【モネ】第3話 雲にも届く

 私は先日、生徒をフった。厳密に言えば元生徒だ。


 彼はとても真面目な生徒だった。私が来る前から、そして帰った後も勉強しているような子だった。机にかじりつくようにとは、こういうことを言うのだなと思った。始めてちゃんと担当する生徒ということもあり、不安で一杯だったが、それを薙ぎ払うように、彼の成績は飛ぶ鳥を落とす勢いで上がっていった。


 あまりにも頑張ってるから、私から休憩を促すこともあった。その時に色んなことを話したなぁ。好きな本も、好きなテレビ番組も、好きなお菓子も――本当に、私の色んなことを話したし、彼の色んなことも聞いた。純粋にその時間は楽しかった。死ぬ間際、走馬灯でこの思い出が蘇ってくれたら幸せに逝けると思う。


 そして彼は大学に合格し、私に告白した。


 正直に言えば嬉しかった。私を先生ではなく、一人の女として好きと言ってくれたことが。でも、これを許容しないことが、私の彼に対する最後の仕事だとも思った。


 フった瞬間の彼の顔が今でも脳裏に焼き付いて、瞼を閉じると映画のように再生される。カラー写真の一部を黒く塗りつぶしたようだ――彼と、彼が背を向けている開花したての桜の木々たちを見た時にそう思った。本当に今から自殺しちゃうんじゃないかと思うくらいだった。


「私なんかより良い子を大学で見つけてね!」


 と言ったものの、恋がそんな言葉で終わるほど簡単なものではないことは知っている。だから今日ケリをつける。彼と、そして私のこの感情に終止符を打つために。


「あら、そんなオシャレして珍しい。デートでも行くの?」

「ううん、大事な……とっても大事な家庭教師の仕事があるの」


 母にからかわれながら、私は出発する。今日のコーデは、お気に入りの白のワンピース。一応、私の中での勝負服ってやつだ。想いを殺しに行くわけだから、死装束にはピッタリだろう。


「ごめーん! 青井君、待った?」

「い、いえ! 僕もちょうど来たところです!」


 嘘だ。涙みたいな汗が、首から垂れ流れている。たった一筋だけど。


「あれ? 今日は奇抜なファッションじゃないね。可愛くて結構好きだったのに」

「え!? やっぱそうですよね! ハルち……知人に言われてこの服にしたんですけど――」

「ううん、それもすごく似合ってるよ。なんか、人畜無害な好青年って感じ!」

「――それって褒めてます?」


 服だけで印象ってすごく変わるなぁ。背も多分一七〇くらいあるだろうし、顔もちゃんと整えれば塩顔ですっきりした感じだし、本当に好青年って感じで……あ、ダメだ。普通にタイプだ。


「先生! その辺ぶらつきながら話しませんか?」

「うん、もちろん」


 この道も懐かしいなぁ。よくアイス買ってあげたっけ。そんなに昔でもないはずなのに、卒業アルバムの世界に潜り込んだみたいだ。


「先生は今年も教員採用試験、受けるんでしたっけ?」

「え? い、いやもう教員は諦めようかと思ってたの」


 教員になりたいって話、青井君にしたっけ? ふとしたタイミングで言ったのかな。よくそんなことまで覚えてくれてたよね、本当に。


「え!? 教員になるのやめちゃうんですか!?」

「う、うん。このまま家庭教師に本腰を入れようかと――」

「ちょ、ちょっと待ってて下さい!」


 急にどこかへ行ってしまった。誰かに相談しに行くように。何して待とうかな……あ! この電柱! 青井君が犬のフンを踏んじゃったところじゃん! お気に入りの靴だったのに盛大に踏んじゃって、すごい落ち込んでて可愛かったな――


 ダメだ、どうしても思い出が私から消えてくれない。心臓に絡まった赤い糸は、青井君と話せば話すほど、どんどん複雑に解けなくなっていく気がする。胸が締め付けれるって慣用句を作った人は、つくづく天才だと思う。


「ごめんなさい! お待たせしました……」

「ううん、全然大丈夫だよ――」

「先生、教員採用試験なんで受けないんですか?」


 生徒一人への感情を抑えられないから、教員になる自信を無くした。なんて言ったら、彼は絶対に塞ぎ込む。そういう子だ。


「個別指導の方が自分には向いてるかなって思って! ほら、青井君みたいに一人一人に寄り添って、成績が上がったりしたら嬉しいし――」

「本当ですか?」

「え……?」


 初めて見た表情。目元がきつく鋭くなり、ただ一点――私の方だけを見ている。怒り、というよりも悲しそうな顔で。


「先生、あんなになりたいって言ってたじゃないですか……何回も何回も。もし僕が告白したのが原因なら――」

「違う! 違うの……。単純に私が大人として……教員として未熟すぎるだけなの……」


 頭の先っぽの方で考えた安っぽい言葉を並べる。説得、というより納得してもらえるように。


「僕は先生ほど教員に向いている人はいないと思います。生徒のことを親身になって考えてくれて、勉強だけじゃなくて体調の心配もしてくれて、わざわざ元生徒にも会いに来てくれて……僕は先生が『先生』になって欲しいです!」


 自分でも一世一代の覚悟のつもりだった。一応、学生時代から抱いていた夢だったし。でも、教え子からそんなこと言われるのは卑怯だと思うんだ。


「――分かった。教員採用試験、受けるよ」

「本当ですか! 合格したらお祝いしなくちゃですね――」

「でも! その代わり条件があります!」

「え、何ですか……?」

「大学に入っても彼女とか作らないでね! それでは私は用が出来たので帰ります! さようなら!」

「あ、ちょっと待ってくださ――」

「またメールしてねー!」


 ヒールを脱ぎ、手で掴みながら走る。住宅街を走るなんて、いつぶりだろう。コンクリートのぶつぶつする感触を一歩、また一歩とする度に感じる。雲にも届くほどの軽快なステップで、道を駆け抜ける。今の私の顔は、はしゃいでる子供そのものだろうな。


 さて、家に帰って来たので、今から勉強をします。そうです、教員採用試験に向けての勉強です。気になってる男の子に褒められただけで、一世一代の決意なんてすぐにひっくり返す女です。どうぞ、何とでも言って下さい。


 ピロン♪


 うん? 青井君からだ。何かあっ……もしかして、途中で帰ったの怒ってる!? まずいよ……。頑張る理由がなくなる……じゃなくて! せっかくゴタゴタを解消したのに、このままじゃ――


「今日はありがとうございました。また時間がある時、会いたいです。あと、直接言えなかったんですけど、ストレートボブ似合ってます! ロングも良かったですけど、今もすごい綺麗です」


 ばか……

 




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