【モネ】第9話 保健体育

 最近とても心が忙しい。色んな感情へ向かって行ったり、また戻ってきたりして息切れしてしまいそうだ。


「モネ先生ー? ヒトラーの妻の名前ってなんだっけ?」

「エヴァ・ブラウンだよ。ナチスドイツが降伏する直前に結婚して、そのまま次の日に心中しちゃったの」


 今頃、青井君は何をしてるのかな。もう授業は終わってるだろうし……ご飯食べてるくらいかな? 青井君って晩御飯って何食べるんだろう……意外と結構食べるのかな?


「なんでそんなギリギリになって結婚したのかな」

「婦人票を失わないように、ヒトラーは結婚どころか、愛人の存在すら隠してたって言われてるね。独身の方が何か応援したくなるじゃん? 今で言う……推し活みたいだね」

「へぇ、百年前から推し活ってあったんだね。推し活の果てに、人がたくさん死んじゃうって……嫌な時代だなぁ」


 おやつとかは一緒に食べたことあるけど、晩御飯は食べたことないな……。今度誘ってみそうかな? でもこの時期だとサークルの集まりとかもあるかな……? 川谷さんは友達っぽいけど、青井君はたぶんモテるもんな……。はやく誘った方が――


「モネ先生、好きな人いるでしょ?」

「え!? な、何言ってるのよ!? あんまりからかわないでよ!」

「一年前から一緒だもん、分かるよ。女の勘ってやつ? 目が恋する乙女……どころか、好きな男子のことを考えてる女子中学生だもん」

「じょ、女子中学生!? それはちょっと失礼じゃないの――」

「じゃあ彼氏いたことあるの?」

「い、いや、付き合うとかはあんまりだけど……」

「とりあえず話してみてよ。うち、モネ先生の恋バナ気になる!」


 私は、生徒の久世マルカさんと恋バナした。青井君と過ごした日々。青井君が告白してきたこと。青井君がまだ好きって言ってくれること。青井君が……恋バナっていうより、青井君の話しかしてなかった。


「意外と……モネ先生ってワイルドな恋愛してるね……」

「ほんとに先生失格だよね……」

「でも好きになっちゃものは仕方がないよ! それに、その手の男子を一発で落とす方法があります!」

「え!? なになに!? 教えて!」


 本当は私がマルカちゃんに、そういうテクニックを教えれるべきなんだろうけど……そんなの関係ない! 私は藁にでも、地獄の蜘蛛の糸でも何でもすがってやる!


「はい、これを口に挟んで」

「こ、こう……?」

「うん。それでこの紙に書いてあることを言って」

「えっと……『今日だけは保険体育を教えてあげるね』って……この渡してくたやつは――」

「え? ゴムだけど」

「は!? え!? ばかー!!」

「そんなにテンパらなくてもいいじゃん。先生も大人なんだからこれくらい……」


 恥ずかしい……。コンドーム云々もあるけど、マルカちゃんの方がそういうこと詳しいなんて……。今年で十九の子だから問題はないだろうけど、でも私よりも経験ありそうな雰囲気なのはちょっと……。教え子に大人の女として、完全に負けてませんか?


「ま、マルカちゃんはそういうことよくするの……?」

「――そういうことって?」

「いや、その……え、えっちな、こと、みたいな……?」

「何? もしかして、うちに色々教えて欲しいの?」

「いやいやそういうのじゃ――」

「可愛い顔」

「へ?」

「みずみずしい唇……ちょっと赤らめた頬……少し張ってる目……我慢できない」

「ちょっ――」


 マルカちゃんは私の二つの手首を左手で束ねて、両手を頭の上に担ぎ上げながらベットへ体ごと押し倒す。彼女は私に腰を下ろして、馬乗りになった。私は生徒に、物理的に完全に支配された。


「ねえ、このまま実技の授業してみる……?」

「やめて……そんな冗談言わないの……」

「うちは本気だよ? モネ先生はしたくないの?」

「す、好きな人がいるから! はやくどいて!」

「じゃあせめてキスだけでも……」

「いやぁ! や、やめてぇ……」


 マルカちゃんの唇が迫ってくる。そっぽ向いていた私の顔を、余っていた右手で、軌道修正するようにくいっと正面に向けた。彼女の瞳は私の目を逃そうとしない。鋭く強い視線がどんどん近づいて来る。呼吸数が増え、彼女の顎に私の吐息がかかっていく。目に涙が溜まってきて、彼女の像がどんどん歪んでいく。私、ここでキスするんだ……


「モネ先生、めっちゃ赤くなってんじゃん!」

「へぇ……?」

「流石に女の子とそういうことする趣味はないよー!」

「ば、ばかぁ……」

「え? もしかして期待してた――」

「急にこられたからビックリしただけ! はやくどいてよ!」

「あ、はーい」


 人の温もりがどんどん離れていく。重たいリュックを下ろした瞬間の――あの脱力感と似ている。期待なんかしていないのに、心臓が全然収まってくれない。多分、恐怖と安心だと思う。男は最初の男になりたくて、女は最後の女になりたいっていう有名な言葉がある。私は青井君に最初の男になって欲しいのだと思う。喜びそうだし。それに、慣れた人に喰いものみたいにされるのも癪だし。だから一応、貞操を守り抜けたことの安心が来ているのだと思う。


「その子はモネ先生が好きで、モネ先生もその子が好きなら、早く付き合えばいいじゃん」

「でも家庭教師をやってる内に教え子とそういう関係になると、色々問題があるから……」

「え!? じゃあ相思相愛なのに付き合わな――」

「そこで! 今年こそ教員採用試験に合格して、教師になるのです!」

「お、おお!」

「それに最悪受からなくても、講師として先生になればいい訳だし!」

「じゃあ付き合う気満々じゃん……」


 正直、今年は先生になるのを恐れていた。モンスターペアレントはいないかなとか、不良みたいな子はいないかなとか、パワハラとかしてくる先輩いないかなとか、色んな不安が先行して『社会経験をするため』という便利な言葉を盾に、夢から逃げていた。でも、もう逃げない。私は先生になる! そして、青井君のお嫁さ……まずは付き合うのだ!


「いずれにせよ、教員採用試験が終わったら告白しようかなーって……」

「いいねー! 初々しいね!」

「マルカちゃんは好きな人とかいないの? 環境も変わったことだし!」

「うーん……みんな作品に集中してますって感じで、出会いとかあんまりないかも」

「作品? 社会研究学部って何か作るの?」

「あー、うちやっぱり映像研にしたの。テスト勉強とかもすること少なそうだなぁって――」

「え!? あお……さっき話した子と同じ学部だよ!」

「あ、そうなの!? じゃあうちが誘惑してうば――」

「は?」

「いえ……何でもありません……」


 親御さんに浪人はダメって言われたから、とりあえず学費の安い国立に行くとは言ってたけど……まさか青井君と同じところだとは……。で、でも! 学部が同じってだけだもんね! 流石に心配になりすぎか……


「久世さんは映像研でどういうの作るの?」

「昆虫大戦特撮ってやつ。ミニチュアを作って、カブトムシとかを戦わせるの」

「何それー! めっちゃかっこいいじゃん! 完成したら見に行くね!」

「いいけど、三人しかいないから完成するか分かんなんだよね。先生が手伝ってくれるくらいだし」

「三人で特撮ってかなりキツいね……」

「まあ先生と青井って奴が結構やる気だから、何とかいけるかも」

「は? え? 青井……?」

「え? うん。うちと先生と青井、あと川谷さんっていう女の子でやってるの」


 落ち着こう。まずは深呼吸だ。吸って。吐いて。吸って。吐いて。吸って。吐い――


「はあああああああああ!?!?」

「うわ!? どうしたの!?」

「――その青井って子のこと、どう思ってる?」

「え? あ……そういうことね。うん、とっても素敵な男の子だと思うよ。彼女とかがいないなら告白しようかな――」

「や、やめて……」

「え?」

「やあべええっててえええええ!!」


 がっしりと彼女の両肩を掴み、中学高校で培ったであろう――筋肉質な体を押し倒す。私も彼女の胸に目掛けて倒れ込み、彼女の像を世界から上書きするように私の体を重ねる。


 胸の表面のさらに奥に向かうように、私はほんの少し先ほどより顔をうずくめる。


「モネ先生……? ごめんね? 冗談だから……」

「……………………」

「あまりにもうぶ過ぎて、ちょっといじめたくなって……」

「……………………」

「本当はそんなに青井と話したこともないから……」

「……………………」

「ハンゲンダッツ食べる? ちょうどお母さんが抹茶味、買ってきてくれてて……」

「…………もういじわるしない?」

「しないしない! だからこの恥ずい体勢やめて!」


 大人なので、アイス一個で教え子の過失を許してあげました。




 


 




 

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