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 春風が都会の雑踏を走り抜け、優しく私の髪を掬って揺らした。


 ――『亜子を守るためにここに来た』


 (名門私立高等学校から公立高等学校に転校するなんて、気まぐれに決まっている。それなのに昂幸の言葉に私の心は揺れている。)


 昂幸は公営住宅に向かう途中、小さな公園に自転車を止めた。

 

「ちょっと休憩していい?」


 九月の気温はまだ高い。昂幸の背中は汗ばんでいる。今まで冷暖房車の送迎付きで登下校していたんだから無理もないと、亜子は休憩することを承諾した。


「慣れないことをするからだよ。私なら電車で帰ったのに」


 亜子はゆっくり自転車から降りた。


 昂幸が亜子に手を差し出した。

 大きな掌、亜子はその手に自分の手を重ねた。


 二人で触れ合う手の温もり……。


 (温かいな。思わず胸が熱くなる。

 憎まれ口ばかり叩いてごめん。でも本当は凄く嬉しかった。素直になれなくてごめん。私、意地っぱりだから『ありがとう』ってなかなか言えなくて。)


 (でも、ずっと……。ずっと……。

 逢いたかった……。やだな、涙が溢れてきた。やだな、昂幸の前で泣きたくないよ。私が昂幸のことが好きだって、ばれちゃうじゃない。)


「亜子? どうしたの? 泣いてるの?」


 少し困惑した顔で昂幸が私を見つめた。


「……泣いてないよ。花粉症なのよ」


 そう言ってるのに、涙が頬を伝う。


「そんな顔したら、抱きしめてキスしたくなる」


「バカ、公園でキスなんかしない……」


 亜子は唇をキュッと結んだ。


「昂幸さんなんか大嫌いだよ。嘘つきだし、女子にモテるし、大きら……」


 言葉を言い終わらないうちに、昂幸が亜子の唇を優しく塞いだ。


 (昂幸なんか……。大嫌い……。

 大……嫌い……。大……好き……。)


「泣くなよ亜子。バカって言わないの? ほら、笑って」


 (笑ってる昂幸。私は笑えないよ……。

 笑えるわけがない……。ずっと待ってたんだから。いつかきっと昂幸が私に逢いに来てくれると、そんな夢みたいなことを、ずっと待ってたんだから。)


「公立高等学校に転校だなんて、よくご両親が許してくれたね」


「母の桃華学園は幼稚舎と小学部は男女共学だけど、中高は女子校だからね。秋山の父は反対はしなかったよ。『昂幸の思うようにしなさい。その代わり、自分の行動や言動には責任を持ちなさい』と。初めて父親らしいアドバイスをくれて、転校手続きをしてくれた。三田の両親は中学から翠光学院大学附属だったから、猛反対したけどね。『自分の道は自分で決める』と言いきった。多分、お義母様は納得してないと思う」


「そうだよね。三田ホールディングスの後継者だから、学歴も関係してくるよね」


「あのさ、亜子。この間も話したけど、俺は三田ホールディングスの後継者にはならないよ。秋山昂幸なんだから。三田家のお祖父様も認めるはずはない」


「そうかな。三田のご両親は昂幸さんを溺愛していたから。そう簡単に割り切れないと思う」


「だとしたら、亜子はどうする? 俺の立場で接し方が変わるの? 俺は俺だよ。亜子だって、名字が滝川でも木谷でも、亜子は亜子だろう」


「私は一般人だしどちらでも変わらないよ。でもセレブな昂幸さんは違う」


「もういい加減、敬称つけないで。年下なんだから、昂幸でいいよ」


「そんな大それたこと言えません」


「バカみたい。結局、家柄で選別してるのは亜子じゃないか」


「セレブなあなたにはわからないのよ。お金で苦労したことないでしょう」


「あるよ。母子家庭だったことがある。普通に公立保育園に通い、公立小学校に通っていたこともある。だから亜子と同じだよ。ねえ亜子、俺と付き合ってよ。俺は複雑な家庭環境で育った。亜子もそうだろう。亜子なら自分を偽らずに生きていける気がするんだ」


「そんなに私と付き合いたいの? だったら、先ずは友達からね。友達に簡単にキスしないで。わかった?」


「それはちょっとわかんないな」


 昂幸は再び亜子にキスをした。

 亜子は不意打ちのキスに、戸惑いながらも受け入れた。


「日本語が通用しないなんて、昂幸さんは三十点だね。落第点」


「落第点? マジで? 父さんと同じか」


「えっ? お父さんも?」


 亜子にはその意味はわからなかったが、昂幸と顔を見合わせて笑った。


 ◇◇


 公園の木陰でキスを交わす二人を高級車の中から、じっと見つめている人物がいた。


「三田ホールディングスの後継者にSPもつけず、自転車通学を認めたと聞いたから、迎えに来たのに許せないわね。経済的理由ではなく、あんな子のために名門私立から公立高等学校に転校するなんて。菊川ホールディングスの令嬢との婚約をお断りしたのも、あの子が原因なの? あの子の母親も母親ね、ご主人の事故で路頭に迷った彼女に手を差し伸べてあげたのに、その親切を仇で返すなんて。もういいわ、ゲーム制作会社に向かって」


「はい、奥様」


 高級車は公園の横を通り過ぎる。

 幸せそうな昂幸と亜子を見つめる憎しみの瞳に、二人の残像を刻みながら……。

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