第10話
眠れぬまま朝を迎え、外では蓮の花が音を立てて咲いた。
「涼ちゃん、起きているのでしょう? 食事を持って来たわ」
「いらない」
「どうして?」
「腹が減らない」
「分かったわ」
美優は持ってきた食事を持って戻って行った。
その日、涼悠は一度も部屋から出ず、食事も取らなかった。三日ほどそんな日が続くと、美優は心配でたまらなくなった。
「涼ちゃん、あなたが何も食べないというなら、私も今日から何も口にしないわ」
そう、声をかけると、
「それは困る。姉ちゃんが死んでしまうよ」
涼悠はそう言って、御簾を巻き上げた。
「食事を持って来たわ。さあ食べて」
美優は嬉しそうに膳を持って部屋に入って来た。
「ちゃんと座って」
涼悠が食事をするのをニコニコして見つめる美優に、
「姉ちゃん、俺のこと見過ぎだぞ」
と言って笑った。
「だって、嬉しいのよ。涼ちゃんが食べているのを見るのが」
美優の目には涙が溢れて、零れ落ちた。
「何で泣くの?」
「だって、心配だったのよ」
「悪かったよ、心配かけて。もう大丈夫だから、姉ちゃん泣かないでよ」
涼悠が必死で慰めると、
「謝らなくていいのよ。涼ちゃんは悪くないし、あなたがとても辛い気持ちなのは分かっているわ。でも、あなたのそばには私がいることを忘れないでね。颯ちゃんも、叔父様たちも、悠斗も海斗も拓真もいるのよ」
と言った。
「分かっている。みんなにも心配かけたんだろうな」
美優の言葉で気付かされた。自分はどうしてこんなにも身勝手なのだろうと。自分のことしか考えられなかった。大切な友人との別れで胸が張り裂けそうで、他に考える余裕がなくなっていた。
「涼、飯食ったら仕事だ」
颯太がいつもと変わらず、兄のように命令した。
「急かすなよ。三日ぶりの飯ぐらいゆっくり食わせろ」
「お前が飯を食わなかったのは俺のせいじゃない。とっとと食って、俺の部屋へ来い」
颯太は厳しく言ったが、内心はほっとしていた。涼悠の初めての失恋に、自分はどうしてやることも出来ず、この三日間は悶々と過ごしていたのだった。
食事を終えて、颯太の部屋へ行くと、彼は呪符の準備をしていた。一番多く使う魔除けの呪符だが、霊力を使うので一人では書ける枚数にも限りがある。
「ほら、これはお前が書く分だぞ。俺はもう終わった」
「さすが、仕事が早いな」
涼悠が褒めると、
「当然だろう。お前が遅いのは途中で遊び始めるからだろう。今日は俺が見ているから、さっさと書けよ」
颯太は腕組みして涼悠の目の前に座った。
「お前に見られながらじゃ、下手くそになる」
「俺に見られなくても、お前の書く文字は下手くそだろ」
「そんなことはないぞ。ちゃんと効力はあるんだから」
「無駄口は終わりだ。手を動かせ」
確かに涼悠の字は独特で、自由に踊り出しそうな抑揚のあるものだった。隣に置かれた颯太の呪符の整った堅苦しい文字と比べると、まるで違うもののように見えた。監視付きで喋ることも遊ぶことも出来ず、涼悠はただ真面目に呪符を書いた。
「終わったぞ」
涼悠が言うと、颯太はそれを集めて綺麗に整え、袂へ仕舞った。霊力の込められた呪符は、書いた者でなくても使える。書く者の霊力が効力となるので、霊力が高いほど、その効力は高い。涼悠の文字が独特であろうが、霊力は並外れて高い彼の書いた呪符は誰の物よりも強い効力がある。
「次の仕事だ。休んでいる暇はないぞ」
颯太はそう言って、涼悠を連れて屋敷を出た。
「今度はどこへ行くんだ?」
「都の外壁の魔除けの効力が弱まっている。修復が必要な個所に新しい魔除けを施す」
「ふ~ん」
涼悠は真面目に仕事をすることが退屈で仕方がないといったふうに、両腕を頭の後ろに組み、大路を歩きながら、何か楽しいことはないかときょろきょろしていると、
「おい、何している。こっちだ」
颯太に引っ張られ、修復箇所のある場所まで連れて行かれた。
「なんだよ。そんなに乱暴にするなよ」
「俺が引っ張らなけりゃ、お前はふらっとどこかへ姿をくらまして、遊び始めるじゃないか!」
それは颯太の言うとおりで、何も言い返さなかった。
「これを見てみろ。わざと消されている」
壁の魔除けの文字が人の手によって削り取られていた。
「誰だよ、こんな悪戯するのは? まったく困ったものだな」
「悪戯? お前、これが本当に悪戯だと思うか?」
颯太は何やら、訝しんでいる様子だった。
「ああ、お前の言うとおり。だが、誰が聞いているか分からない」
涼悠は声を落として颯太に言った。涼悠の言いたいことを理解した颯太は、わざと大げさに、
「何も知らない子供がこんなことをしたんだろうな。新しい魔除けを施さなけりゃならないじゃないか」
と言って、壁に魔除けの文字を書いた。
二人はその後も魔除けが削られた個所を修復していった。
「今日は、これで帰ろう」
颯太が言うと、
「ああ、やっと終わった。早く帰って飯食って寝たいな」
涼悠がのん気に言った。
「まだ昼間だぞ! それにお前はもうたくさん寝ただろう」
涼悠に呆れて、笑いながら肩を組んで屋敷へと帰っていった。
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