第28話

 天へ昇った二人の目の前には、天界への入り口の大きな門があった。その大きさは横幅が二十間、奥行きが五間、高さが十二間もあり、都の大正門と同じ大きさだった。門には扉はないが結界のような幕が張られていて向こう側は見えない。その幕は二人を拒むことなく、難なく通過できた。門の全体は金色を主体として色鮮やかに装飾され、門柱には美しい模様が彫られていた。門を抜けると、その世界が目の前に広がった。足元には雲が揺らぎ、所々が透けていて下界が垣間見える。見える景色のほとんどが白く、上を向いても青空は見えなかった。明るいが昼なのか夜なのかも分からない。太陽も月も星すらも見えない。涼悠りょうゆうには見るものすべてが珍しく、あちらこちらへ目を向けていた。遠くに見える幾つもの宮殿は、キラキラと輝き、色鮮やかな花々が咲き乱れた花畑には、雅な装いの神が優雅に花を愛でている。こちらに気付くと、軽く会釈したが、すぐに花に向き直り、花の香りを楽しむように嗅いでいた。果樹には熟れた果実がたわわに実り、美しい女神が果実を手に取り籠に入れている。ここは本当に神々のいる天界なのだと実感した涼悠はそれに見惚れてここへ来た目的さえも忘れてしまいそうになった。我に返って恵禅尼えぜんにを探そうと歩き出したが、そこで待っていたのは役小角えんのおづぬだった。

 彼は秋麗しゅうれいの師であり、夫婦鬼は昔、この役小角に使役されていた。しかし、彼が天へ昇る時、秋麗に託されたのだった。

「昇って来たのだな」

 役小角は静かに言って、

「恵禅尼のことはひとまず置いて、私の庵にいらっしゃい」

 二人を庵へと誘った。涼悠が役小角と会うのは初めてだが、彼が誰かは聞かなくても分かった。天界にいる神々は皆、煌びやかで高価な服を身に纏い、美しく輝く宝石を惜しげもなく使った装飾品を身に着けていて、豪華絢爛、贅沢の極みと言った装いだったが、この役小角の服装は、下界の修行者が余所行きに着る少し小奇麗な程度だった。それは彼が下界で過ごしていた時と変わらぬ姿なのだろう。そして、案内されたのは天界には不釣り合いな、あまりにも簡素な建物だった。他の神々の住まいは黄金に輝く豪奢な宮殿ばかりで、目がチカチカして痛みさえ感じるほどだが、この庵は妙に目に優しく、木でできている柱に触れてみると温もりさえ感じるようで心が落ち着いた。

「さあ、座って」

 二人はそう促されて、靴を脱いで上がり、そこに胡坐をかいて座った。涼悠が部屋を一度見回すと、そこにあるすべての物を知ることができた。それだけこの部屋には何もないのだ。ある物と言えば文机ふづくえ一つと、その周りに積まれた書物だけ。ここで役小角はどのような暮らしをしているのかなどと考えてしまう。そんな涼悠の疑問に答えるかのように役小角は言った。

「私の暮らしが気になるようだな? ここでは何も食べる必要もない。これは生身の身体ではないのだから」

 役小角の言うとおり、神々は生身の身体を持たない。故に食べなければ死んでしまうということもないのだが、他の神々は豪華な食事を楽しんだ。皆、欲にとても素直で、別にそれは悪いことでもない。


 落ち着き払った役小角の姿勢に、涼悠はとても心が安らいだ。最近、色々なことが起こり、心も穏やかではいられず、強い緊張状態が続いていて気が抜けなかった。しかし、ここには涼悠を脅かすものはないと確信できた。先ほど昇天させた恵禅尼の脅威はまるで遠い昔に過ぎ去ったように錯覚してしまうほど、ここには穏やかな空気が流れていて、あの荒々しい御霊みたまは天界に来て、まるで凪のように鎮まっている。やはりここは、人の認知を超えた世界であり、神々が下界の人々と違うのは、彼らの持つ神力の強さに他ならない。恵禅尼の神に相当する邪力も、天界の神々にとっては取るに足らないのだろう。下界では師である秋麗も、強い霊力を持つ精霊の珠でも恵禅尼の力に及ばなかったというのに。


「涼悠、少し昔話でもしようか。私より白蓮の方が長い歴史を見てきているのだから、貴方が話して聞かせてあげるのはどうかな?」

 役小角はそう言って、白蓮に話しを振った。白蓮は少し考えて、

「どこから話しましょうか?」

 と尋ねると、役小角が答えた。

「あなたが涼悠に話して聞かせたその続きではどうかな?」

「そうですね」

 白蓮はそう言って、語り始めた。



 日河比売ひかわひめ転生てんしょうし、沙宅涼悠として生まれた時、天界にいた白蓮は下界へと降りて、沙宅家の白い蓮の花に姿を変えて池に浮かび、そっと涼悠を見つめていた。無事に誕生したことを見届けると安堵して、人知れず天へ帰るはずだったが、涼悠の父が白蓮に気付き、

「白い蓮の花よ、私の子の誕生を祝いに来てくれたのか?」

 と微笑みかけてきた。気付かれてしまったからには、このまま帰るわけにもいかず、白蓮はその姿を現し、

「失礼致しました」

 と詫びて頭を下げた。

「なぜ謝る必要があるのです? 身を隠してまであの子を見に来たのでしょう? さあ、こちらへどうぞ」

 そう言って、沙宅さたく正則まさのりは白蓮を案内して涼悠に会わせた。

「名を涼悠という。抱いてあげて下さい」

 正則は涼悠を抱き上げて白蓮に差し出すと、彼は慎重にそして優しく涼悠を抱いて、愛おしそうに包んだ。生まれたばかりの涼悠はまだ目も開かぬが、鼻をひくつかせて白蓮の匂いを嗅いだ。その時、涼悠が薄く微笑むのが白蓮には見えた。

「ありがとうございます」

 白蓮は涼悠を正則に渡して立ち上がると、

「それでは、失礼します」

 そう言って、天へ昇っていった。


 日河比売ひかわひめがまさか男として生まれ変わったとは、白蓮も予想してはいなかった。転生を願い、それを叶えてもらう代わりに、彦瀲尊ひこなぎさのみことの補佐を務めると約束したのだったが、妻を転生させてもらうのに、性別は決めていなかった。だからと言って、彦瀲尊ひこなぎさのみこともまさか男に転生させるとは意地が悪い。しかし、彦瀲尊ひこなぎさのみことは約束通り、転生させたのだから、白蓮も約束を果たさなければならない。彦瀲尊ひこなぎさのみことの補佐とは、民の祈りを聞き、それに答えて下界へ降りて奉仕するというもの。無事に転生した日河比売を見届けたのだから、すぐに天界へ戻り、彦瀲尊ひこなぎさのみことの元へと行ったのだった。


彦瀲尊ひこなぎさのみこと日河比売ひかわひめの転生、ありがとうございました。この目でしっかりと見て、この腕で抱くことが叶ったのも貴方のおかげです。感謝申し上げます」

 と白蓮は彦瀲尊ひこなぎさのみことの前に跪いて謝辞を述べると、得意げな顔で彦瀲尊ひこなぎさのみことが言った。

「そうか、そうか。それは良かったな。それで早速だが、私のところには多くの祈りが届いていてね、一つの祈りを聞き、奉仕に行ってくれるかな?」

 彦瀲尊ひこなぎさのみことに常に多くの祈りが届いているのは、民が憂いている証拠で、下界は様々な問題を抱えていると分かる。白蓮はその依頼を受けて、都から遠く離れた地へ赴くこととなった。


 こんなふうに、彦瀲尊ひこなぎさのみことの補佐は多忙を極め、全国各地へと奉仕に飛び回った。日河比売ひかわひめに会いたい気持ちもあったが、私用で行く事も出来ず、五年の月日が経った。そして、あの事件が起きたのだった。都が悪霊に襲われ、玄道が御門を守り、沙宅家の者たちが悪霊を退治したが、沙宅正則と沙宅さたく美沙みさが恵禅尼に殺された。そこにどんな因縁があったのかまでは分からなかったが、ただ、その事実だけは天界から見ていたのだった。恵禅尼の弟子の玄道がなぜそれを止めなかったのか、玄道の力でも敵わない相手ではあるが、師の殺戮を見過ごすとは、彼を知っている白蓮にはその心情が分からなかった。


 その事件が起きた時、白蓮は居てもたってもいられず、下界へ降りたが、奪われた命はどうすることも出来ず、親を失った涼悠を慰める事も出来ない。白蓮の姿では人目を引くため、女の姿に変えて頭には笠をかぶり、沙宅家へ弔問に訪れた。多くの人が弔問に訪れるため、女の姿の白蓮がどこの誰とは、誰も尋ねる者はいなかった。笠を取っても悲しみの涙を抑えるように顔を隠して、無言で頭を下げて死者を悼み、両親の亡骸のそばで姉と並んで座る涼悠へ目を向けた。彼は泣きはらした目をしていても、気丈に前を向いていて、弔問に訪れた者たちに一人ひとりの目を見て小さくお辞儀をしている。その姿があまりにも痛ましく、見ていられなくなり、白蓮はその場を立ち去り、人目に付かないところまで来ると、姿を戻して天へ昇った。


 天界では彦瀲尊ひこなぎさのみことが待っていたとばかりに、次の仕事を言いつけた。こうしてまた、忙しい日々が続いて、涼悠に会いに行くことは出来なかった。

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