天然刑事Ⅰ
セイン葉山
第1話 署長室
ここは、静かなベッドタウンを後ろに控える県境の警察署、天山署。この地域周辺で謎の殺人未遂事件が進行しようとしている。人々はその犯人の綿密な計画に気付くはずもなく、平和な街並みが静かに佇んでいた。
今、一人の女刑事が神妙な顔をして、署長室へと歩いていた。後ろから、カマキリ顔の同僚が皮肉たっぷりに声をかける。
「あれ、白峰刑事、いつもの元気がないね。どうした?」
まったくいやなやつ、返事なんかするものか。私だって、刑事になって一年二年の新米じゃないんだ、いちいちビビってなんていられない。さっき化粧室で確認した。ルックスだってそこそこイケてるし、スタイルだって悪くない。正義の心はいつだって燃えている。ただ、ちょっとヘマしただけなんだ。どーんと胸を張って行こう。そう言い聞かせた。こんな時、本当は一番頼りになる部長の大橋は、今日は特別な打ち合わせがあるとかで出かけてしまっていないのだ。ああ、神様。
静まり返った署長室のドアをゆっくり開く。
「捜査一係、白峰流石、入室します」
人情派の署長は、困った顔をして待ちわびていた。
「それでは、ついさっき終了した懲罰委員会の結果を伝える」
「はい。」
「君は、所轄署内でおきた強盗傷害事件の現場検証に向かった際、現場にこともあろうか警察手帳と証拠品を忘れてきたことに間違いないね」
「はい。すみませんでした。その通りです」
「現場を出て、すぐに気が付かなかったのかね?」
「はい、現場を出てすぐに気が付いて、戻ったのです…。ですが、署長、二つのことっていっぺんにできないですよね」
「それはどういうことかね」
「戻る途中で、指名手配犯の樺山熊次郎に似た男を見かけて、尾行することにしたんです」
「え、そんな話は聞いておらんぞ。指名手配の樺山熊次郎か? そんなことがあったとは…」
実は、白峰流石には、無駄に優れた観察眼と度胸があり、今まで何人も犯人を街中で見つけ、堂々と逮捕したことがあるのだ。
「鼻の穴の大きいところにピンときて、これは間違いないと近付きすぎたら、気づかれちゃいまして…」
「なんじゃ、惜しいやつを逃がしたのう。でもそれからすぐに戻れば問題ないじゃろう」
「それが…。尾行するうちに気が付くと道に迷い、近道しようと電車に乗ったら乗り越して、気が付いたらどんどん現場からも警察署からも遠くなるんです。やっとの思いでここに戻ってきたら、手帳と証拠品はすでにここに届けられてあったわけで…。それで、そのう…」
無駄な観察眼はすごいが、肝心なことが大幅に抜けているのだ、こやつは…。
「わかった、言い訳を言うにも、もっとうまい言い方はないのかね。そういえば、以前にも、君は勤務中に電車で迷子になったことがなかったかね」
署長の指摘に流石は、ニコッと笑った。
「さすが署長、よくご存知で。電車は私にとって鬼門なんです。でもその苦手な電車にあえて挑んだ勇気は評価してもらいたいところですね」
「…」
署長はあきれて、話を先に進めた。
「ウォホン…。懲罰委員会の裁定は以下の通りだ。これから一年間、特別に研修のための指導官がつき、君のすべての職務について教育的指導を行う。指導官は、早ければ、二、三日の内にも派遣される。以上」
「え、やっぱりクビですか?」
「そんなことは一言も言っておらん。だから、遠くから指導官がここにだね…」
「ええ、遠くに左遷ですか…。やっぱりねぇ…」
こやつは、肝心なところをまったく聞いてない。いっそこのままクビにしてやろうかと署長は思った。女性なのに度胸もある、無駄に観察眼もいい。優秀な部分もあり、実績をいくつも挙げているのは間違いないのだが、なんというか、それ以前の問題だ。
「もう一度しか言わないぞ…いいかね…」
「というわけで、に三日中に研修の指導官が来るんですって…」
署長室から戻ってきた流石は、同僚たちに事の顛末を報告した。人のいい後輩の柴田は、素直に喜んでくれた。
「さすがです、先輩。やっぱり先輩のような素晴らしい人材をクビになんかしたら大変ですよ。指導官ですか? どんな人が来るんですかね。でも、クビとかにならなくて本当に良かったです」
すると流石の天敵、メガネのカマキリ野郎、白井がヌッと顔を出した。
「てっきり、クビか左遷だと思っていたのに…。指導官が付くなんて聞いたことないぞ。前代未聞の裁定だな。まあ、こわい教官先生に追い出されないように、せいぜいがんばることだね。フフフ」
すると白井の相棒でゴリラ顔の筋肉男、高橋がさらに気に障ることをさらっと言ってのけた。
「そんな恥をさらすような真似してないでとっとと寿退社でもしちまえよ。ああ、いけね、白峰にそんな色気はなかったな。近付く男はただ一人、後輩の柴田刑事だけだしな」
その瞬間、もともと気の強い白峰流石の鬼気迫る視線が高橋に突き刺さった。
「…。な、なんだよ。べつに間違ったことは言ってないよな…」
いつも緩衝役になる部長刑事の大橋が今日はたまたまいない。この場を収める者がいないのだ。まずいと思った柴田が間に入ってきた。
「まあまあ、先輩。どうです、今日は帰りにおいしいものでも一緒に食べに行きませんか…。」
「…おいしいもの…? あ、悪い、私、行くところ思い出したわ…」
それから少しして、勤務時間が終わるとともに、流石は一人でとっとと帰路についた。でもなんだか、さっきより元気そうに見えた。柴田は少し安心して、後姿を見送った。
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