第10章 贖罪の門

17




 

 中までよく火の通ったネブラのステーキ。

 それをナイフとフォークでひと口サイズに切り分け優雅に口へ運ぶ。


 過剰な脂肪分を含むネブラの肉は、ある程度火を通した方がさっぱりとして美味しい。


 最近の貴族たちの間では、申し訳程度に焼いたレアが持てはやされているらしいが、元来の調理法に従う意味でもやはりステーキ肉はしっかりと焼くべきだ。


 ステーキを食べ進め少々胸焼けをしそうになったところで、黒海老と白甘葉のサラダをいただき春草のスープを吸う。


 食後のデザートはナッツ類をふんだんに使ったチーズパイだ。


 どれも上品な味わいで心が満たされる。

 気持ちの良い夜を過ごせるだろう。

 これを作った料理人を褒め称えたい気分になる。


 そう思っていると、黒いコック帽を頭に乗せた巨大な悪魔の顔がスッと目の前に現れた。

 そして「お味の方はいかがですかな」と聞いてくる。


 「上々」と答えたところニンマリとコックが笑う。


 そして後ろを振り返り「やりましたぞロディア様! 此奴はもう終わりです!」などと大騒ぎを始める。


 戸惑いを覚える間もなくコックの背後の扉がバタンッと開き、背の高い色白の悪魔が部屋の中へ入ってきた。


「ハッハッハ間抜けめ! それは毒入りだ、死に晒せ!」


 ロディアが高らかに笑う。


 絶句していると、ロディアが更に言葉を続けようとする。


 しかし何だか声のトーンがおかしい。

 言っている事もおかしい。


 高い声で「おねーちゃん! おねーちゃん!」と叫んでいる。


 ◆

 

――おねーちゃん起きて!


 その声が大きくなっていくのと同時に体に熱さを感じた。


 リルは「うぅん……」と唸りながら目を覚ます。


 夢か――。


 体を起こしながら、昨日までの出来事を思い出す。

 そうだ、あの後近くの木に登って眠ったんだった。


 それにしても何て舐めくさった夢だろうか。

 心の中で舌打ちをする。

 朝から腹立たしい気分にさせられる。

 

 少し体を起こすと、東の空から頭をもたげる朝日が視界に入る。

 その光に全身が熱せられていたようだ。

 特に黒い生地のドレスは光を吸収しやすい。


 伸びをした後、リルは木の上から飛び降りた。

 

 すると、ちょうどすぐ近くに立っていた例の少女が元気な声で「朝ごはんできたよ!」と言ってくる。


(朝ごはん……?)


 少女の指差す方へ目を向けてみると、庭の茂みの上に白い丸皿が2枚とガラス製のコップが2つ置かれていた。


 2人分用意されている。


 1組は少女のものだろう。

 ならもう1組は私の分?


 少し驚いた気持ちで見つめていると、少女がリルの手を引いて歩き始める。

 それに促されるようにリルは“食卓”へ向かった。


「よいしょ」


 食器の前に少女が腰を下ろす。


 リルは皿を覗き込んだ。

 小さな木の実が5つに、親指ほどの小さな魚が3匹、それに山菜さんさいが一束乗せられている。

 そばに置かれたコップの中は水で満たされている。


 少女の手作り料理のようだ。

 加熱調理されているようで、どの食材も薄らと焦げ目がついていた。


 何のつもりかは分からないが、朝食をサービスしてくれるらしい。

 1食分の食料を探す手間が省けてラッキーとでも思っておこうか。


 そう納得させてリルは少女の向かいに着席した。


 少女は皿の上に置かれたスプーンを右手に持つと「いただきます」と言い料理を食べ始める。


 何とも質素なメニュー。

 周囲の自然からどうにかかてを得て生き延びているようだ。

 

 家の方へ目を向けると、幸いな事にキッチンと思しき場所は火の手から逃れられたようでかまどなどの調理設備を確認できた。


 あまり美味しそうには見えないし起きがけで食欲も薄いが、少女に合わせてそれを頂く事にする。


 スプーンを使ってまずは木の実を口に運んでみる。 


 思ったよりも火の通りは良好で、顎に少し力を加えるだけで上下にグシャリと潰れた。

 独特の渋みや苦みそれにかすかな甘みが口の中へ広がる。

 十分に噛んだところでそれを飲み込む。


 次に小魚へ手を付ける。

 内臓や骨などを取り除いた形跡はない。

 しかしこんな小さなサイズであれば丸ごと食べてしまっても苦にはならないだろう。


 小魚を口に入れて咀嚼する。

 木の実と同様、特に味付けはされていないようだが、身に含まれる塩分のお陰かそれほど物足りなさは感じなかった。


 やはり肉類は美味しいものだ。

 早くも3匹を食べ終え、口直しとばかりに山菜へスプーンの先を伸ばす。


 火に負けてパリッとした葉や茎が噛むたびに乾いた音を立てる。

 良く言えば素材本来の、悪く言えば青臭い味わいが口内と鼻腔を刺激した。


 最後に水を飲み干し、あっという間に朝食を終える。

 

 少女の方はまだ半分ほど料理が残っている。

 それを眺めながら「火を使うのは怖くないの」と何となしに少女へ尋ねてみた。


 火によって平穏な生活や大切な家族を奪われてしまったのだ。

 その恐ろしさは身に染みているに違いない。

 そんな中それを用いるのはなかなか胆力がある。


 食材を運ぶ少女のスプーンの動きが止まる。

 そして「もう、大丈夫……」と短く答えた。

 その目はどこか憂いを帯びている。


 その表情や言葉の中に、少女の辿ってきた険しい道のりを垣間見たような気がした。


 両親を亡くしたのは去年の夏の暮れ頃だと言っていた。

 ならその後すぐに秋と冬が到来したはず。


 かつての記憶通りであればこの世界、この国の冬は寒い。

 火の温もり無しに生きていくには、それなりの困難が伴う。

 もしかしたら厳しい冬の寒さを生き抜く為に火に対する恐れを克服せざるを得なかったのかもしれない。

 なんとも皮肉な話だ。


 ◆


 両親から学んだ知恵なのか、家事用の水と飲み水を分けているようだ。

 青いバケツに入っている水を使って少女は2人分の食器を洗っていた。


 近くに置かれたシルバーのボウルの底に陽光が差し込みキラキラと光っている。

 こちらには飲み水が蓄えられている。


 それをじっと見ながら「この水、どこから持って来たの」と聞く。


 よく見ると葉の切れ端や小さな砂粒などが混入している。

 やはり衛生面に問題がありそうだ。


 少女によれば、ここから少し離れたところに川があり、そこから生活に必要な水を定期的に汲んできているらしい。


 洗い物が終わればまた汲みに行くと言うので、リルもそれに同行する事にした。


 ◆


 少女を先頭に北の方角へ歩いていたところ「お姉ちゃんのお家は?」と少女が聞いてくる。


 リルは顔をしかめながら「もうない」と言葉を返す。


 魔界の玉座に座っていたはずの悪魔が今や住むあてもなく人間界の僻地を彷徨っている。

 とんだお笑い草だ。


「お姉ちゃんも私と同じ?」


「同じ……? 馬鹿は休み休み言いなさい。あんたとは訳が違う」


「ふぅん……」


「あと、私はあんたのお姉ちゃんじゃないから」


「なんて言うの……?」


「何が」


「お姉ちゃんの名前」


 しばらく口をつぐんだ後「周りから、リル様と呼ばれていた」とリルは答えた。


「じゃあ、リルお姉ちゃん!」


 何だか呆れ気分になった。


 それから少女が「私、星恋七せれなって言うの」と勝手に自己紹介をしたので、どうでもいい雑学程度に記憶しておいた。


 それから30分ほど経過した頃、星恋七の言う川が前方に見えてくる。


 幅20メートルぐらいの小さな川だ。

 蝉や鳥の鳴き声に混じって木々の間をこだまするせせらぎに心が癒される。


 リルは川のほとりから水面みなもを覗き込んだ。

 水深は浅く、穏やかな水流の中をいろいろな種類の魚が泳いでいる。

 川底には水棲の昆虫や植物が姿を見せている。


 家から持ってきた荷物を星恋七が川縁かわべりへ置く。

 ボウルと白いバケツが1つずつに服やタオル。

 星恋七の体からすれば大荷物だ。

 火事の熱による影響かバケツの口は歪な楕円形に形を変えている。


 星恋七は川の縁に膝をつくと、姿勢を低くしながらボウルの中に川の水を入れ始めた。

 それから3分の1ほど水が溜まったところでボウルを水面から出す。


「もっと入れればいいじゃない」


 中途半端な仕事ぶりに横から口を出したところ、「重くて持って帰れなくなるもん……」と星恋七が言った。


 ちょっとの水の重さぐらい魔法を使えば簡単に――そう言いかけてリルは気づく。


 


 街中で出会った人間たちは例外なく魔力の気配を放っていた。

 それなのにどうしてこの子は……。


「魔法、使えないわけ?」


 何の脈絡もなくそんな事を聞かれた星恋七は目をパチクリとさせていたが、やがて「私、使えない……」とポツリ呟いた。


「どうして」


「わかんない……」


「他の人間たちは使えるようだけど」


 すると星恋七が奇妙な事を口にした。


「うん、白い服の人たちは使えるの。でも、私やお父さんとお母さんは使えない……あと村の人も」


 リルは眉をひそめる。


 白い服の人たち――村の人――。

 一体なんの事を言っているのだろう。


 この子の両親も使えないのなら、もしかすると何か遺伝的な要因でもあるのだろうか。


「白い服の人たちって言うのは?」


「えぇとね、魔法が使えて遊んでくれるの!」


 悲しげな表情から一転、嬉しそうに星恋七が言う。

 何か楽しい思い出があるのかもしれない。


「それは何をする人?」


「分かんない……。でも、白い大きな服を着てていろんな魔法が使えるの」


「ふぅん……。じゃあ村の人って言うのは?」


「ずっと前にお父さんとお母さんと一緒に人が沢山いる所へ行ったの! そこで白い服の人たちが遊んでくれて、お菓子やジュースもくれて――」


 星恋七の話を整理すると、この森のどこかには人間の集落があるらしい。

 星恋七と同様そこには魔法の使えない人々が集う。

 たが時々村を訪れる白い衣装の集団に限っては魔法を使う事ができ、周囲から一目置かれているようだ。


 いろいろと不思議な話だった。

 この森のすぐ隣では高度な魔法都市が形成され住人は魔力を有するのに、ここにはそれを持たない人々が集まる。


 なぜ人々は発展した街ではなくこんな辺鄙な森の中に住むのか。

 なぜ魔力を有しないのか。


 ◆


 水を汲み終えた星恋七は次に白色のバケツを持って川の中へ入って行った。

 それを底の方へ沈めじっとした後に勢いよく引き上げる。


 しかしバケツ一杯に貯まった水が重すぎるようで、なかなか水面から上に持ち上がらない。


 そこで幾らか水を減らして軽くなったところで、バケツを持って川縁へ上がってきた。

 捕獲したばかりの小魚を両手ですくい草むらへ置くと再びバケツを手に川へ入っていく。


 星恋七なりの漁のようだ。

 今朝の食卓に並んでいた小魚もこうやって川から獲ってきたのかもしれない。


 それから時間と労力を掛けて漁を終えた星恋七は、草むらに放置された魚を再びバケツの中へ回収した。

 バケツの底では10匹近くの魚たちがどこか窮屈そうに泳いでいる。


 その後、星恋七は服を脱いで川の中へ入っていった。

 そして水浴びと洗濯を始める。

 着ていた服をパシャパシャと洗い、家から持参したタオルで体を洗う。


 慣れた動きだ。

 この川は星恋七にとっての生命線となっているのかもしれない。


 私も水浴びでもしようかな……。

 近くでそれを眺めていたリルは星恋七につられる思いだった。


 貴族の女が肌を晒す場所など限られる。

 少なくともこんな開け放たれた場所ではない。


 だが辺りに人気ひとけは無さそうだし、唯一近くにいるこの人間の少女も取るに足らない存在だ。

 気にする必要はないかもしれない。


 そう思ったリルは流れるような動作で漆黒のドレスを頭から脱いだ。

 それと同じ色の下着が現れ、それも1つずつ外していく。

 一糸まとわぬ姿になると体全体が生暖かい風に撫でられ妙な解放感を感じる。


 それからゆっくり川へ足を進める。

 つま先をそっと水につけ温度を確かめてみる。


 真夏とは言え体温を大きく下回るのでヒンヤリとしている。


 川の中央まで進むとそこで仰向けに寝転がり、顔だけを出して水中に浮遊する。

 水魔法で全身を包み込むような水流を作り出し体を洗う。

 まるでマッサージでも受けているかのような快適な気分になった。


 川縁へ目をやり、脱ぎ捨てられている衣服を魔法で手繰たぐり寄せる。

 そして水魔法によって水中に発生させた渦の中にそれを放り込み洗濯を開始する。

 

 しばらくそうしてから、最後に顔を洗って川を出る。

 火魔法と風魔法を使って体と服を急スピードで乾燥させる。


 白い裸体を自然の中に晒して立ちながらリルはそっと頰を撫でる。

 メイクが落ちきっていないのかベタつきが残っている。


 水で洗う程度の事しか出来ないのだから仕方がない。

 早いところ暮らせる場所を探して日用品なども揃えねば。


 リルがそんな事を考えていると「わぁすごい! お姉ちゃん、魔法使えるの!?」と、先に川から上がり新しい服に着替え終えた星恋七が感嘆の声をあげる。


 渦巻き状の温風により宙で回転する衣服を目で追っていた星恋七は思い切ったように体をそこへ入れた。


 どうやら風を利用して髪を乾かすつもりらしい。


 ◆


 行きと同じぐらいの時間をかけて星恋七の家に戻ってきた頃には強い喉の渇きに襲われていた。

 氷魔法で適宜体を冷やしていたものの、動けばそれだけの水分が失われる。


 暑さを凌ぐ手段をほとんど持たない星恋七は尚更そのようで、バケツとボウルを家の奥へ仕舞い、濡れた服を近くの木の枝に干した後は、さっそく水を飲もうとしていた。


 しかし、星恋七がボウルの中へコップを入れようとするのを見たリルはそれにストップをかける。


「川の水は蒸留しないと飲めない」


 言われた意味が分からないのか星恋七は頭の上に疑問符を浮かべている。


「それ、貸しなさい」


(どうせ私も飲むんだから、代わりに蒸留してしまおう)


 ボウルを両手で抱えながら星恋七が駆け寄ってくる。

 それを受け取りつつ「もう1つ同じような物を綺麗に洗って持ってきて」と指示を出す。


 すぐに星恋七は家の方へ向かい、重ねられた食器や調理器具の中から新しいボウルを引っ張り出す。

 そしてそれを近くに置かれた青いバケツの水を使って洗う。


 火事の火によるものか所々黒く変色している。

 普段は綺麗な物を優先して使っているようだ。


 今受け取ったばかりの水の入ったボウルにリルは重力魔法をかける。

 すると空中でフワフワと浮遊し始めた。


 それを見ていた星恋七がはしゃぎながらこちらへ近づいてくる。


 次にリルは火魔法を使ってボウルの底を下から炙る。

 急激な温度上昇により側面に付着していた水滴が瞬く間に蒸発しジュっと音を立てた。


 ついでに星恋七の持っている物も同じように浮かせて熱し簡単な殺菌を行う。


 しばらくするとボウルの中の水が沸騰し湯気が上る。

 それを素早く氷魔法で冷却すると、冷やされた水蒸気が空中で凝結し氷の結晶となってサラサラと地面へ降り注ぐ。


 雪のようにきらめくその結晶をもう一方のボウルへ器用に溜めていく。


 しばらくして全ての水を蒸留し終えたリルは、ボウルの中の残留物を星恋七に見せつける。


「見てみなさい。水をそのまま飲んでいればこれだけの不純物が体の中へ入っていたわけ」


「黒いのが溜まってる……」


 底に溜まる黒焦げた物質を見た星恋七は信じられないと言った風な顔をしていた。


 その後リルは蒸留したばかりの水で水分を補給した。


 星恋七も同じようにコップに水を汲んで飲んでいたが、ボウルに溜まった水の幾らかはまだ凍ったままで、それが目新しいのか楽しそうに指先でつまんでは口へ運んでいた。

 まるで氷菓子でも食べているようだ。


 ◆


 星恋七が家事や炊事などで慌ただしく動き回るかたわら、リルは木陰で休息をとっていた。


 目を閉じてじっと考える。

 さて、どうするか。


 必要な物資を街から調達しようにも、まずは“人間のお金”を手に入れなければならない……。

 最悪、襲撃をしかけて強奪でもすれば話は早いが、今はもう何のバックアップもないのだから面倒事は出来るだけ避けたい。


 そうやって考えにふけていた時、とある案が閃く。


 そうだ、質屋だ――。

 この世界にも質屋やそれに類する店が存在しているはずだ。


 そこでは大抵、質預かりと買取を行う。

 品物を担保にお金を借りたり、品物を売り払ってお金を得たりする事ができる。


 リルは身につけている装飾品を確認する。

 首にかけたペンダントが1本、右手の中指と人差し指それに左手の人差し指に嵌めた指輪が3個の計4点。


 どれか1つを換金できないだろうか。


 そばを通りかかった星恋七にリルは尋ねた。


「どこか、良い質屋に覚えはない?」


「しちや……?」


 星恋七は首をかしげた。




18




 南の方角へリルは歩みを進める。

 その後をトコトコと星恋七がついてくる。


 質屋と言う言葉が分からないのはまだしも、少し先に巨大な都市が存在している事すら今の今まで星恋七は知らなかったらしい。


 街のある場所――南の方角に向かって森を進んではならないと両親から言い含められていたようだ。

 その理由は不明だが、おかげで森の南側は星恋七にとって未知の領域となっている。


 思い立ったが吉日とばかりにさっそく街へ向かおうとしたところ、「私も行ってみたい」と星恋七が言うので好きにさせる事にした。


 どれを売るべきかと頭の中で思案する。


 まずペンダントは論外だ。

 『ヴェリタの雫』と名付けられるこのペンダントは魔界の至宝とも言うべき一品。

 先祖代々に渡って時のサタン家当主へと受け継がれてきた大切な物だ。

 これ1つで魔界の全てに匹敵する価値があると見る向きも存在する。


 プライスレスとはまさにこの事。

 売るどころか人前で晒す事すら本来であれば躊躇われる。


 自分が死にでもしない限りこれを手放す事など考えられない。


 身につけている3個の指輪のうち、左右の人差し指に嵌めている物にも希少価値がある。

 これを手に入れられるのであれば自分の領地を手放してもいいと言う貴族も中にはいるだろう。


 となれば候補は右手の中指に嵌めている物だ。

 石座の上にブルーの魔法石を乗せるこの指輪には他の物と違いとしての価値しかない。


 当主の座に就いた時にお祝いの品として他国の王より贈られた思い出深いリングだが、手放すとすればこれしかない――。


 考えの定まったリルはここから先は魔法を使って移動する事にした。


 ピタッと足を止めると、少し遅れて後をついてきていた星恋七がそばにやってくる。

 不思議そうな顔で見上げる星恋七に構う事なくリルは空間魔法を発動した。


「わっ!」


 魔法の効果範囲の中にいた星恋七の体もリルと一緒にジャンプする。


 ◆


 少し前方には黒い壁が威圧感を放ちながら構えていた。

 真ん中あたりでは例の空間が口を開けている。


 そこへ向かってリルは歩行を再開する。


 初めて経験する魔法作用や見慣れない建造物に驚きを隠せないのか、星恋七はしばらく目をしばたたかせていたが、リルとの距離が開きだしたところで慌ててその後を追い始めた。


「ここは……?」


 不安そうに星恋七が尋ねてくる。


「新都とか言う街。そこの防壁みたいなのを抜けて少し先に行けば市街地へ入れる」


 その時、星恋七がリルのスカートの裾をギュッと掴んできた。

 辺りの殺風景な景色や遠くに見える巨大なビル群などに圧倒されて心細く思っているのかもしれない。


 その無礼な行いにリルは思わず顔をしかめる。

 だが子供のする事だと放っておく。


 それから真っ直ぐ進んだところで向こう側から何か人影のようなものが近づいてくるのが分かった。


 この場所で自分以外の姿を見かけるのは初めてだったリルは警戒心を滲ませる。


 相手との距離が狭まるにつれてその外見があらわになる。


 フードの付いた焦茶色のマントを頭から膝まで被っている。

 フードに隠れて顔つきは分からないが背格好からして恐らく男だ。

 俯き加減で歩いているためか、どうやらまだこちらには気づいていない様子だ。


 しかし数十メートルほどの距離まで近づいた時、相手の体が衝撃を受けたように震え、歩みが止まった。

 顔を上げこちらの動きを注視している。


 一体何者か。何の目的でこの場所にいるのか。

 リルは構えつつ進み続けた。


 だがその時「おい、止まれ!」と低い怒鳴り声が前から響いた。

 そしてこちらに向かってズカズカと男が歩いてくる。


 戦闘になるかもしれないと思ったリルは瞬時に体流魔法を発動する。


「お前、悪魔だな……こんなところで何をやっている!?」


 目の前までやってきた男の第一声はそれだった。

 一目で悪魔と見抜かれた事に少々リルは驚く。


 フードから覗く口元や顎には無精ひげが貯えられており口調も合わさって粗暴そうな印象を受ける。


 リルが無言でいると、男は星恋七の方をチラッと見て「その子は革命区の子だろ。贖罪しょくざいの門を潜らせて殺すつもりか?」と非難めいた口調で言葉を放ってきた。


 革命区……? 贖罪の門……? 潜らせて殺す……?


 男が何を言っているのかさっぱり分からなかった。


 リルが眉根を寄せていたところ「悪魔に連れてこられたのか? さぁおいで、助けてあげよう」と先ほどとは打って変わって優しい声音こわねで話しかけながら星恋七に向かって男は右手を差し出した。


 不届き者の悪魔が人間の子供に危害を加えようとしているとでも思われているようだ。


 しかし星恋七は体を硬直させたまま、それには応えなかった。

 それどころかスカートを握る手に一層力を込めて泣きそうな顔でリルの後方へと体を隠した。


 それを見ていた男が不可解そうな顔をする。


 押し黙った後「その子を元の場所へ返してやれ。それと悪魔なら悪魔らしくディアランドにでも居ろ。こんなところに来たって碌な事にはならないぞ」と言葉を吐き捨て、後ろに向かって歩いていった。


 その姿を一瞥いちべつしたリルは、男が口にした幾つかの単語を頭の中に記憶する。


 それから「あの男、あんたの事を『革命区の子』って言ってたけど、どう言う意味?」と星恋七に尋ねてみたが、星恋七は顔を横に振るばかりだった。

 

 リルは目の前を見つめる。

 男の口ぶりからして贖罪の門とやらはこの空間の事を指しているのかもしれない。


 普通であれば設けられているであろう門扉にあたる部分は確認できないが、横長く開いたこのスペースは門に見えない事もない。


 そこまであと十数メートルほどの距離。

 男の言う通りこのまま進めば星恋七は死ぬのだろうか……。


 だとすれば何故?

 悪魔の私ですら無事に通過できると言うのに?


「ここを通ればあんたは死ぬの?」


 そう聞いてみるとその言葉がショックだったのか星恋七は泣き出してしまった。


「先に進むかどうかは自分で決めればいい」


 そう言ってリルは足を動かそうとする。

 しかし星恋七が泣いたままスカートの裾を離さず歩くのを妨害した。


 中に入るのも、ここで1人で待っているのも怖いと言う。

 リルは呆れて「はぁ」とため息をついた。


 仕方がないので魔力を使って手のひらから一羽の黒い鴉を生み出す。

 それは星恋七の頭上へ向かいクルクルと旋回し始めた。


「1人が怖いならそれと一緒に居ればいい」


 そう言葉をかけたリルは贖罪の門を潜り街に向かって歩いていった。


 ◆


 星恋七にとって悪魔とは恐怖の象徴だ。

 その恐ろしさを両親から聞いていたし、森の中で暴れる姿を目にした事もある。


 だから見知らぬ男がリルの事を悪魔だと言った事はあまりにも衝撃的だった。


 でも美味しい食べ物をくれて話し相手にもなってくれたあの女の人が恐ろしい悪魔のはずはない、と星恋七は思った。

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