令嬢はジャガイモを愛し愛されて
新巻へもん
プロローグ 聖女墜つ
「ナーガ様。お気を確かに」
額に浮き出た汗を清水で冷やした布で拭いながら、お付きの者がそっと声をかける。
呼びかけられた初老の女性は閉じていた目を開けると柔らかな笑みを形作ろうと努力した。
年齢からすると澄んだ目をしている。
熱病に冒され疲労の色が濃いが、それでも整った顔立ちを保ったままだった。
「長い間お務めを果たしてきました。もう少しお役に立てればと思っていたのだけれど、もう難しいようね」
お付きの者は目頭を押さえる。
「ナーガ様が居なくなったら、私達いったいどうしたら……」
「今までと同じように聖女の力は受け継がれるでしょう。強く信じる心は力となります。心配しなくても大丈夫です」
少し離れていた場所に佇んでいた豪奢な衣装に身を包んだ男がベッドの側に歩み寄った。
「聖女殿。長きにわたりブーランジェ王国や他の国々を支えてきたこと感謝する」
「陛下。もったいないお言葉です」
闇の勢力との戦いは一進一退が続いている。
その戦いにおいて闇が覆ってしまった土地や生物を清めることができるのは、神の奇跡の力を与えられた聖女だけだった。
十五のときにその力に目覚めたナーガは、三十年に渡り粉骨砕身してきている。
その疲労が蓄積したことで不治の病に倒れ、余命いくばくもなかった。
聖女が亡くなると、その力は若き乙女の誰かに受け継がれる。
問題なのは、次世代の聖女が誰かということが、にわかには分かりかねることと、顕現までの月日が長かったり短かったりすることだった。
聖女は例外があるものの概ね十五歳の誕生日以降に自らの力を知覚して振るうことができるようになる。
今までの例では聖女の力の移転先は十歳から二十歳までと幅があった。
まだ幼い娘が力を受け継いだときは、人類は長く苦渋に満ちた年月を過ごさねばならない。
闇の力が侵食した土地は痩せ、小麦が育たなくなってしまう。
異形の生き物が闊歩し飢えに苦しみながら、聖女が現れるのを首を長くして待つことになった。
もちろん人々も手をこまねいているばかりではない。
まだ能力が覚醒していない場合でも聖女の資格を有する者を見分ける方法が確立され、同時に十五歳以前でも力を振るえるようにする術も開発された。
ただ、これは新たな火種を生むことになる。
人間の住んでいる領域が一つにまとまっていればいいが、現実にはいくつかの王国と独立都市に分かれていた。
現在の聖女ナーガはブーランジェ王国に生まれている。
国王も穏健で良識に富んだ人物だった。
だから、闇の力が及んだ際には、自国かどうかに関わらず、可能な範囲でナーガを遣わしている。
しかし、そのような博愛主義はここ数世代の聖女の時代においては珍しいと言わねばならない。
自国の外には派遣しなかったり、そこまではあからさまでないにしても自国を優先したりすることがよく見られていた。
ナーガが派遣された範囲も可能な範囲という注釈がついていることからも分かるように、入国できない国もある。
そういう国では入ったが最後拘束してでも自国内に聖女を留めるだろうことが危惧された。
結果的に、代替わり時には、聖女が自国に生まれるということが、各国における最優先事項となっている。
世界のバランスなどというものは意外に脆い。
ちょっとしたことで勢力間の力関係が逆転することは珍しくなかった。
この世界もその例外ではない。
聖女などという存在が居ればなおさらであった。
さすがに聖女として覚醒した者を害するのはためらわれる。犯人には世間の非難も集中することが予想できた。
だから、聖女の力を秘めた少女が他国に生まれたことを察知すると、力が顕現する前に葬り去るということが密かに行われている。
そのことはごく一部の者にはよく知られていた。
命の灯が消えそうになっているナーガもその悪弊を知る一人である。
自分の寿命が尽きようとしていること自体はそれほど憂いていない。
ただ、自分の力を受け継ぐ者が不慮の事故に遭うことが耐えがたかった。
しかも、次世代の聖女候補を探すために自分の毛髪が使われるとなればさらに気が重たい。
抜け落ちた前聖女の毛髪を湾曲した銀の細い棒に結わえ付けたものは、次の聖女となる者から約百歩以内の距離に入ると震えて音が鳴るのだった。
ナーガは熱い息を吐く。
「陛下。どうか私の喪をできるだけ長く伏せてください。その間に聖女候補の保護をお願いします」
「分かっておる。心痛は体によくない。どうかゆっくりと休んで健康を取り戻してくだされ」
ナーガはわずかにあごを引くと目を閉じて眠りにつく。
そして、再び目を開くことは無かった。
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