第41話

 沙宅家さたくけへ帰った涼悠りょうゆうの形代は白い煙となって消えた。阿麻呂あまろは涼悠と白蓮はくれんの待つ部屋へ行くと、

「ただいま戻りました」

 と声をかけた。

「おう、入れよ。白蓮にも話は伝わっている。明日、出発だ」

 阿麻呂は涼悠の前に座り、

「はい、涼悠様。あなたには感謝してもしきれませんが、本当にありがとうございます」

 と深々とこうべを垂れた。

「頭を上げろ阿麻呂。俺たちは友達だろう? 当然のことをしただけだ。それに、まだ何も始まってはいない。これからだろう?」

 涼悠の言うとおり、ただ直訴が叶って、御門みかどに訴状を読んでもらえたに過ぎない。これから朝廷の官人による事実確認が行われる。不正を行った証拠が隠滅されていた場合、不当な訴えを起こし、国司くにのつかさに汚名を着せた罪を問われるのは阿麻呂ということにもなりかねない。

「俺たちがついているんだ。安心しろ」

 阿麻呂の心の内を読まれているかのような涼悠の言葉は、優しくて温かなものだった。心を読まれても嫌な気はしない。

「はい」

 阿麻呂は自分の身体が霊体に戻らないことを不思議に思った。呪術にはあまり詳しくはないが、このような術を使うためには霊力が必要だ。直訴が叶ったのなら、もうこの術は解いてもよいのにと思った。

「お前はしばらくその姿のままでいいよ。今の俺は霊力が満ちている。これくらいの術では無くなったりはしない」

 涼悠は阿麻呂の心の声に答えた。なんとも不思議な感覚だった。

「涼悠様、ありがとうございます。お気遣いに感謝します」

「阿麻呂、俺たちは友達だ。そんな話し方はおかしいだろう? 気を楽にしろ。お前、俺に感謝し過ぎだぞ」

 と言って涼悠は笑った。


 涼悠の隣にいる白蓮はなぜか喋らない。無口にもほどがある。必要のない発言はしないのだろう。ただ、涼悠を見つめる眼差しがとても優しい。涼悠の善良さには誰もが心惹かれるように、阿麻呂もまた彼に惹かれ、とても好きになった。


 翌朝、卯の刻に宮殿へ行くと、玄道げんどうと二人の官人が待っていた。官人は二人ともに若く猛々しい武官であるようだった。

「沙宅涼悠、白蓮。この二人を連れて行きなさい」

 玄道は多くは語らないが、二人の武官は信用できることは確かだった。しかし、二人の名前や官職も伝えず、行きなさいとだけ言う。紹介もされなかった二人は、涼悠たちにお辞儀をして、

「では、行ってまいります」

 と玄道に出発を告げた。玄道はそれに無言で頷くだけで一行を見送った。


 用意された二台の牛車は大きく、そのうちの一つは涼悠が初めて白蓮と乗った牛車だった。

「さあ、乗ろう」

 涼悠は懐かしいその屋形へ入ると、当時のことが思い出された。もうずいぶん昔のことのように感じるが、二人でこの牛車で過ごしたのは、ほんの二か月ほど前だった。

「白蓮、またこうして牛車に揺られて旅をすることができるなんて思わなかったよ」

 涼悠が嬉しそうに言うと、

「うん」

 白蓮が頷いて、涼悠をそっと抱き寄せた。いつもの白蓮の花のような甘い香りがふわりと漂う。適度な揺れも心地よく、そのまましばらく白蓮の胸に抱かれていたが、陽が高く昇ると、屋形の中は蒸し風呂のように暑くなってきた。涼悠の額から滲み出た汗が、頬を伝い胸元まで流れ落ちた。

「白蓮、暑いよ~。何とかしてくれよ」

 涼悠が堪らずそう言うと、

「うん」

 白蓮はそう言って、帯に差した扇子を手に取り広げた。薄浅葱色の地に白い蓮の花が描かれている。白蓮が扇子で扇ぐと、

「ああ~、気持ちがいい」

 涼悠はそう言って、帯を緩め、胸元を開けた。

「服は脱ぐな」

 白蓮は涼悠に注意した。なぜなら、この屋形の中には阿麻呂もいるのだから。

「分かったよ」

 十分涼んだ涼悠は、白蓮に礼を言って、

「なあ、白蓮。どんな修行をすれば、お前みたいに暑さを凌げるんだよ」

 と白蓮に質問した。

「お前も同じ師の下で修行を積んできたはず。暑さを凌げないのがなぜなのか、私には分からない」

「そっか。分からないんじゃ仕方ないな」

 そう言って涼悠は頭の後ろに手を組んで枕にして寝転んだ。牛車の程よい揺れにまどろみ始め、しばらくすると寝てしまった。彼が眠ると、無口な白蓮と死者の阿麻呂の沈黙の時間が続いた。阿麻呂はもう一台の牛車へ乗った方がよかったかもと思ったが、死者である身なので、涼悠の傍にいるのが無難だろうと思った。武官の二人も私語を慎むことを命じられているようだし、あちらへ乗っても、今のような状況になるだろう。この沈黙の時間は涼悠が起きるまで続くと思うと、彼が早く目覚めてくれることを祈った。

 彼が眠ってから一時いっときが経つと、ようやくお目覚めのようで、身体を伸ばし大あくびをして、

「よく寝たよ」

 と言って身体を起こした。

「起きたね」

 白蓮がそう言って、涼悠に優しい眼差しを向ける。白蓮がこんな眼差しを向けるのは涼悠にだけで、彼が眠っている間、目を閉じて瞑想している以外は、冷ややかな目で前を向いていて、なんだか近寄り難いと阿麻呂は思った。

「まだ着かないのか?」

「まだ半分も来ていないですよ」

 と阿麻呂が答えた。

「遠いな」

「すみません」

 反射的につい謝った阿麻呂に、

「お前が謝ることはないじゃないか」

 と言って涼悠は笑った。

「それにしても、暑いなぁ。白蓮」

 涼悠がそう言うと、白蓮は頷いて、扇子で扇ぎ、涼悠に風を送った。それは先ほどよりも冷たく、まるで氷から出る冷気のようだった。

「ああ、すごく気持ちがいいよ」

 しばらく扇いだ後、白蓮が一言言った。

「身体を冷やしてしまうといけない」

 そして扇ぐのをやめて、扇子を帯に差した。

「お前のそれも便利だよな。でも、扇ぐのはお前だから、俺には必要ないな」

「そうだな」

 白蓮はそう言って、涼悠の乱れた服を整え、帯を結び直し、ついでに髪を撫でて、優しく微笑みを向け、彼の頬にそっと触れた。二人のなんとも睦まじい様子に、阿麻呂は自分が邪魔ではないかと思い、なんだか居心地が悪く、前の御簾を少し開けて外を見ていると、

「阿麻呂、変な気を回すな。俺と白蓮は前世で夫婦めおとだったんだ。仲がいいのは当然なんだ」

 涼悠はそう言って、阿麻呂に二人の関係や前世について、かいつまんで話して聞かせた。

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