第16話
翌朝、いつもより早く起きた
「珍しく早起きだな」
「何だよお前。俺に夜這い出来なかったから、ここで夜を明かしたのか?」
「そんなわけがないだろう。俺にはお前の行動が手に取るように分かるんだよ」
颯太には、
「そんな怖い顔をするな。何もしないさ」
そう言って、颯太を軽くあしらい、出かけようとすると、
「待て、俺も行く」
颯太は涼悠の肩を掴んで言った。
「それはやめた方がいい。お前、そんな怖い顔して、あいつを挑発したらどうなると思うんだ?」
涼悠に言われて気付いた。自分は涼悠のようには振舞えないと。
「分かった。だが、気をつけろよ」
颯太のその言葉に、涼悠は頷いて屋敷をあとにした。
涼悠はいつものように、のん気に
「おはよう」
にこやかに手を挙げて挨拶をすると、
「あら、沙宅様。今日はお早いのですね」
と屋敷の門の前を掃き掃除をしていた女が言った。
「たまには俺だって早起きぐらいするさ」
涼悠は笑って手を振った。
涼悠は宮殿の塀を見ながら歩き、正門の前を素通りした先の木に寄りかかると、
「あいつはどこにいるんだ?」
青い蝶はしばらく探し続けて、やっと玄道を見つけると、彼の近くへ飛んでいった。それに気付いた玄道は冷ややかな視線を向けた。すると青い蝶はサッと一刀両断されて地に落ちた。
「ひどいなぁ。青色が気に入らなかったのかな?」
涼悠はもう一枚、袂から取り出し息を吹きかけた。今度は真っ白な蝶。それは陽に照らされて輝き、翅のはばたきに合わせて、光の粒がキラキラと飛ぶ。その蝶もまた塀を超えていった。
ひらひらと優雅に舞う白い蝶を見た大納言が、
「何と珍しき雅な蝶だろう」
その美しさに見惚れてつい目で追うと、その先には玄道の姿があった。ここでの暗黙の決まり事。
『玄道を見てはいけない。玄道と話してはいけない』
職務上必要な事ならば仕方がないが、私的に見る事、話すことは禁じられていた。今や玄道は
故に、白い蝶の行方を目で追うことは出来ずに、大納言は己の職務へと戻った。
玄道の近くまで飛んでいった白い蝶は、彼の周りをひらひらと舞った。玄道はそれを二本の指でつまむと、ふっと息を吹きかけた。すると、白い蝶は元の紙へと戻った。
それからしばらくして、玄道が涼悠の待つ場所へとやって来た。
「
玄道が静かに呼ぶと、
「玄道じゃないか。何? 俺に何か用?」
ととぼけて見せた。
玄道は小さくため息をついて、踵を返して戻ろうとした。
「待て待て。なんで帰っちゃうんだよ。なあ、俺と散歩しないか?」
涼悠が呼び止めて言うと、
「断る」
と一言だけ返って来た。
「じゃあ、遊びに行こう」
玄道は返事もせずに戻ろうと歩き始めた。
「だから、待てってば」
涼悠が玄道に近付こうとしたが、
「おっと、これじゃ誰もお前に近付けないだろう」
涼悠が何かに気付いて止まった。玄道の周りには冷たい霊気が漂っていた。それに触れれば凍ってしまうだろう。
「私に近付くな」
玄道は振り返り、涼悠に鋭い視線を向けた。
「それも危ないだろう。俺じゃなかったら死んでるよ」
玄道の視線が
「そんなに俺を邪険にしなくてもいいじゃないか。今日は俺と遊んでよ」
涼悠が懐くように言うと、
「私は遊ばない」
と玄道が答えた。
「お前、真面目が過ぎるぞ。少しくらい遊んでも罰は当たらない。俺は今から市で買い物をする。お前も一緒に来ないか?」
何度断られても誘ってくる涼悠に諦めたのか、
「少し待て」
玄道はそう言って、宮殿に戻った。
「まさかあいつが俺の誘いに乗ってくれるとはな」
「私も
玄道が言うと、
「そうか、じゃあ一緒に行こう」
涼悠は玄道と並んで歩いた。初対面の
「俺たち、こうして話をするのは初めてだな」
涼悠が話しかけても、玄道は返事どころか反応すら見せなかった。それでも涼悠は構わず話を続けた。
「お前、友達いないだろう。そんなんじゃ、楽しくないだろう?」
涼悠はそう言って、隣を歩く玄道の顔を見た。これほど近くで彼の顔を見るのは初めてだった。皆が玄道の容姿について、口に出して褒め称えることはなかったが、その美しい容姿は皆が知っている。
玄道と涼悠の二人が大路を歩く姿は、人々の目をくぎ付けにした。
玄道が歩けば雪の華が舞うようだと言われ、『
涼悠の容姿も美しく、長い
そんな二人が並んで歩けば、見ずにはいられないだろう。だが、呪術師の二人がこうして一緒にいるなど、何かあったのではないかと、不安な気持ちも沸いてきて、皆、何かこそこそと話していた。けれど、涼悠がにこやかに玄道に話しかけているのは、いつもののん気な言葉だった。それを聞いて、皆は胸をなでおろした。きっと、涼悠が一方的に玄道にまとわりついて、いい加減なことを言っているだけだろうと。誰もが、御門の怒りに触れまいと、『玄道を見ない、話しかけない』を貫いていたが、涼悠は普段から放蕩者。だから、御門の怒りに触れることなど怖くもないのだろうと。
市は大正門から宮殿へまっすぐ伸びる大路にあり、大正門の近くで西と東の両側にあった。その日は月の後半で、西の市が開かれていた。
「もう着いちゃったのか」
涼悠は残念そうに言った。二人で歩きながら、もっと話がしたかったのだ。とはいっても、涼悠が一方的に話しかけ、玄道はそれを無視しているだけだった。
「それで、お前は何を頼まれたんだ? そもそも、お前って、買い物なんてしたことはあるのか?」
涼悠が言うと、
「桃を買う」
と玄道が答えた。
「桃か~。俺も買おう。おい、そこのあんた、桃はどこで売っている?」
市で竹細工を売っている男に聞くと、
「あっちの方で売っていましたよ」
と指を指して言った。
「そうか、ありがとう。その玩具を三つくれ。代金はつけで沙宅家から貰ってくれ」
涼悠はそう言って、男からトンボの形の竹のおもちゃを三つ受け取った。
「玄道、桃はあっちだ」
そう言って、玄道を誘って歩いた。
「おっ、飴があるじゃないか。お前も欲しいか?」
飴を見つけた涼悠が言うと、
「要らない」
と玄道が答えた。
「そうか。おい、飴を一つくれ。もちろん、代金は」
と涼悠が言いかけると、飴屋の男は、
「沙宅家だろう? 分かっているさ。今日の分もつけておくよ」
そう言って、涼悠に棒付き飴を一つ渡した。涼悠は飴をなめながら歩くと、玄道が涼悠を気にしながら隣を歩く。
「なんだ? お前、やっぱり飴が欲しかったのか?」
涼悠がそう言うと、
「喉を突かぬよう気をつけなさい」
と注意した。どうやら、涼悠のことを心配しているようだった。
「お前、そんなに優しい奴だったんだな」
涼悠は嬉しそうに玄道に笑顔を向けた。
「玄道、ほら、あそこで桃を売っているぞ」
涼悠は飴を食べ終えて、棒を放って捨てると、桃を売っているところへ駆けて行った。玄道は涼悠のあとをゆっくり歩いてついて行った。
「玄道、何してるんだ。早く来いよ」
涼悠は玄道を急かしたが、急ぐことはなかった。
「お前、買い物はしたことがないだろう? 俺が選んでやる。幾つ買うんだ?」
「二つ」
「そうか」
涼悠がそう言って、桃を一つ一つ丁寧に観察していると、
「どれでもいい」
と玄道が言った。
「いやいや。良くないよ。桃は傷みやすい。だから一番新鮮で傷みのない物を選ばないと。おい、これとこれを貰うぞ。玄道、代金はどうするんだ?」
涼悠が言うと、玄道は
「これで」
玄道は代金を払ったが、たかが桃二つに銀貨を一枚。
「これでは多すぎます。お釣りがありません」
店の男は受け取りに戸惑っているようだった。
「それじゃ、俺にも桃を二つくれよ。玄道、お前の驕りでいいよな?」
「これで足りるのなら良い。そして、釣りは要らぬ」
そう言って銀貨を渡した。
「玄道、ありがとう」
涼悠は嬉しそうに言って、玄道の桃を二つ布で優しく包み、両端を輪にして結んで持ち手を作って彼に持たせた。
「ほら、こうして持てば桃は傷まない」
涼悠は両手に桃を持って、一つをかじると、甘い汁が口の端から零れ落ちた。それを見て玄道は袂から手拭きを取り出し、
「口を拭きなさい」
と言って、涼悠に渡そうとしたが、
「見ての通り、両手は塞がっている。お前が拭いてくれよ」
そう言って涼悠は玄道に顔を近づけた。そのままでは見苦しいと思い、玄道は仕方なく彼の口を拭いてやった。何とも仲睦まじい二人を見ても良いのか、いけないのか、周りの者たちはちらりと二人を盗み見た。
「さあ、買い物も済んだし、帰ろうか」
市を出て二人は大路を宮殿へ向かって歩いた。その姿はすでに仲のいい友人同士にしか見えなかった。
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