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「ローザがトーマスの元に行ってくれるの? それならどんなに心強いか……」


「ですがその間、この邸宅は手薄になります。万が一のことも考え地元の警察に巡回の指示をしておきます」


「私達はもう一般人ですから。レイモンドもコーディもいるから大丈夫よ」


「メイサ妃は一般人ではございません。くれぐれもご用心を」


「はいはい。では国王陛下直々にお手紙をしたためます。明日出発して下さい。ローザは荷造りと、コーディとエルザに仕事の引き継ぎをして下さい」


「畏まりました。それでは失礼します」


 メイサ妃は応接室のサイドテーブルの抽斗から薔薇が描かれた美しい万年筆を取り出し、王家の紋章の入った便箋にスラスラとペンを動かす。内容は暫くローザをトーマス王太子殿下の侍女として置いて貰えるように願い出たものだ。


「その万年筆大切にしてるんだね。もしかして国王陛下からの贈り物?」


「違うわ。母方の祖母であるメトロ・ダイヤモンド公爵夫人の遺品なのよ。お祖母様は移民だったそうだけど、お祖父様が一目惚れされて、お祖父様の指示で身分を隠すために黒髪を金髪に染めて結婚されたの。母の黒髪も私の黒髪もトーマスの黒髪もお祖母様の遺伝なのよ。お祖母様は過去の記憶をなくす珍しい病気だったけど、この薔薇が描かれた美しい万年筆だけはいつも大切にされていたから、亡くなられたあと私が譲り受けたの」


「そうなんだ。もしかしたらお祖母様も私みたいに他国からこの世界に来たのかもしれないね」


「……レイモンド。あなたはキダニさんが発見されたら、また元の世界に戻るつもりなの? 私やユートピアを残して……」


「ごめん。メイサのお祖母様はこの世界で生涯を過ごされたのだろうけど、私には……待っている家族がいるんだ。私はメイサの夫であるレイモンドの体を借りているに過ぎないんだよ。私がこの体から消えてもレイモンドはちゃんとこの世界に存在しているから安心して」


「……そうね。あなたにはミリがいるのだから。そんなことはあなたがトーマス誘拐事件のあと事故により消え、再び姿を現した時からわかっていたわ。でも心の整理がつかなくて、お祖母様のようにあなたにはレイモンドのままこの世界に留まって欲しい」


「メイサ……」


「ごめんなさい。また我が儘を言ってしまったわね。あなたのいる世界に戻る時は、黙って行かないでね。せめて『さようなら』くらいは言わせて……」


「私一人では戻れないんだ。何故だかわからないが、キダニさんがいないと戻れない。大丈夫、いきなり消えたりしないから」


 メイサ妃はレイモンドに抱き着き、熱い抱擁を交わしキスをした。この幸せが永遠に続くことを信じて。


 ◇


 ―翌朝―


「それではご主人様行って参ります。コーディ、エルザ、メイサ妃とユートピア様を宜しくお願いしますね。不審者には十分気をつけること。ユートピア様を一人にはなさらないこと。宜しいですね」


「はい。ローザさん。あとはこのコーディにお任せ下さい」


 コーディは力強く胸を叩く。邸宅の外には普段は常駐していない警察官が巡回していた。


 ローザは自らハンドルを握り、再びパープル王国へと向かった。先日鶏を届け、急ぎ帰宅したばかりというのに、全く年齢を感じさせないハンドルさばきだった。


 夕刻、パープル王国の王宮に到着したローザは、スポロンの許可を得て直ぐさま鶏が殺害された裏庭を見回るが、小屋はすでに取り壊され、綺麗に整地してあった。鶏小屋のあった裏庭は使用人の働く炊事室や洗濯室の裏側に位置し、使用人宿舎前の車道から数メートル先にあり、車道と裏庭には低い塀があるだけで、大人なら簡単に乗り越えられるものだった。


 もちろん使用人が王宮の炊事室や洗濯室に入るには、使用人専用の通用門を通らなければならないが、夜間は施錠され、当日の事件発生時刻には警備室の警備員は王宮の庭を巡回していて不在だったらしい。


「これなら裏庭に入り込むのは簡単だわ。警備員は王宮の表ばかりを気にかけ、鶏小屋なんて興味ないもの」


「ローザさん、低いとはいえ塀もありますからねえ」


「スポロン、そこで見てなさい」


 ローザは裏庭の隅にあった物干し竿を摘み、助走すると棒高跳びのようにヒョイと、いとも簡単に塀を乗り越え、スポロンは目を丸くして驚いた。数秒後、ローザは再び棒高跳びのように塀を乗り越えて裏庭に着地した。


「これは驚きました。足腰は大丈夫ですか? なんという瞬発力。お見事です」


 ローザが要人警護の私服警官だと知らないスポロンは狐に摘ままれたような顔をしている。


「この物干し竿は王宮の物ですか?」


「はい。ですが、いつもは違う場所で洗濯物は干しているので、なぜここにあったのかはわかりません」


「なるほど。犯人が使用した可能性がありますね」

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