頂けただけ、有難いのだ。


「お母様。今日も勉強頑張りました。お母さまは今日もお綺麗ですね‼」


 コンマ1秒程度だけ、母と目が合った。

 エメラルドグリーンの髪色の母は今日も綺麗で、虹色と見紛う紫の瞳も美麗で、1秒も掛からずに、少年は今日一日の活力を湧き上がらせた。


「あ、お父様‼お仕事行ってらっしゃい‼」


 コンマ1秒未満、父と目が合った。

 金糸よりも価値が言われる金色の髪、人間が手に入れられる最大級のサファイアよりも輝いていると言われる濃青色の瞳。

 何よりも伝説の鎧に飲み込まれない力を持つ肉体を持つ少年の父の息吹に、少年は今日一日の勇気を貰った。


「今日も頑張りまーす‼」


 そして巨大な噴水を潜り抜けて、広大な庭園を駆け抜ける。

 すると、彼には断崖絶壁にしか見えない城壁に向かって走る。


「警護のお仕事頑張って下さーい‼」


 少年には銀の鉄像にしか見えない門兵にも手を振ったら、彼の冒険が始まる。

 この国の名家として有名なユグドラシル家、その豪邸が彼の後ろに聳え立っている。

 今年で八歳になった少年の名前はニュール、灰色の髪に鈍色の瞳の元気な男の子。

 双子の兄である彼は国随一の聖騎士ネビラスと国随一の大賢者アルケネの息子である。

 アルケネが彼を産み落とす時間は1分だったという噂は貴族の間で轟いている。だが、それは大きな誤解である。


 実際はコンマ1秒だった。


 ——そんな彼の別名は全く手の掛からない兄である。



「ニュール!朝っぱらから走るんじゃないよ‼スッ転んでも知らないよ‼」

「大丈夫!転び慣れてるからぁ‼」


 貴族と平民の垣根がない訳ではない。

 少年が法的に庶民なだけである。

 彼は貴族向けの商店を駆け抜けて、庶民向けの街道を駆け抜けて、小さな教会を目指す。

 そこに併設された孤児院こそが昼間の彼の居場所である。


「おはようございま——」


 その瞬間、少年の視界が180度回る。


「にゅうううるぅぅ。てめぇ、昨日の掃除手を抜いたろ!俺達が怒られるんだからな‼」

「いたたた……。俺はちゃんと俺の分をちゃんとやったろー。」

「昨日の夕方からルールが変わったんだよー。なー、シスター。」

「そうですよ。全く……。何も出来ていないではないですか、ニュール。」

「マジかよー。それ、俺が帰ってから変わってるじゃんー。じゃー、俺が悪かったです。」


 そして、彼は明るい方の太陽と暗い方の太陽が45度回るまで、反省部屋で反省文を書いていた。


 扱い酷くない?

 そんなことは考えない。

 彼は生まれた日から似たような生活を送っている。


「お金持ちに生まれただけで、俺は人生の10割の幸せを使い果たしました。こんな俺ですが、今日も生きていることが幸せです。……こんな感じでいいかなぁ。ま、いいか。後は絵でも描いて過ごそうー。これがー、お父様でー。これがー、お母様でー。これがー聖女様オミニスー!……もしくは、俺の可愛い妹‼」



     ◇


 金色と桃色と水色、そして白色。それぞれが束ねられた少女の髪

 虹色を思わせる瞳は闇夜でもうっすらと輝いている。


 生まれた瞬間から、預言者によって彼女が聖女であると決まっている。


 双子の妹である彼女は国随一の聖騎士ネビラスと国随一の大賢者アルケネの娘である。

 アルケネが彼女を産み落とす時間は9時間と59分だったという噂は貴族の間で轟いている。だが、それは大きな誤解である。


 実際はほぼ10時間である。


 ——そんな彼女は別名などなく、存在自体が聖女である。


 少女は規則正しく起きて、先ずは体を清める。

 そして、光の女神アーテナスに祈りを捧げる。

 祝詞を終えると、午前の衣服を担当する侍女がやってきて、彼女を着替えさせる。


「オミニス様。今日もお可愛らしいです。」

「有難うございます。ルルセ。」


 気品ある佇まいの少女はニコリと笑い、朝食をとる為に移動をする。

 食事をとる部屋は兄と同じではあるが、兄は木箱の上に置かれた固くなったパンと睨めっこしている。

 固いパンが嫌なのか、それとも正座がしんどいのか、どうやら後者のようで彼は固くなった足の裏をつんつんと指で突っついている。


 兄が座っている場所まで50mはあるが、彼女の瞳をもってすれば、彼の所作など一目で分かる。


「大地の女神フォセリアよ。今日も感謝を致します。」


 彼女は父と母に囲まれて食事をとるが、彼女の兄は大きな部屋の片隅で一人でパンと格闘をする。

 その一方、彼女は神威をいっぱいに浴びた魔的にも肉体的にも良質な栄養素を含む高貴な土で採れた野菜と果実、そして神獣から搾乳された乳製品を食す。


「ゆっくり味わいなさい、オミニス。」

「あぁ。今日は私が作ったからな。」


 毎日、父と母が交代で食事を作る。

 兄は孤児院から支給されるパンを食している。


 少年がコンマ1秒も得られなかった両親の笑顔を彼女は一人占めにして、聖女として正しい作法でゆっくりと食材を噛み締めていく。

 その頃には少年は食べ終わっているが、まだ正座を崩していない。

 彼が動き出せるとしたら、彼女が両手を組んで祈りを捧げた後。

 とはいえ、決して急いではならない。いや、急ごうともしない。


「ごちそうさまでした。」


 少女の一言でこの部屋は時間を取り戻して、少年は別の扉から出ていく。

 少女は両開きの扉を侍女に開けてもらい、毛足の長い絨毯を歩いて行く。


「オミニス様。今日は大賢者グレート・ズノールが魔道について教えてくださいます。」

「魔道ですか。分かりました。」


 そして、先ほど小さな小部屋で一言だけ発した大賢者が入室する。


「キネス」


 彼がそう言うと、巨大な本が勝手に広がり、そこから文字と幾何学模様と球体が浮かび上がった。


「では前回の続きから行きましょう。」

「先生。その前に宜しいですか?前回お聞きしたことについて知りたいのですけれど。」

「はい。前回の質問でしょうか。それは宿題にすると私は申したはずですが。」

「それについては問題ありません。もう一つの方です。……その、庶民にも学をと提案させて頂いた……あれです。」


 聖女は毅然とした態度ではなく、少しだけ顔を歪ませていた。

 そして、ご老体は顔を顰めて、がっくりと肩を落とす。


「一応は。アレは文字が読めませんので触りだけですが。しかしながら、申し上げます。これっきりにして頂きたい。その理由は貴女自身もお分かりでしょうに。」


 すると少女は俯いた。ただ、直ぐに聖女としての顔で向き直って頷いた。


「分かっています。それほど、私たちは追い詰められていると。」

「分かって頂いて良かった。私たちは追い詰められているのです。良いですか。私たち人間の神様は昼は光の女神アーテナス様、夜は月の女神ルネシス様です。」

「そのエネルギーを私たちは頂いています。でも、遥か昔に誕生した真っ黒な太陽のせいで、私たちの月力は……」


 そして、少女は今日も真面目に授業を受ける。

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