第2話 菊花
青年の目の前に、派手に割れた陶器製の花瓶がある。
一輪挿し用の花瓶は無地の
卓に散らばった破片を青年は手に取り、断片を指でなぞる。
「そういえばさ」
思い出したように、少女がつぶやく。
「この花瓶、いくらなの?」
「ああっ?」
青年がひどく不機嫌な声を出す。
彼は結局、少女の代わりに花瓶の修復をすることになったのである。
ただ、一つ言わせて貰えば、少女は花瓶の原型をうすらぼんやりとしか覚えていないため、青年が治す方がはるかに正確である。
青年は賢い。それくらいすぐにわかる。
それなのになぜ少女に任せていたのかといえば、彼なりの優しさという名の気遣いである。
彼女の尊厳を守るための。
「作業中に話しかけるな、菊花」
とはいえ、青年も聖人君子では無い。苛つく事もある。
感情に呼応して頭を軽く振る。日差しが彼の髪を黄金に輝かせる。
少女ー菊の花という名を冠する彼女もまた、苛立ちを隠さず、柱につま先をぶって八つ当たりしている。
「質問にはきちんと答えろって言ったのは黄仙でしょ」
「その前に、作業中に話しかけるなと言った!そして花瓶はお前が割った!」
青年は怒鳴った。
「それは悪かったね」
「菊花!」
あまりの身勝手さに、青年はさらに声を荒げる。
しばし二人は睨み合いー間も無く、馬鹿らしくなった青年がまた作業に戻った。
菊花は暫くそれをじっと見つめる。
やがて卓子にどっかりと座り込む。
立ったまま作業を続ける青年を、菊花は観察することにした。
青年のことを、菊花は「黄仙」と呼んでいる。それは言わば役職名であり、彼の本名では無い。
青年の真名を、少女は知らない。
夜空にぽっかりと浮かぶ満月のような黄金の光を宿した髪は、肩より上で切り取られている。花瓶を見つめる瞳は、夕日に照らされた砂漠のような、
細身で小柄な体つきだが、手にあるタコにより、彼がそれなりの武人だとわかる。
その両肩にかかる絹の深衣の重さも派手さも物ともせず、彼は見事に着こなしていた。
青年は、目立つことや人の上に立つことに慣れた、そんな雰囲気を纏っていた。
見た目は二十歳ほどであるはずなのに、どこか老人のようにも見える。内面は確かにとっつきやすそうなのに、少し敬遠してしまいそうだった。
しかし、菊花は心の機敏に疎かった。
なぜ、青年が菊花に修復を任せたのか。
なぜ、青年が身勝手に怒ったのか。
全く、理解していなかった。
「ねえ、黄仙。ところで花瓶いくらなの?」
「……お前、今までのやりとりを忘れたのか?」
青年は呻き声をあげるしかなかった。
「忘れた」
「鳥頭かよ、お前……」
「鳥頭って何?」
「お前みたいに今さっきのことを忘れるやつのことだよ!」
「ふーん、そうならそういえばいいのに。知識人の考えることってよくわかんない」
「えーえーそうでしょうね!貴方様にはわからないでしょうねえ!とりあえず全世界の知識人に謝ろうか!」
「何で?」
「何でって、お前……」
少女は無知で身勝手で生意気で、そのくせ偉そうだ。
しかし、なぜ彼女がそうなったのかをよく知っている青年としては、呆れるのもどうかと思ってしまう。
「お前は他人に対して失礼なことを言ったからだ」
「他人って黄仙の事?」
菊花が首を傾げる。
菊花の中で青年はかなりの位置を占めているであろうに、他人と平然という。それが少女の無自覚の狂気だ。
「違う。知識人に対してだ」
「私の話は黄仙以外聞かないんだから、失礼なこと言ってもいいでしょ?」
さらりと菊花の孤独が顕になるが、本人は全く気がついていない。少女にとって、それは当たり前のことだから。
「よく無いぞ。お前は知識人を前にしても同じことを言っただろうから、今から俺で練習しておくんだ」
「私、知識人と話す予定ないよ」
「俺の中ではある」
「黄仙が話すわけ?」
「お前がだ」
菊花は自身が醜いと思っている大きく丸みを帯びた瞳を瞬く。
「ねえ、黄仙。この際だから聞くけど、私をどうするつもりなの?」
まっすぐで、それでいてほのかに昏い瞳で彼女は問いかける。
昏さに秘めた、菊花の暗部を知るわずかなものである青年は、これまたまっすぐで綺麗な瞳で答える。
「お前を、一人前にする」
青年の土黄色の瞳に映る菊花は、まだ幼く稚い、小さな娘だった。
彼女は、その見た目に反して実年齢は高い。しかし精神年齢は、見た目以下と言っていい。
菊花を年相応の娘に育てること。それが、今の所の青年の目標だ。
「なーんだ、ふーん」
菊花はつまらなそうに、しかし、安心したように答える。
「てっきり、私を妾にでもするつもりかなーと」
「……何言ってんだよ、菊花」
青年は、菊花をそういう思考にたどり着いてしまうように育てたやつを呪う。
「俺は、下心があってお前を引き取ったんじゃない。天帝に誓う」
天帝とは、この世界においての神のことである。
「うん、知ってる。黄仙は、そんな人じゃないって」
菊花はやや傲慢の滲む笑顔で言う。
「ま、そうだろうな」
青年は刺して驚かずに、また花瓶だったものと向き合う。
「でさ、花瓶いくらなの?」
「しつこいな、お前」
「黄仙程じゃないよ」
「……認める」
青年にも、自覚はあった。
そのしつこさが、少女を救ったのだ。
「……花瓶は、俺が買ったときは銀貨一枚だった」
「あ、そうなの」
突き放した言い方だか、菊花は安心していた。払えない額ではない。職にありついていればだが。
「千年前くらいだから、今売ったら銀貨十枚くらいか……?」
「……は?」
いきなり、すごい数字と共に、花瓶の価値が跳ね上がった。
銀貨十枚は、一ヶ月の生活費に相当する。
「……」
改めて、自分の前にいるお方が誰であるかを思い知る。
そして、今更ながら自分のしでかしたことの重大さを思い知った。
つーっと、嫌な冷や汗が背中を流れるが、それを無視して言い放つ。
「浮かぬ喜びさせるな!」
「……は?」
さらに、青年の金銭感覚はずれていた。
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