第11章 黒塗られた世界地図

19




 地層深くに埋まった魔性生物の死体が数千年から数万年かけて結晶化する事により、魔法石は完成する。

 その希少さから他の宝石類と比較しても魔法石は高い値打ちを有している。


 しかし、それは魔界に限っての話だ。


 本来魔性生物が存在せず、魔法石の誕生する余地のない人間界において、それがどれ程の価値を持つかは未知数と言える。


 リルは右手の中指に嵌めている指輪を外すと、石座に乗せられた魔法石の粒を眺める。

 雲1つない青空のように美しく透き通っており、いつまで見ていても飽きない鮮麗な輝きを放っている。


 リルはそれを指先に持ったまま、路地裏で見つけたとある質屋の暖簾のれんを潜る事にした。


 焦茶色の金属板で外壁を覆う二階建てのこぢんまりとした建物。

 『老舗質屋YAMANO』と店名の書かれた看板が掲げられていて、そこで質屋業が営まれている事を周囲にアピールしている。


 古風な店の雰囲気に合う手動扉のドアノブを捻ると、金属特有の冷たさが右手に伝わってくると共にガチャリと音を立ててラッチが外れた。


 釣り鐘型の原始的なドアベルがカランコロンと音を鳴らし、それから少しした後、カウンターの奥から店員が駆け寄ってくる。


「いらっしゃいませ。朝早くから、よくぞ当店においで下さいました」


 栄養状態の良さそうな中年の男が、接客業に従事する者特有のにこやかな笑みを浮かべながら慇懃そうにもてなす。


 リルは店員を一瞥いちべつしたあと、店内を見渡した。


 所狭しと商品の陳列棚が並び、カウンターの横あたりには小さなダイニングテーブルとアームレスチェアのセットが1組置かれている。


 陳列棚には様々な装身具や雑貨類などが飾られており、品ごとにプライスカードがつけられている。


 その他にも壁際に沿って置かれた飾り棚には、陶磁器や刀剣を始めとする美術工芸品が何段にも渡って納められていた。


「当店ではお品物の質預かりの他に骨董品等の買取や販売なども行っております。ご要望がありましたら何なりとお申し付けください」


 そう言う店員に対し「魔法石は取り扱ってるの」と開口一番に尋ねる。


「ええ」


「それじゃあ、これ売れる?」


 左手の指先に摘んだ指輪を店員の目の前に差し出す。

 店員は少し視線を落としながら、その指輪をじっと見つめた。

 即興で目利きをしているようだ。


「……ほう、魔法石の指輪ですか。本日はこれを売りにお越しで?」


「そう」


「承知致しました。まずは鑑定を行いますので、どうぞこちらへ」


 何やら神妙そうな面持ちで店員はリルをカウンター横のテーブルへと案内した。


 売れないかもしれないと言う心配は杞憂に終わる。

 理由は分からないが、人間界でも何らかの形で魔法石が流通しているようだ。


 リルが椅子に着席すると、カウンターへ向かった店員が白い手袋を嵌めて戻ってきた。


 品を預かると言うので、店員の手のひらへ無造作に指輪を落としてやる。


「ちなみに、こちらの指輪に関しまして、魔法石の鑑別書やブランドの保証書などはございますか?」


 そう問われるも、勿論そんな物は持っていない。


「ないよ」


「そうですか……。それでは、どのような経緯で入手されたか、参考までにお聞きしたいのですが」


「ずっとずっと遠い場所で貰った」


「……分かりました。しばらくお時間を頂きます」


 そう言うと店員はリルに背を向け店の奥へと消えていった。


 指輪を見つめる店員の瞳に現れた微かな心の動きをリルは見逃さなかった――。


 ◆


 木組みの椅子に腰を掛けつつ10分ほど待つも、店の奥の部屋へ行ったきり店員は戻ってこない。


 手持ち無沙汰になったリルは、少し店内を彷徨うろつく。


 すると、とある1台のショーケースが目に留まった。


(魔法石……)


 そこには多くのネックレスが陳列されていて、それらの何本かの装飾には魔法石が使われている。


 その1つに近づいてプライスカードに表示されている商品情報に目を通してみる。


 魔法石ペンダント――1.5ct――705000染。


 ctはカラット、要するに宝石の質量を表す単位だったはず。

 それによって宝石の価値は大きく左右されるのだ。


 そのペンダントの価格は『705000染』。

 ここで売られている物の中でも特に値が張っている。


 リルはいろいろな角度からそれを観察してみる。


 魔法石の滑らかな表面が、光を四方八方に反射させている。

 研磨技術の高さが窺えるが、発せられる魔力を感じ取る限り、魔力の密度はそこまで高くないように思われる。


 色は透明に近い水色だ。

 魔界において魔法石は基本的にその色が黒に近づく程、希少さが増す。

 少なくとも魔界の宝石商であれば、この魔法石を一級品とみなす事はないだろう。


 この世界の魔法石の詳しい評価項目や基準は分からないが、それでも、ここに並んでいる物よりかは質の良い物を持ってきたようだと、リルは自信を感じた。


 その後、再び店内を巡る。


 壁面には多くの絵画が飾られていた。

 絵具を重厚に塗り重ねて描かれた威風堂々たる人物画、多分に水の含んだ絵具を用いて描かれた儚い印象風景画。

 どれも風情を感じられる。


 それらに目を通しながら壁を横に進んでいた時の事だ。

 他の絵画に混じって、壁の隅あたりに1枚のタペストリーが飾られているのが目に入った。


 横1メートル、縦50センチほどの長方形の茶色い生地に世界地図が描き出されている。


 年季を感じさせる質感だ。

 アンティーク品の類かもしれない。


 地図に書かれている文字を読み取ってみるも、海陸名、国名のほとんどに記憶がない。


 かつて人間界へ降り立つにあたって、この世界の地理情報を頭に焼き付けてきたものだが、3000年もの時が経過した今、それはあまり役に立たなそうだ。


 そして『日本』においても国名が『さくら』とやらへ移り変わっていた。


(この黒塗りは……?)


 かつてのユーラシア大陸の一部とその周辺に掛けて、特に気になる地理の変化が見られた。


 陸地の特定部分だけが何故か黒く塗りつぶされているのだ。

 それはユーラシア大陸の北半分の中央部あたりからずっと東にまで続いている。

 この国もそれに呑まれ、国土の東半分ほどが黒く変色していた。


 その時、ふと、ここに来る前に交わしたあの男との会話を思い出す。


――その子は革命区の子だろ。

――悪魔なら悪魔らしくディアランドにでも居ろ。


 しくも地図の黒塗り部分は、この都市が位置しているであろうと思われる場所にまで差し迫っている。

 つまり、この街の近辺に地図上の黒塗りに該当する領域が存在するという事だ。


 もしかしたら男の言っていた言葉とこの黒塗りには何か関係があるのだろうか……。




 20




「うぅむ……」


 YAMANOの店主を務めるその男は思わず唸り声をあげた。

 店を立ち上げて早20年。

 これまでに数え切れない程の貴重品を取り扱ってきたし、時には秘蔵と呼ぶにふさわしいお宝に出会う事もあった。


 しかしどんな秘宝も、あの娘が持ってきたこの指輪には遠く及ばない。


 12ctのマギアラピス。

 それも信じられない事にだ。


 現状、世に出回っている魔法石のほぼ全ては、純度の高い魔力物資を特殊な環境下に置く事で結晶化させた人工的な物に過ぎない。


 魔法石が自然生成する条件は判明しているものの、それには長大な時間を要し、魔法石が出現し得るだけの環境がまだこの星には整っていないのだ。


 例外的に天然物の魔法石が発見される事もあるが、それは3000年前のあの戦争において悪魔達が魔界から持ち込んだ物だと考えられている。


 しかし人工の物であっても高品質な魔法石を作るには高い技術を要する。

 そのため宝石市場では驚くような値段がつけられ、魔法石は富裕層向けの贅沢品と言う位置付けにある。


 人工品でさえそうであるのだから、それが天然物となればその価値は計り知れない。


 男は一旦魔法石判定機器のスクリーンから目を離し、柔らかいレザートレイに乗せられた黒い指輪をこれ以上にない真剣な眼差しで見つめる。


 一切の付属品がないうえあの客が何も語らないので指輪の出所や流通経路は不明だ。


 だがそれでも高性能な魔法石判定検査機器はあらゆる項目を測定し、魔法石の真価を正確に探り出す。


 鑑定結果に寸分のたがいも無ければ、この魔法石は恐らく現在発見されている物の中でも最高品質に該当する。


 鑑定結果をどのように客に伝え、幾らの買取価格を提示すればいいのか――男は悩んだ。


 業界を揺るがしかねないような出来事が目の前で起こっているのだ、そんな大それた判断をこんな吹けば飛ぶような一介の鑑定士にできるはずもない。


 査定業務を終了させて品を返し、王立の研究機関にでも持ち込みを勧めるべきかもしれない。


 しかし……。

 恐ろしい事にあの客は何の躊躇いもなくこの超一級品に類するであろうお宝の所有権を手放そうといている。


 客の容姿を男は思い浮かべる。


 黒いドレスで着飾ったスラリと背が高く美しい顔立ちの女。

 年齢は十代後半ぐらいだろうか。

 きめ細かな毛先を軽やかに跳ねさせるサラサラのミディアムヘアが印象的だ。


 上品でゆとりのある佇まいから、もしかしたら、どこかの金持ちの娘かもしれないとも思った。

 恵まれた家庭環境ゆえに希少なアイテムが何かの拍子で転がり込んできた――。

 だが、富裕層がこんな廃れた質屋にかねを求めてやってくるだろうか?


 あるいは優れた容姿に物を言わせて男の懐にでも潜り込みアレを手に入れたか……。


 いずれにせよ雑な指輪の扱い方からして自分の身につける物の価値を碌に理解していないと見える。


 ただ目先の金を手に入れられれば、それでいいのだろう。


 だとすれば、それを利用しない手はない。

 価値を知られないままコレを回収してしまいたい。

 それも何食わぬ顔で、だ。

 迂闊な事を口にすれば手放すのが惜しくなってしまうかもしれない。


 男は心を落ち着けるように「ふぅ」と息をはいた。


 ここまで完成された魔法石はどの国の王族どころか、世界中の富と権力を掌握する“マギア教会本部”にすら存在しないだろう。


 これはしがない質屋の店主の元に舞い込んだからの贈り物に違いない。


 この幸運を何としてでも掴み取ってやる――。


 ◆


(遅い……)


 一体いつまで待たせるのか。

 あれから更に30分ほどリルは待ち続けた。


 もしかして、ネコババしてどこかへ逃げる気では……?


 椅子に座りながらそう不安と苛立ちをつのらせていたところ、カウンターの向こうに店員が姿を現す。


「お待たせして申し訳ございません。ただ今、査定が終了致しました」


 店員はそう言いながら妙にゆっくりとした足取りで歩み寄ってくる。

 そして対面に腰を下ろし、テーブルの上に指輪の乗ったトレイを置く。


「お持ち頂いた指輪ですが、タンタル製のアームに、色合いや透明度に優れた魔法石のストーンとなっております」


 柔和な顔で男が喋る。


「ただ付属品等の行方が不明となっておりますので、その分少々買値が下がりまして……。買取価格は60万染とさせて頂きます」


 その金額が表示される電光のボードを男が見せてきた。

 リルと男の間に沈黙が流れる。


 心の中でリルは訝しむ。

 随分とふわっとした短い言葉で肝心の魔法石の説明を終わらせるものだ。

 それに提示された買取価格も安いように思えてならない。


 買値かいねが70万染なら売値うりねは100万染をちょっと超えるぐらいだろうか。

 その場合、ここで売られている他の魔法石アイテムとそこまで大きな差はない。


 私の指輪とそれらでは大きなプライス差があると睨んでいたが……。

 この指輪を店員が特別な目で見ていた事に間違いはない。

 何かを隠している。


「その価格の根拠は?」


 男の目を見ながらリルは尋ねる。


「え、根拠? あぁ……それはですね……国が定める魔法石鑑定基準に基づく4つの観点から査定結果を出しまして」


「その4つと言うのは?」


「はい、カラット数、クラリティ、カラー、それに魔力物質の偏在具合となります……」


「それらを総合的に判断してその価格だと?」


「そ、その通りです……!」


 リルはフロアの中央に置かれているショーケースを指差しながら「ちなみに、あそこで売られている魔法石と私のとではどのぐらい価値に開きがあるわけ? 参考に教えて欲しいんだけど」と質問してみた。


 そんな事を聞かれるとは思っていなかったのか、店員はギョッとしたようにその方へ目を向ける。


「価値の開き……ですか? まぁ、何といいますか、今回お持ち頂いた物は、それなりの良品ではあるかと……」


 何とも判然としない店員の様子から、買い叩かれているとリルは判断した。


 ◆


「殺すぞ」


 突然身を乗り出してきた客にそう耳元で囁かれた男は大きく狼狽うろたえた。


「は、はい!?」


 もしやこの額では見合わないと見抜いてしまったのか……?

 それともちょっとした脅しの言葉でも使えば価格を釣り上げられると思ったのか……?


「正当な評価をすればいい。ただそれだけ」


 客が真顔で放つその言葉に男の心臓は縮んだ。

 まともな評価を下すのなら『当店では買取り不可』とするべきだ。

 だが馬鹿正直にそんな事を口にする訳にはいかない。


 逡巡した挙句、男は交渉に出る事にした。


「……では、100万染と言うのはどうでしょうか?」


 すると、ただでさえ冷めていた客の顔が能面へと変化する。


「え、えぇと、それでは150万染!」


 客の目がギロっと動く。


「じゃ、じゃあ200万染……!」


 男が思わずそう叫んだところ、客が少し下を向きながら「ククク……」と笑い始めた。


 どう言った心持ちかと少し身構えながらそれを見守る。


「はぁ……もういいよ。それで」


 どうやら納得したらしい。


 もはや査定なんてあってないような物だが、男は客の気が変わらぬ内に必要な手続きを終わらせてしまう事にした。


 手に持っていた情報端末デバイスに表示される買取価格を『200万染』に訂正し、その後、各種必要事項の記入を依頼する。


 しかしデバイスの画面に表示された承諾書を指さしても、客は何の反応も示さない。

 それどころか顔をしかめながら「これに記入しないといけないの?」と聞いてくる。


「はい、そう言う決まりになっていますから」


「そう。でも、分からないから書けない」


「えぇと、入力は仮想ペンシルとなっており――」


「そうじゃなくて、ここに記入できる情報を私は持っていない」


 男は耳を疑う。

 バカな。

 自分の住所や氏名ぐらいその辺の小さな子供でも分かるものだ。


 何か冗談を言っている風でもなかったので、男は次に身分証明証の提示を求めた。

 それさえあれば承諾書ぐらい代筆で済ませてもいい。


 しかし客は「それもない、私には」なんて事を言う。


「国民登録証、魔法免許証、マギア教会カード……などのいずれもでしょうか?」


「……そう」


 男は押し黙る。

 ニュアンスからして、持ってくるのを忘れたと言った類ではなさそうだ。


 事情がどうであれこのままでは売買契約が成立しない。

 男は苦慮した挙句、売買を非合法的に行う事にした。

 何も求めずに品物を受け取りその代価を支払う。

 記録上では何のやり取りもなかった事になる。

 危ない橋を渡ってでも手に入れるだけの価値がこの魔法石にはあるのだ。


 本来であれば取るべき『魔法紋』も、もう構わない。


 腹に一物を抱えたような笑みを浮かべながら「そうですか。まぁ、それでいいでしょう」と男は言った。




21




 6個のクリスタルと200枚の紙幣のせいでポケットがパンパンに膨らんで裂けそうだ。


 指輪の売却代金の受け取り方法は、オールリングへのチャージ、指定口座への振り込み、現金での手渡しの3つが選べたがオールリング、口座ともに無縁のリルは分厚い札束によってそれを受け取った。


 それにしても客の顔色でコロコロと買値を変えるとは、とんでもない悪徳業者を摑まされたものだ。


 途中から全てが馬鹿らしくなり乾いた笑いが出る程だったが、ある程度のお金が入手でればもうそれでいい。


 この都市の物価からして、一般人の視点から見た場合200万染は大金にあたると思われる。

 平民に準じた普通の生活を送る限り当面の生活費はこれでまかなえる。


 ちょっとだけ安堵した気分になりつつリルは森の方へ向かって往来を歩く。


 しかし、その道すがらスーパーマーケットを発見し、せっかくだから何か食料品でも買って帰る事にした。

 火の必要な物でもいい。

 あの人間の少女に命じれば、煮たり焼いたりぐらいはするだろう。


 すぐ先にある『Egg』と名のついた店へ足を向ける。

 先程の貧相な質屋とは違い、出入口は自動となっていて近づくと左右の扉がスッと開く。


 店内へ一歩入ったところで冷気が全身に触れた。

 涼む為に発動していた氷魔法をリルは解く。

 

 無機質な外周とは裏腹に内装には木材が使われ、木の爽やかな香りや温かみのある目に優しい色が出迎える。

 

 少し進んだ所には何かの植物を編んで作られた枯野色の買い物カゴが幾つも積まれていた。

 自然を感じさせる見た目で店内の雰囲気と上手く調和している。


 それを1つ手に取り歩き出す。

 するとカゴがひとりでに手から離れふわふわと浮遊したかと思えば、リルの後を追従し始めた。


 少し驚いた気分になるが、辺りでは同様の光景があちこちで見られる。

 どうやらそう言う仕組みが備わっているらしい。


 様々なコーナーへ足を運びながら広い店内をリルは巡る。


 人間の食品に対する趣向の深さはこの時代でも健在のようで、1つの調味料をとっても多くの種類の物が並んでいる。


 リルは最終的にパック入りのベーコンと卵を1パックずつ、それにこの店オリジナルのショッピングバッグをカゴの中に入れた。

 ショッピングバッグはちょうどポケットの中の荷物を移す場所として使えるかもしれないと思った。


 リルは会計場所へ近づき、他の客たちの動きを観察してみる。


 カゴを所定の台座へ置くと、専用の装置が商品を読み取り支払い金額が算出されるようになっているらしい。

 非常にシンプルで効率的だ。


 前の客が会計を終えたところで、リルもチャレンジしてみる。

 表示された金額は2430染。

 現金以外の支払いはできない。

 だから獲得したばかりの1万染札をポケットから抜き出しそれで支払いを済ませる。


 それまでポケットを膨らませていたクリスタルと札束をさり気なく商品と共にショッピングバッグの中へ放り込み、リルは店を後にした。


 ◆

  

 贖罪の門を潜ると、少し離れた場所で地面をいじって遊ぶ星恋七の姿が見えた。

 周囲には小さな砂の山が3つできている。


 こんな日差しの強い中、ご苦労な事だ。

 星恋七の頭上を鴉が大きく翼を広げて飛んでいるので、それが適度な日除けとなっているのかもしれない。


「あっ、リルお姉ちゃん……!」


 リルの姿に気付いた星恋七が立ち上がって走ってくる。


 星恋七が側に来たところでリルは空間魔法を発動する。

 

 足元の柔らかい草の感触、視界一杯に広がる木々、周囲に響く虫の鳴き声……術の発動に問題が無い事を確かめて歩き出す。


 魔法に不慣れな星恋七は相変わらずキョロキョロとしていた。


 向かう場所は星恋七の家だ。

 まともに過ごせそうな場所が現状そこぐらいしかないのだから仕方がない。


 位置情報は既に記憶している為どんどん先へ進む。

 その斜め後ろを星恋七が早足でついてくる。


 そして歩き出してしばらくした時の事だ。


 少し躊躇いがちに「お姉ちゃん、悪魔なの……?」と星恋七が尋ねてきた。


 リルは振り返る事もなく「そう」とだけ答えた。


「ふぅん……悪魔は怖くて、酷い事ばかりするの」


 星恋七が何やらポツポツと語り始めた。


 悪魔や魔獣には気をつけなければならないと両親に教わった事。

 実際に悪魔が星恋七の両親に酷い事を言ったり意地悪したりしているのを何度か目にした事。

 星恋七も突然草むらから飛び出してきた魔獣に追いかけられて必死に木の枝を登って逃げた経験がある事。


 そう言った記憶から悪魔や魔獣に対し星恋七は総じてネガティブなイメージを抱いている。

 だけれど「リルお姉ちゃんは怖くないからいいもん」と最後に付け足した。


 リルは鼻で笑いそうになった。


 都合のいい妄想だ。

 自分が一体何を目の前にしているのか分かっていないからそんな事が言えるのだろう。


 人間どころか同族ですら畏怖の念を抱く――それが悪魔の頭領たるサタンと言う存在だ。


 だがその時、リルはおかしな事に気づく。


 


 リルは思わず立ち止まった。

 それにつられて歩みを止めた星恋七が不思議そうに見つめてくる。


 かつて悪魔は人間界へ降り立ち人類と戦った。

 だがリルの敗北と時を同じくして撤退する。

 少なくともロディアの説明ではそうだ。


 なら、あれから長い時が経過したこの世界に悪魔が居座っているはずはない。


 最悪の可能性がリルの脳裏をよぎる。


 まさかが――。


 あの戦争の真の目的は魔神を含むリグマ一味の始末だ。

 しかしそれが果たされたのかどうかはリルには分からなかった。


 時系列からしてリグマの殲滅に至らないまま兵が引き上げられ神族との戦争が開始された可能性がある。

 その後の魔界はサタン家とマモン家の凋落、内部分裂など自分達の事だけで手一杯の状況だった。

 そしてようやくそれらの諸問題が片付いたのはつい最近の事だと聞く。


 だとすれば、その間、人間界へ気を配る余裕がなかったとしてもおかしくはない。


 魔界が機能不全に陥ったのを良いことに、リグマは人間界で勢力を拡大させた。

 そしてその子孫たちがこの時代で繁栄を遂げている。


 あり得ない話ではない――。

 

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