第1話 ジャガイモ姫

 時から少し遡り、聖女が崩御しようとしていることなど何も知らない遠い場所、辺境の男爵の館の二階のテラスで、一人の少女が欄干に身をもたせかけて悩んでいる。

 男爵の令嬢であるカテリーナ・フォン・イエッター嬢は可愛らしく小首を傾げて真剣に悩んでいた。

 うーん、どうしようかなあ。

 なかなか決まらない。

 その原因はカテリーナが手にしているものにあった。


 ころころと大きく太った大地の滋養が弾けんばかりのジャガイモである。

 カテリーナはジャガイモをこよなく愛していた。

 自分のこぶしより大きいジャガイモを毎食少なくとも四つは食べている。もちろん、おやつにも。


 そして、今深刻に悩んでいる理由は、今夜のメニューを何にしてもらうかだった。

「ああっ。どうやって食べても美味しい罪作りなジャガイモさん。今晩はどうしようかしら。悩むわ~」

 こんなに悩んでいるのに館の者は誰も気にしてくれない。


 カテリーナは館の誰かを捕まえて相談しようかと思ったが、やっぱりやめた。

 先日の会話の記憶がよみがえる。

「カテリーナ様。毎度いい加減にしてくださいませ。うっかり話に乗ろうものなら、そのままジャガイモ談議に付き合うことになって日が暮れてしまいます」


 ううう。ジャガイモの話をするのって楽しいのに。

 まあ、館の者には仕事があるから仕方ないわね。

 自分で決めるしかないか。

 ようやく本日のメニューが決まった。カテリーナは大切なジャガイモを持っていない方の片手を欄干に突き上体を起こすと部屋に入る。


 自室に入ると大きな姿見が壁にかかっていた。

 カテリーナの全身像が写る。

 薄く血色が透けたふわふわのほっぺ、澄んだ蒼く深い色をたたえた瞳を縁取る長い睫毛、口紅など不要とばかり艶めいた唇、軽くウェーブした滑らかなブロンドの髪。


 カテリーナは鏡の前でポーズをとった。

 まあまあよね。健やかさを構成するすべての要素が揃っているんじゃないかしら。

 体つきは流行からするとややふっくらとしていているけど、ほんのちょっとよ。ほんのちょっと。

 柳のように細い体つきが流行の社交界だから最新のドレスを着るととてもお腹が苦しいけど、あれは腰を絞り過ぎなんだわ。うん。

 そんなことを考えながら、廊下に出ると階段を下りて階下に向かった。


 ベルを鳴らせば誰かがすっ飛んでやってくるけど、少しは運動をしなくてはいけないという自覚がある。

 どのみち午後の遅い時間はジョシュア爺さんと剣技の練習をすることになっていた。

 カテリーナは厨房に顔を突っ込み料理番にジャガイモを渡して告げる。

「今夜はジャガイモを蒸かしてちょうだい。四つ切にしてバターを載せたものを……五つ頂くわ。よろしくね」

 料理番はまたかという顔をした。


 ジャガイモは本来は救荒食物ということはカテリーナだって知っている。

 辺境に館を構える我がイェッター家は内情が豊かとは言えない。それでも白いパンに肉料理を食べることはできた。

 それは庶民にとっては贅沢だというのも良く分かっている。


 でも、ジャガイモをこよなく愛し偏食していた。

 愛するというよりはむしろ崇め奉るというのに近いかもしれない。

 幼少の頃は体が弱く発熱して寝込むことが多かったのが、カテリーナがここまで健康になったのはジャガイモを食べているお陰だと感謝していた。


 もし仮に、神に見放されたような不毛な荒廃した土地で五百日以上ほぼジャガイモだけ食べて生き延びた男の話や、すべての土地をジャガイモ畑にするために世界征服を目指す男の話をカテリーナが耳にしたら、きっと夢見るような目でこう言うことだろう。

「なんて素敵なお話かしら」


 料理番に晩御飯のメニューを頼み終わったのでカテリーナは館の中庭に向かう。

 そこで待っていたジョシュア爺さんがレイピアの柄を差し出してきた。

「それではお嬢様、本日の練習を致しましょう」

 イェッター家は首都ロンダーフに館を構える上品な家柄ではない。


 近隣の豪族と小競り合いがおきることもあるし、異形の魔物が近くの森を徘徊することもあった。

 そんな境遇なので令嬢とはいえども剣の練習は欠かせない。


 ジョシュア爺さんは脚に傷を受けてから走るのが困難で馬にもうまく乗れなかった。

 そのため、館でカテリーナの剣の稽古をつける役を仰せつかっている。

 それなりの高齢であり、片脚を引きずっていたが、剣の腕前は確かで、カテリーナが必死に挑んでも全く勝負にならなかった。

 突けば弾かれ、側頭部に斬りつければ受けられて返しの一撃が飛んでくる。

 ならばと脚を狙っても剣を巻き取られてしまった。


「ほっほ。まだまだ、この老骨にも一日の長があるようですな」

「うーん悔しいなあ。でも、仕方ないわ。何十年もの経験があるんですもの」

 軽くあしらわれてもカテリーナはむくれることはない。

 その後は、ジョシュア爺さんの指示に従って、基本の型を何度も繰り返した。


 ジョシュア爺さんはその様子をにこにこと見ている。

 正直に言えば、カテリーナは兄たちに比べて天賦の才に恵まれているとは思ってない。

 でも、熱心に練習をするカテリーナのことは、可愛い生徒とは認識し、できるかぎり教えられるものは教えようとしていた。

 カテリーナは敵を打ち倒すまでには至らなくても、身を守り時間が稼げるようになればいい。


 イェッター家は多事であり、館が手薄になることもある。

 現に父親と兄たちは宿敵ともいえるモンテス家からの襲撃を迎え撃つために出かけていた。

 館に何かあれば狼煙をあげて助けを求めるようになっている。

 カテリーナは救援までのときを耐えしのぐ為の剣を教えてもらっていた。

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