エピローグ

105

【過去】


 ―二千十六年八月―


 仕事を終えてking不動産本社近くの横断歩道を青信号で渡っていた美波は、スマホの着信音が鳴り思わず立ち止まった。美波の横を通り過ぎた高齢の女性がその数秒後信号無視して突っ込んできたバイクに激突され跳ね飛ばされアスファルトに叩きつけられた。女性のバッグの中身が道路に散乱した。赤い万年筆のようなものがコロコロと歩道に転がった。


 もしもスマホの着信音が鳴らなければ、バイクに跳ねられていたのはその女性ではなく、美波だったに違いない。


 着信の相手は同じ職場の秋山修だった。この時はあくまでも業務連絡に過ぎなかったが、美波は目の前で頭から血を流して倒れている女性を見て、体の震えが止まらず動くことができなかった。


 事故現場に人が集まり、誰かが救急車を呼び、女性は救急搬送された。


 ――翌日、その女性の死亡記事が新聞の端に小さく掲載されていた。女性の名前は『木谷正子きだにまさこ、六十八歳で世にはまだあまり知られてはいなかったが職業は作家だった。


 美波は女性が亡くなったことにショックを受け自責の念に苛まれた。女性は自分の代わりに命を奪われてしまったのだと。


 白い菊の花を横断歩道の脇に供えて両手を合わせた。そのあといつものバス停に向かう途中に、赤い薔薇の描かれた美しい万年筆を側道で見つけた。その万年筆は手に取るとパープルの光を放った。


 落とし主は誰なのか不明だったが、美波には『もしかしたら……』という思いがあった。パープルの光を放つ万年筆を、気付いたら持ち帰っていた。


 美波には仕事以外に趣味があり、小説のプロットや拙い小説を書くこと。乙女ゲームにもハマッていたため、当時書いていたプロットは現世の女性が異世界に転生しメトロ・オリオンという移民の女性となり、ダイヤモンド公爵に見初められ結婚するラブストーリーだったが、ダイヤモンド公爵はメトロの黒髪を好まず、メトロは髪を金髪に染めて、移民であることを隠しダイヤモンド公爵と結婚した。生まれた一人娘にメリーと名付けその娘も黒髪だったため、生まれた直後から帽子やウイッグで誤魔化したり、金髪に染めることを強いり、異世界で公爵夫人として生きていくストーリーだったが、美波に作家の才能はなく好きなだけでは小説は書けなかった。


 それなのに、この赤い薔薇の万年筆を拾った途端、美波は不思議なことにスラスラと執筆することができるようになった。現世の女性が転生した国も赤い薔薇の万年筆を見て『レッドローズ王国』と名付けた。


 何故こんなにペンが進むのか、不思議に思った美波は、この万年筆には亡くなった作家木谷正子の思いが宿っているのではないかという空想をした。本来ならば遺族に返却すべきものだが、美波はこの万年筆に魅せられて返却することはできなかった。

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