第5話 陰影

 「で、早く仙術使ってよ」

 「ち、まだ忘れてなかったか」

 「ひどいな、私が忘れっぽいみたいに!」

 「事実だろ。今朝、手巾もってこいって言ったのに湯呑み取ろうとして、目の前の花瓶を割ったのは誰だ?」

 「私だね!」

 「開き直るんじゃない」

 菊花と青年の言い争いはまだ続いていた。

 「私が割った花瓶なんだから、黄仙が責任持って早く治してあげなよ!」

 「どうしてそんな結論に至るんだ?色々おかしいぞ?」

 「どこが?」

 「お前が壊した物を、俺が治す責任があるらしいところだよ!」

 「何で?」

 「何で、てなぁ!自分が壊したものは、自分で直すんだよ!自分の責任だからな!」

 「へぇ、そうなんだ」

 「何で、他人事みたいにいうんだ?」

 「私には関係ないでしょ?私は黄仙のものなんだから」

 平然と、異常なことをさも当たり前かのように囁くのが、菊花という少女だった。

 「違うぞ。お前はお前のものだ。自分のやらかしたことは、きちんと自分でどうにかするんだ」

 それに負けじと、伝わらない正論を吐くのが、青年の役目だった。

 その贖罪じみた行動は、しかし、菊花には伝わらない。

 「違う。私は黄仙に拾われたんだから、黄仙のもので間違いないの」

 「拾われたからって、命は自分のものにはならない。お前は、俺が死ねって言ったら死ぬのか?」

 「うん、死ぬ」

 さらりと、重い問いを返してみせる。

 菊花は希死念慮のある子だった。

 黄仙の屋敷に来たばかりの頃、自殺しようとした回数は数え切れない。

 酒瓶を割ったのも、自殺道具を探して蔵に入ったからだった。

 花瓶を割ったのも初めてではない。昔、わざと割って殺されようとしたり、それができないと知ると破片を喉に突き刺そうとした。

 布団を切り裂いては輪を作り梁にかけ、木箱を蹴ろうとしては青年に助けられた。

 最近になって、ようやく表立った自傷はなくなったものの、間接的に死を乞い続けている。

 もしかしたら生意気な態度を取るのも、死にたがりの象徴なのかも知れない。そう考えると、青年は陰鬱となる。

 (あと、何年したら治るんだろうか)

 いや、そもそも治るのだろうか?

 ずっとこのままなのではないか?

 (永遠に?)

 彼女にとっての癒しは、救いは、どこにあるのだ?

 「……簡単に、死ぬとかいうなって、言ったじゃないか」

 この言葉を口にするのは、一体何回目だっただろうか。

 この言葉で諭すのは、あと何回で済むのだろうか。

 「あ、悪かったわね」

 気安く、軽く。言い放つ言葉は、紙の如く薄っぺらい。

 「菊花!」

 流石に、これ以上は耐え切れない。

 そう言い出すのは、いつか、でも、あってはならず。

 少女は、世界から見捨てられた。

 縋れるのも、甘えられるのも、この世界ー仙境でただ一人。

 罪を背負って、青年は菊花と共にいる。

 「……ごめん」

 それを、少しだけ菊花も気づいている。

 「口先だけじゃ、駄目だからな」

 成し遂げられないであろう祈りでこいねがう。

 ではないと、見捨てたくなってしまうような気がして。 

 青年は、少女といるとひどく苦しい。

 自分の罪を直視し永遠の歪みが見えるから。

 「……仕方ない。やるか」

 「え、何を?」

 「仙術をだよっ!」

 「え、なんで?」

 あまりにも唐突な願いの叶いに、菊花は目を見開く。

 それが青年の償いであることに気が付けるほど、少女は賢くない。

 むしろ愚かな菊花は、一瞬のちしたり顔でしきりに頷き始める。

 「ふーん、やっぱ可愛い子供のお願いは聞いてくれるんだねー。黄仙の幼女趣味」

 「ものすごく違うぞ」

 幼女趣味と言われたことで微かに怒気を帯びた青年は訂正する。

 「根気負けだよ根気負け。お前、本当にしつこいな……」

 「いや、黄仙ほどじゃないし。というか、乙女にしつこいって失礼じゃない?」

 「どこがた?」

 「あー、ひどーいーっ!」

 ほら、こうやって無理やり心を偽りで固めて、軽口を叩いて、ふざけ合っていれば平和だ。これがまやかしでも、世界が狂ったままでも、今この時だけは正常じゃないか。

 青年は、一瞬の白昼夢に襲われていた。

 誰も死にたいとか殺してとか、絶望に塗れた音を発しない。優しい空間じゃないか。

 それでいいじゃないか。

 ー駄目だ、と思う。

 結局、理想郷も楽園もありゃしない。かつて自分にとって天国であった世界は、次々と地獄とかしていった。

 冷たい鉄の刃を首に当てられ、血生臭い手の中を誰かの青白い肌が滑り落ちて、一面の銀の野原の無骨な寂しい大樹の下に人を埋めて、清らかな小川を真紅に染め上げて。

 自らの手を汚した。女性の首をはねて、とある男性を押しつぶして、いとけい子供の首を絞めて、幼い少女の腕を切り落として。

 命を脅かされ続けた。銀の器は曇りに染まり、夜を漂う香りに喉を潰され、数えきれない生贄を捉え、墨の人形に臓器を腐らされて。

 その度に思った。望んでいたものは、こんなものじゃない。もっと、もっともっともっともっと清らかで穏やかで高潔で優しくて、何一つ脅かされない平らかな世界が、望みだと。

 けれどその世界は遠く、現れなどしなかった。奇跡などなく、世は暴力に満ちていた。

 親を殺された子供が仇を打って処刑され、父を亡くした子供が皇帝の冠を抱き、孤独な仙人の娘が野を焼き払う。

 飢えた子供が体を丸めて友だった骸を食った。溺れた幼児を誰も助けない。金をなくした亡者がまた一人、貴族を殺す。

 汚濁まみれの救いなき世界に、青年は立つ。

 逃げることなく、怯むことなく。

 「……ん、黄仙、どうしたの?」

 突然黙り込んだ青年を、戸惑い気味に菊花は振り向く。

 そばかすの散った平凡でやや地味な顔立ちに、クリクリとしているが光の少ない黒い瞳。

 影を背負った容姿を軽く見つめると、黄仙は宣言した。

 「ほら、花瓶の破片よこせ。仙術かけるから」

 青年もまた、影を背負って生きている。

 その事に少女が気付くのは、ずっとずっと先の話。

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