第3話 硬貨

 「なるほど、気がつけばこの花瓶は、割れば使用人の首が跳ねられてもおかしくのないほどの価値を持っていた、と」

 「そーだよ」

 いささか不機嫌な菊花は、青年の言葉を固定した。

 青年の金銭感覚のずれを正すのに、四半刻さんじゅっぷんかかった。

 「じゃあ、花瓶は銀貨三十枚くらいか……」

 さらに価値が上がってしまった。いや、最初から青年が間違えていただけだったのだが。

 「……」

 もう、菊花は何を言っていいのかわからなくなった。

 あと、銀貨十枚だとまともな勤め先だと首が実際に飛ぶのではなく、解雇されるのだか、無慈悲な世界で生きてきた菊花は知らなかった。

 ちなみに、青年は首が飛ぶと言うことを、解雇の方面で考えていた。

 青年は権力者であるが、優しく慈悲深くまともであるので、仮に使用人が高価なものを割ったとしても、生活が困窮しないように気をつけながら、給料から差し引こうと思っていた。

 性格による認識の違いで、二人の間に若干の齟齬そごが生まれていた。

 「ねえ、黄仙。私、追い出される?」

 一応、聞いておく菊花。

 「追い出さないぞ」

 当たり前のように、青年は頷き。

 「追い出すんだったら、お前が金貨一枚の酒瓶割った時に追い出してる」

 さらりと、爆弾発言をかました。

 「……え?」

 だらり、と今度は顔に汗が伝わる。

 それは二月前のこと。

 ある日、勝手に黄仙邸の倉に入った菊花は、うっかり酒瓶を蹴飛ばし割った。

 意外にも嘘のつけない部類の人間である菊花は、素直に自己憐憫を加えつつ青年に罪を告白していた。

 その後、何も言われなかったので、勝手にもらって迷惑していたものだから、割って逆に良かったのかもしれないと的外れなことを考えていたのだが。

 「……」

 金はどの世界でも貴重な鉱物である。実は、青年に引き取られ、居候の身となるまで、菊花は硬貨を持ったことがなかった。

 この世界に流通しているのは硬貨のみのため、実質お金を持ったことがないと言える。かなりおかしいのだが、本人はまるで気づかず、「見たことはあるのよ」と全く威張れない方面で威張っていた。

 余談はともかく、菊花はたまに青年に頼まれてお使いに行っていた。遅い初めてのお使いだった。

 その時、袋に入れて渡されるのは、銀貨か銅貨。金貨は見たこともない。

 それくらい珍しいものと、交換される酒瓶を自分は割ってしまったらしいと菊花は悟った。

 (黄仙は優しいけど、やっぱり人だ。怒るし叱るし。生意気いうと反論して来るし)

 少女には自分が生意気であると言う自覚があった。

 (追い出されるのかな、私)

 そして、夢だけを見ている人間でもなかった。現実の残酷さを嫌と言うほど知っていた。

 鳥頭の彼女は、先ほど青年が天帝に誓った言葉も忘れていた。神というものは、菊花にとって罰しはしないが助けてもくれない、他人以下の存在だった。

 (いや、さっき追い出さないって言ってたし)

 菊花はようやく先ほどのやりとりを思い出すことができた。誓いは相変わらず記憶から抹消されたままだ。

 (殺されるのかな)

 青年が言った、一人前にするという言葉。

 それを、忘れたわけではないのだ、少女は、最初から。

 (死んだら、一人前になるかもだし)

 無知で死にたがりの娘は、そう考えてしまった。

 「あのさ、黄仙。私の願い、叶えてくれるよね?」

 「え、なぜ上から目線?まあいい、とにかく言ってみろ」

 基本的に菊花に甘めの黄仙は、少女の願いを叶えてやることには力を入れていた。

 彼女は人生の中で、残酷なまでに願いを叶えられなかったから。

 「私を殺したら、水葬にしてくれない?海に死体を入れてよね」

 しかし、この願いは受け入れなかった。

 「……は?」

 黄仙は目を見開いた。

 目の前の娘の言うことが、理解できなかったから。

 「……は?……なんで、……なんで、俺が……お前を……殺す、んだ?」

 語尾が震える。唇がわなく。

 この世の歪みを、発見して。

 「だから、私は高いもの割ったでしょ?」 

 「……追い出さないって、……言っただろ……?」

 「うん、そう。それなら、殺すのかなって」

 とても軽く命を口にする少女は、自分の命に価値を感じない、他人の命に価値を感じない。

 「安心してよ。死んでも、黄仙を逆恨みして、幽鬼になって出てきたりしないから」

 しかし、青年の命だけは尊重していた。

 「あ、でも、大丈夫か。だって、黄仙は」

 「大丈夫じゃない……」

 掠れた声で、菊花の言葉を遮った。

 「……え?大丈夫じゃないの?どうして?」

 「なんで、お前を俺が殺すんだよ……?」

 「いや、だから、酒壺とか花瓶割って」

 「追い出さないなら、殺さないよ……」

 弱々しく、言葉を紡ぐ。

 「お前をさ、俺は引き取って、一人前にするんだよ……」

 女顔で整っていて、とても綺麗な顔立ちと、美しく輝く髪と瞳を持つ青年は、その顔をひどく歪める。

 「一人前にするって、言ったじゃないかよ、馬鹿、鳥頭」

 「覚えてるよ。死んだら、一人前になれるんでしょ?」

 「ならないよ!ならない!」

 青年は怒っていた。

 彼女がこう考えてしまうことに。

 彼女に命の価値の高さを低く教えた両親に。

 彼女と二年もいるのに、未だこうなってしまう自分たちに。

 彼女を理解できない自分に。

 

 彼女が救われない世界を、作ってしまった自分に。


 「お前は、俺がお前を追い出さないことは信じたじゃないか!なのになんで、殺されるだなんて……」

 「…………あ……?」

 菊花はようやく、自分が青年をひどく傷つけてしまったことに気がついた。

 「私、また間違えた?」

 また、と言う言葉からわかる。二人の間に、こう言うことはよく起こってしまう。

 「そうだよね。よく考えたら、黄仙はそんなに短気なやつじゃなかったな」

 「やめろ」

 「黄仙はそんなに簡単に人を殺さないよね」

 「やめろ」

 「そうだよね、特になんの役にも立ってない娘でもころ」

 「やめろ!」

 一際大きい怒鳴り声が、部屋を充した。

 「……黄仙?」

 菊花は、物を二つの方向性からしか考えることができない。

 一つは自分。もう一つは青年だ。

 少女の世界は青年を中心に回っており、少女は長い間一人だった。

 幾度にも及ぶ自分殺しの末に、今の菊花の性格は出来上がっていた。

 傲慢で生意気なのに、自分のことはちっとも愛せないのが、菊花という少女だった。

 「お前は、もう少し、自分を大切にできないのか……?」

 (出来ないだろうな)

 青年にとってのその言葉は、質問ではなく確認だった。

 青年は静かに怒ったまま、菊花を真っすぐに見つめていた。

 「出来ないよ」

 青年の予想通り、菊花は首を振った。

 その顔は、泣き出す前の姿だった。

 「なんで、黄仙は……、黄仙は、私ばっかりを尊重するの?自分はどうでもいいわけ?」

 どこまでも、少女は青年を思いやり、自分を軽んじていた。

 価値が、見つけられなくて。

 「……菊花」

 黄仙は瞳を閉じ、思わず首を下に向けた。

 今の表情を、見られたくなくて。

 「俺も……、聞いていいか?」

 少しの沈黙の後、青年は下を向いたまま瞳を開けて、口を開いた。

 その目が潤んでいることを菊花は知らない。

 「なんで、お前は……、俺を尊重できるのに、自分を尊重しないんだ?」

 少女と青年は、本質では同じだった。

 どちらも自分より他人を優先した。

 しかしその在り方には大きな違いがあった。

 菊花は元々、自分中心に生きれる娘だった。

 青年は、一人でも生きていける人だった。

 菊花は血族に尊重されなかった結果、他者と自分への愛と思いやりを棄てた。

 青年は一人で生きれるけれど元々大勢と生きてきたから、孤独で人を欲した。

 菊花には選択がなく、他者をいつの間にか選んでいた。

 青年は長い時間を経て、他者を自分の意思で選んだ。

 

 二人の在り方は、自分の意思という点で、大きくずれていた。

 

 だから青年は、自分の問いに答えが返ってこないことを知っている。

 「……分からない……」

 菊花の花唇から、静かな本音が溢れ落ちる。

 「でもね、私はね、幸運でね、幸福なんだよ、黄仙」

 ふわりと、昔は痩せこけていた頬で笑った。

 今は、ふっくらしすぎて鏡を見るたびに気にしてしまう頬だ。

 「黄仙が、拾ってくれたからだよ」

 自分の笑顔が、青年を救っているだなんて、菊花は知りようがない。

 「そうか……」

 青年も、やっと上を向けた。

 黄土色の瞳に、ほのかに赤みが差していることの意味に、菊花は気づかない。

 「それなら、よかった」

 青年はやっと、笑顔を取り戻せた。

 「でもなぁ、菊花。もう殺すとか、いうなよ。俺が悲しくなる」

 菊花が自分を愛せるようになるのは、まだまだ先のことだ。でも、それまでに死んだり、心が折れたりしてほしくない。

 だから青年は、自分側から菊花の生を祈る。

 「……うん、分かった。黄仙が言うなら」

 青年側からなら、菊花も自分の生を肯定することができた。


 「それにしても……、どうしてお前は、殺されると思ったんだ?」

 「まだ言ってるの?しつこいなぁ」

 うんざりしたように、菊花はうめく。

 二人は、卓を挟んで卓子に座り込み、向かい合っていた。

 卓の上には、遅々として修復の進まない花瓶のかけらが散らばったままである。

 「だから、何度も言ってるでしょ?酒瓶と花瓶を割ったから」

 「なんで、たかが酒瓶と花瓶だろ?」

 青年は、金貨一枚と銀貨三十枚をたかがと言い放った。

 貧乏人と瓶職人に怒られそうだなと思う。

 ではなくて。 

 「え、じゃあ本当にもらって迷惑してた貰い物?」

 「は?何故そうなる?普通にどちらも割ったから、新しく買っただけだぞ?」

 「えー」

 (そういえば、確かに貰い物の値段とか知らないよなぁ)

 今更気づく菊花。 

 「え、じゃあ、瓶割っても怒らなくて良くなかった?」

たかが、と言う物なら、割られても怒らなそうだが。

 「馬鹿言え。お前のことだから、割っても怒らなかったら、割っても問題がないのだと勘違いしそうじゃないか」

 「私はそこまで愚かじゃないし!」

 「その言い方だと自分のこと愚かだって言ってるようなもののような気が……」

 「うるさいわねぇ!」

 菊花は怒鳴る。 

 「でもさ、普通は主人の高い物を割ったら、使用人の首が飛ぶでしょ?」

「は?まあ、確かに皇城や後宮、宮廷や貴族の家ならあるかもな……」

 「かも、じゃなくて、あるのよ!この世間知らずが!」

 菊花は勢いよく卓子から立ち上がる。

 過去に何かあったのかもしれない。

「あ、すみません」

 反射的に青年は謝る。

 「ともかく、俺のやしきではないから安心しろ。でも、なるべく気をつけろよ」

 青年はしっかりと釘を刺しておく。

 「はあぃ」

 菊花は卓子にまた座る。

 

 隠して、二人の間の若干の齟齬は二人の傷をえぐりながらも、無事埋まったのだった。

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