第5話 兄(仮)の甘やかしは通常運転
私と兄の実海棠と妹の麻彩を乗せた車が止まった。私たちが車を降りると、そこは知った場所だった。よく行く焼肉屋の近くである。
スマホから目を離しているものの、まだぶつぶつと呪言を唱える麻彩と手を繋ぎ、兄と並びながら焼肉屋へ向かった。
焼肉屋に入ると、店員は私たちを見て「一条様、いつもありがとうございます」と挨拶し、私たちを個室に案内した。個室に入ると、先に到着していた流雨こと長谷川流雨(はせがわるう)と、一弥こと加賀美一弥(かがみいちや)がテーブルの前に座っていた。二人とも兄と同い年の二十四歳。一弥はスーツだが、流雨はジャケットは着ているものの、インナーはカジュアルな出で立ちである。
「お、紗彩久しぶり。なんか大きくなってないか?」
早速一弥が声を出した。
「一弥君、たった二週間で大きくなるわけないでしょ。私もう成長期脱出しかけているし」
「そうか? 麻彩はまた大きくなった気がするけど」
「まーちゃんはまだまだ成長期だもん」
大きくなる、とは、この場合背のことを意味している。約二週間前に会った一弥とそう会話しながら、私は流雨を見た。
二人が座っているテーブルに近づくと、流雨が手を伸ばしたので、その手に私の手を乗せて握った。
「会いたかったよ、紗彩」
「私もだよ、るー君」
二人で笑いあっていると、一弥が不満の声をあげた。
「紗彩、俺には会いたかった、はないわけ?」
「一弥君は時々会えれば十分」
「わ、ひどい落差」
そんな冗談を言いながら、私たち兄妹三人は席に着いた。
個室にはテーブルが一つ、その中央に鉄板が一つあった。テーブルの片面に二人、その反対側にも二人の普段であれば四名席で使用するテーブルだろう。しかし誕生日席にあたるところに一人ずつ座れば、最大で六名座ることができる。
流雨と一弥が既に片面を座って埋めていたので、私が流雨の前、麻彩が一弥の前、兄の実海棠が麻彩と一弥の間の誕生日席に座った。
テーブルにはすでに、皿に乗った生肉が数種類用意されていた。流雨は席を立ってジャケットを脱ぐと、座ってからさっそく肉を焼きだした。兄と一弥もスーツのジャケットを脱いでいる。
「もう肉焼いてる」
「紗彩はお腹空かせてくるだろうと思ったから、とりあえず注文しておいたんだ」
「ありがとう、るー君」
流雨と一弥は私が異世界を行き来しているとは知らない。いつも私は海外にいて、時々帰国してきていると思っているのだ。その帰国日はお腹を空かせて大食いになる、と知っている。だから前もって先に注文してくれていたのだろう。さすがである。
肉を焼きだしたと同時に、ご飯が一つ運ばれてきた。それが私の前に置かれる。
「紗彩、じゃんじゃん食べて」
「うん」
もう腹の空き具合は最高潮である。流雨が焼いた肉を私の前にある皿に乗せていくのをおかずにしながら、ご飯を食べ進めていく。
ちなみに、ご飯、つまり米粒を食べるのは私だけである。麻彩は夕食はおかずのみで米粒食べない主義であるし、兄たち三人は酒を飲むからか、おかずのみでいつも米粒は食べない。
最初に用意された肉以外にも、次々とお肉や野菜を追加注文しつつ、私はひたすら肉とご飯で腹を満たしていく。
「ところで、麻彩は何してるの? ずっとスマホ睨みつけて」
いまだ肉に手を付けない麻彩に、一弥が疑問をぶつける。
「まーちゃんは今、呪っている最中だから忙しいの」
「何怖いことやってんの……」
ぶつぶつ言っているのは分かるが、声が小さすぎて何を言っているのかは分からない。だから私は耳を麻彩に近づけた。「――ハゲてしまえ。メタボってしまえ。口臭くなってしまえ」と呟く麻彩に、胸を撫でおろす。まったく殺伐としていない。私からすると、全然害がない。
「ふふふ。大丈夫、可愛い呪いだった」
「本当? 紗彩は麻彩のこと可愛いしか言わないからなぁ」
本当なのに。一弥の疑いのまなざしが解せない。でも、そろそろ麻彩に食事をさせなければ。
「ほら、まーちゃん。そろそろ食べよう。お肉無くなっちゃうよ」
無くなったら追加注文すればいいだけだが、そう麻彩に言ってみる。すると麻彩は顔を上げた。
「うん。だいぶ呪っておいたから、効果あるはず! 許しはしないけれど、ここらあたりで手を引いてあげる!」
「まーちゃん、いい子ね」
「うん! さ、肉、肉! 一弥君、早く焼いてよ」
「いきなりかよ。ちょお待て。それまだ生だ」
それから、わいわいと食事を勧めること、約二時間。
「ほんと、よく食べるな、紗彩。一人で二十人前くらい食べたんじゃないか?」
「それは言い過ぎだよ、一弥君。十五人前くらいだよ」
「あんま変わらないだろ。……あれ、彼女から連絡来てたわ。俺、悪いけど先に帰るな」
彼女に会いに行くという一弥の離脱とともに支払いをすませ、私たちは全員焼肉店を出た。焼肉店のあるビルの通路を歩いていると、麻彩が大きな声を出して、兄の服を引っ張った。
「お兄ちゃん! ザーサイがある! ザーサイ買って!」
「麻彩、急に引っ張るな。どこにザーサイがある?」
「あっち!」
麻彩が兄を中華料理店の前へ引っ張って行っている。店前に冷蔵ショーケースがあるのが見えるから、そこにザーサイが売られているのだろう。
兄と麻彩に目を向けていると、ふいに手を握る感触がした。見ると、流雨が手を繋いで微笑んでいるので、私もつられて笑う。
「今日は紗彩と触れ合う機会が少なかったから、今、手を繋ぐのはいいよね」
「いいよ」
流雨は昔から私と麻彩を可愛がってくれる。初めて流雨と一弥に会ったのは、私が九歳、二人は高校生だった。流雨に「妹のように可愛がりたい」と言われた時は、戸惑ったし警戒したが、今では私の方が甘やかしてくれる流雨が好きだった。麻彩は流雨にも一弥にも塩対応だけれど、二人ともわがままを許してくれる、良い兄のような存在である。
「明日は学校行くの?」
今日は木曜、明日は金曜である。そして、私は東京でも一応学校に在籍しているのだ。
「ううん、休む。明日は仕事するんだ。るー君も仕事でしょ?」
「うん。土日はやっぱり麻彩と過ごすの?」
「うん。土曜は乗馬、日曜は買い物の約束してる」
「……だよね。失敗したな、先に紗彩の予約をしておけばよかった」
流雨は意外と私の取り合いを麻彩とする。麻彩単体では、絶対に二人っきりで流雨とは会う約束はしないだろう。だから、簡単に流雨と会う約束をする私と、流雨は会いたがるのだ。麻彩は、流雨と私と三人で過ごすのも嫌がる。麻彩はどうしても私と二人で過ごしたいらしい。
「仕方ない。紗彩が次帰ってくるのはいつ?」
「二週間後の予定だよ」
「じゃあ、俺はそこを予約ね。紗彩の行きたいところに連れて行ってあげる」
「うん!」
私に会いたがってくれることも、可愛がってくれることも嬉しい。こんな風に甘えていいのは、あと数年だろう。だから、今の内にめいいっぱい甘えておくのだ。
流雨は柔らかく笑うと、手を広げた。これは『抱き付いてこい』の合図である。だから笑って私は流雨に抱き付いた。
流雨から流雨の香りとほのかに香水の香りがする。癒されるなぁ、と思いながら、婚約破棄されたことの嫌な気持ちが、だんだんと薄れていくのを感じた。
「あー! また抱き付いてる! 私のさーちゃん返して!」
流雨から体を離して麻彩に振り向くと、兄にザーサイを買ってもらった麻彩が、こちらに不機嫌で近寄ってくる。そんな私を今度は流雨は後ろから抱きしめた。
「俺の紗彩でもあるんだけど」
「違うもん!」
「ああ、なるほど。麻彩も俺に抱き付いてほしいのか」
「ちがーう! 絶対に私に抱き付かないで!」
嫌がる麻彩を、流雨は楽しんでいる。流雨は手だけ麻彩に伸ばすが、麻彩はその手をバシバシと払っていた。
さらに流雨はどこから出したのか、何かの紙切れを麻彩に見せた。
「何これ」
「麻彩が好きな女優の映画の試写会チケット。舞台挨拶付き」
「え!?」
「来週のやつ」
紙切れの女優の名を確認した麻彩は、急に物欲しそうな視線を流雨に投げる。麻彩は好きな俳優も、だいたいが女性ばかりである。
「二週間後の紗彩の時間は、俺がもらうね?」
「むー……」
麻彩は葛藤している。私との二人っきりを取るか、好きな女優を見に行くか。
「……一日だけね!? 約束してくれる!?」
私はいつも土日を含む日程で帰ってくるため、土日のどちらかで手を打つ、と麻彩は言っているのだ。
「交渉成立だな」
流雨からチケットを受け取った麻彩は、ぱあっと喜び、くるくる回っている。
「ふふ、まーちゃん可愛い」
「本当、ちょろくて可愛いよね」
流雨の言葉に、頭の上にある流雨を仰いだ。
「私と意味合い違くない?」
「一緒一緒」
まあ、昔からこの手の技で、麻彩は流雨に踊らされている。
それから、四人でタクシー乗り場へ向かった。私と麻彩は帰るが、兄と流雨はこの後一杯飲みに行くらしく、別行動である。
「じゃあ、またね、るー君。お兄様」
「うん、また」
手を振る兄たちに見送られながら、私と麻彩は帰路に就いた。
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