第9章 ひとりぼっちの少女
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リルはあの森に立っていた。
魔界以外の地に行こうとは言え、選択肢は神界か死神界か人間界かの3つしかない。
天敵の巣窟である神界は論外だ。
またロディアの口振りからして現在も死神とは最低限の和平関係にあるようだが、死神と言う種族はいけ好かないため死神界も除外。
ならば残るは人間界ぐらい。
人間も碌な生き物ではないが、この際やむを得ない。
リルはひとまず森の中を散策する事にした。
どこか生活の拠点を築けそうな場所を探そうと考えたのだ。
足元に覆い茂る草を踏み分ける度にスカートの裾が擦れ、カサカサと音を立てる。
スカートから露出した足首にヒヤリとした冷たさを感じる。
時差を考えるとこちらの世界は夜明け。
朝露が体を濡らしているようだ。
それにしてもなかなかに深い森だ。
果てしなく草木が続く。
夏らしく周りは生命にあふれている。
足元には雑草の他に野花が咲き乱れ、その上で昆虫たちが蜜や朝露を盛んに
それからしばらくした時だ。
少し前方から何やら奇妙な気配をリルは感じ取った。
一度立ち止まり感覚を研ぎ澄ませる。
魔力を含有した握り拳大ほどの何かが地面の上に置かれている。
それも複数個存在する。
一瞬『魔法石』かと思った。
魔法石は魔力を含んだ宝石類の事で一般的に装飾品として用いられる。
しかし、魔法石にしてはサイズが大きい。
(何だろう……?)
再び歩き出し、慎重にそれへ近づいてゆく。
そしてその気配がすぐ側まで迫った時、リルの視界に思いがけない物が飛び込んできた。
「……クリスタル!?」
『白色』『青色』『水色』『緑色』『赤色』『黄色』
異なる色を着けた透明感のある6個のクリスタルが草むらの上に転がっていた。
リルは驚愕する。
魔法少女の源泉とも言うべき稀少なアイテムが、まるで投げ捨てられるかのようにこんな荒れた地面の上に置かれてあるのだ。
目を疑わずにはいられない。
だが、そもそも本物だろうか? こんな場所にあるのはおかしい。
冷静になったリルは、クリスタルのうちの1個を手に取り観察してみた。
先端の尖った細長い六角柱の形をしている。
その表面は綺麗に磨きあげられ、傷一つ見当たらない。
それをそっと握ってみたところ、ドクドクと脈打つような感触が手のひらに伝わってきた。
妖精の鼓動――。
平常時、クリスタルの中には妖精が眠る。
その生命の脈動のように感じられた。
クリスタルの色は赤色。
ならば中に眠る妖精は『カーネリアン』
適格者がこのクリスタルと契約を結ぶ事で“魔法少女カーネリアン”が誕生する。
カーネリアンは火魔法の使い手だ。
3000年前のあの戦いにおいて、多くの兵士がカーネリアンの繰り出す業火に苦しめられていた事を覚えている。
他のクリスタルも順に手に取ってみたが、どれもその中に妖精らしき存在を確かに感じられた。
どうやら本物らしい――そう思ったリルはひとまずそれらを全て回収する事にした。
あいにく鞄などの収納用具を持ち合わせていないので、両方のポケットに詰めていく。
その途中で、もしかしたらこれらのクリスタルは、あの封印術を発動するためのエネルギーの一部として使われたのかもしれないとリルは思った。
インカローズが発動したあの封印術は膨大な量のエネルギーを必要とする。
それを彼女1人だけで補えるかと言えば疑問が残る。
しかし他からエネルギーを補っていたとすれば、説明がつく。
奇しくも6つのクリスタルのうち5つは、リルが命を奪った魔法少女たちの物と一致する。
契約者の死亡により役目を終えたクリスタルは、次に大技を発動する為のエネルギー源として再利用された。
そして封印が解けた事をきっかけにそれらが姿を現した……とでも考えれば辻褄は合う。
その時リルはハッと気づく。
そうだ、永遠の時の効果は術の発動者にも及ぶんだ……!
あの時、インカローズは捨て身で術を発動した訳だ。
ならば一緒に眠らされていたインカローズもいずれかのタイミングで目覚める、もしくは目覚めている可能性がある。
因縁のあの女と再びどこかで巡り会う日が来るかもしれない――。
◆
クリスタルの回収を終えたリルは引き続き森の中を歩き回った。
しかし目ぼしい収穫はない。
どこに行こうが動植物に囲まれた似たような光景が広がるばかりだ。
少しばかり休息を取ろうと手頃な木の幹に背中から持たれ掛かる。
ふぅ、と息を吐いた後、氷魔法を発動し体の表面に薄い氷の膜を張る。
急速に体温が低下し始める。
真夏の熱気に包まれ
それにしてもお腹が空いた……喉も乾いた……。
思えば丸一日ほど何も口にしていない。
寝所を探す前にそろそろ何か栄養を補給した方が良いかもしれない。
ここは森の中。
最悪その辺の生き物を焼いて食べたり川から水を汲んだりして飢えや渇きを満たす事もできるが……そのぐらいが限界だ。
それ以上のまともな食事は望めそうにない。
ふむ……なら人間の街に出て何か確保できないだろうか?
金銭の類は持ち合わせていないが、身に付けている装飾品を用いて食料や生活雑貨などと物々交換が出来る可能性はある。
そう考えたリルは“新都”と呼ばれているらしいあの都市へ再び足を踏み入れる事にした。
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街の周縁部の座標をある程度記憶していたので、空間魔法を用いてそこまで一気にジャンプする。
ジャリッとした感触が靴裏を刺激したかと思えば、目の前にはあの黒い鋼鉄製の壁が広がっていた。
それを少し横に移動したところ、壁をくり抜いて作られた例の空間が姿を現す。
以前と同様そこを通って中へ入る事にする。
私はもはや遠い過去の存在だ。
誰も私の正体に気付きはしないだろうし、仮に何かを指摘されたとしても他人の空似で押し通せない事もないだろう。
そう考えたリルは変装の必要性は低いと判断し、素顔のまま足を進めた。
左右の支柱に埋め込まれたカメラのような物からは相変わらず鋭い視線が送られてきているような気がしたが、それだけだ。
特に攻撃などを受ける事もなく無事に壁の内側へ侵入する。
無用の長物にも思えるこの防壁には一体何の意味があるのだろうか。
この空間が敵を誘い込む為の仕掛けとして機能しているのであればまだ理解できるが、その気配もない。
そんな事を疑問に思いながら、高層ビルのひしめく街に向かってリルは真っ直ぐに歩いていった。
◆
南北に伸びる通りをリルは進む。
まだ朝早いが四方八方に人の姿が散見される。
こうして顔を晒していてもこれと言った反応を周囲から得られる事はなかった。
時々向かいからやって来る男たちからチラホラと視線を感じるものの、それは恐らく若い女に対して向けられる好奇の眼差しだろう。
やはり私の事など誰も覚えていない。
この一帯は商業施設が集中しているのか、ガラス張りのショーウィンドウを伴った
ウィンドウの中には服や装飾品など高価そうな品物が陳列されており、その1つにリルは目を留めた。
質の良さそうな服を着た背の高いマネキンがスタンドに腰を支えられながら立ちポーズを披露している。
上下とも涼しげな夏服で、胸元と肩回りに花刺繍をあしらったグレーの半袖ブラウスとブラウンのハーフパンツをバランス良く着こなしている。
他にもつば広の帽子、レザー風のショルダーバッグ、通気性の良さそうな細いストラップのサンダルなど様々なアイテムを身に着けており、それぞれに値札が付けられている。
ちょうど目線の近くにあったショルダーバッグのDカンからぶら下がる値札を読み取ってみる。
製品名やブランド名などと共に『本体価格4500
4500染……。
『染』は通貨単位のようだが、そんな物を見たのは初めてだ。
記憶にある限りこの国の通貨は『円』だった。
しかし3000年も経っていれば変遷していて当然だろうと納得する。
新たな情報としてそれを頭の中にメモした。
車両や歩行者などとすれ違いながらしばらく道なりに歩く。
なんとなしに左の方へ目を向ける。
ちょうどそこは飲食店だったようで、店内に設けられた丸テーブルの前に座りながら1人の男がサンドイッチを頬張っていた。
リルは立ち止まってその店を確認してみた。
店全体がタイル調の茶色い外壁材で覆われており、出入口の上側あたりに『カフェあみすた』と白い字で店名の書かれた看板が設置されている。
出入り口の近くでは50センチ四方のボードが浮遊しており、様々なメニューの名前と料理のイラストが電光によって表示されていた。
浮いているのは重力魔法の作用によるものと見える。
文字とイラストの表示には光魔法が利用されているようだ。
人の生活に魔法が溶け込んでいる様相はどうも腑に落ちない。
どうして人間が魔力を持ち魔法を操るようになったのか――その謎は未だ解き明かされていない。
1つ1つのメニューにリルは目を通していく。
食文化の違いや長い時間の経過もあってか、知らない料理も幾つかあるが、空腹の今においてはどれも美味しそうに見える。
どれにも値段がつけられており、その単位はやはり染だ。
基本的にこの場所で物の売買を行うには、染とやらを準備しなければならないと考えて間違いないだろう。
それを持っていない以上ほかに何かを得る手段は物々交換ぐらいしか残されていないが、果たしてこの街においそれは有効なのだろうか。
それとも何か無料で提供されているサービスなどは存在しないだろうか――。
そんな都合のいい話があるはずない、と思いつつもリルは再び街の中を彷徨い始めた。
◆
街の至るところで奇妙な建造物を目にした。
それは上下に縦長く、八面体型のブロックを立てたような形をしている。
全体がコバルトブルーのガラスのような素材でコーティングされている。
それぞれの面が鏡のように青空を写し出し、見る目に鮮やかだ。
初めそれを見た時、何かのモニュメントかと思った。
しかしそれにしてはやたらと数が多い。
時折その前には人々が列をなしており、順次その中へ吸い込まれていっていた。
かと思えば反対の方向からポツポツと人が出てくる事もあった。
もしかしたらこれは何かの出入り口となっているのかもしれない。
不思議そうにリルはそれを眺めた。
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新鮮味を感じながら街を歩き続ける事1日。
気付けば日が暮れようとしていた。
何度か店や施設の中へふらっと足を踏み入れたが、目新しい商品に注意が向かう程度で大した収穫はなかった。
周りの人間の様子を見るに、この街で提供されているサービスを手に入れるには金銭での支払いが必須のようだ。
物々交換など通用しない。
ならばこの先、生活の一部を人間の街に頼るのであれば通貨の獲得を最優先に考える必要がある。
これ以上なにも出来そうにない、と思ったリルは今日のところは森へ戻る事にした。
食料の調達を含めこれからの事はまた明日以降に考えよう。
ひとまず今晩寝られそうな場所を確保できればそれでいい。
帰り道を歩いていた時の事。
突然、何かを焼いたような香ばしい匂いや甘い匂いが漂ってきた。
食欲を強く刺激されたリルはその匂いの出所を探ってしまう。
それから数十メートルほど歩いたところで匂いが一層強くなった。
どうやらすぐ先に見えている
その街角まで近づき左手側に目を向けてみたところ、道幅6、7メートルほどの通りの両側に多くの露店が軒を連ねていた。
手前から奥の方まで長くそれが続いている。
先駆的な建造物が並ぶ中、その光景はどこか時代めいて見えた。
ざっと見渡す限り、大抵の露店で食べ物を扱っているようだ。
夕飯時と言う事もあってか、それぞれの店の前は人であふれている。
商品をアピールする店員の声、見物客や買い物客の話し声、食材を調理する音に機械の動作音。
通りの入り口付近にまで喧騒が届いていた。
人間の密集具合や騒がしさには辟易する思いだが、そこで販売されている商品に興味を惹かれたリルは通りへ足を向けてみる事にした。
左右の店々を交互に見ながら少しずつ奥へ進んでいく。
時々店の近くで立ち止まっている人間や、前から歩いてくる人間と体が触れそうになるのが鬱陶しい。
木製の簡素な屋根の下で売られる色とりどりの食べ物。
串刺しの肉類を火で炙ったり、何かの具の詰まった白い生地を蒸し焼きにしたりして調理されたセイボリー(※)類。
皮の剥かれた果物にチョコレートソースをまぶしたり、一口サイズの焼き菓子をカップに盛ったりして提供されているデザート類。
この場所では多くの味覚に舌鼓を打てるようだ。
店頭では商品の値段を示したプレートが掲げられており、大体200染から500染ほどの幅で設定されている。
客が代金を支払う様子をさり気なくリルは観察した。
財布から取り出した紙幣や硬貨を用いる者もいれば、何かの機器に手をかざす者もいる。
その指には一様に黒いリングが嵌められている。
昼間にも街の至る所で同様の光景を目にした。
詳しい事は分からないが、どうやらそのリングには決済の機能がついているらしい。
夕日に照らされた路地がほんのりと茜色に染まる。
いつの間にか通りを深く進んでいた。
見物はもう十分だろう。
これ以上は目の毒だ。
そう思ったリルは体を反対方向へ向け、道を引き返す。
それにしても露店の串焼き1つすら手に入れられないとは何と言う落ちぶれようだろうか。
自らの境遇に思いを巡らせながら歩いていたところ、「そこのお姉さーん! うちのお饅頭1ついかがですかー?」と背後から叫び声が聞こえてきた。
この騒音にも負けまいとする威勢のいい声で耳が痛くなりそうだ。
心の中で文句を言いつつ足を進める。
早いところここを抜け出して森へ帰ろう。
「そこの黒いドレスのお姉さーん!」
リルの体が反応する。
もしかして――私の事?
思わず立ち止まり後ろを振り返る。
すると、10メートルほど後方のとある一軒の店の中から身を乗り出した女がこっちに来いと言わんばかりに大げさに手を振っていた。
「うちのお饅頭おいしいですよー!」
◆
饅頭と言う食べ物は魔界にも存在するし、人間界独自の物を食した経験がリルにはあった。
あの大戦における悪魔達の楽しみの1つは、占領した人間の街から様々な物品を収奪する事だった。
特に食品類はバラエティに富んだ物が多く、見た目や味の珍しさから魔界の兵士の心を魅了した。
戦いにひと段落をつけた兵士達は瓦礫と化した街の中から食べ物を見つけ出しては、良くその場でばくばくと喰らいついていた。
同じ戦線に参加していたリルはその見苦しい姿を呆れた目で見ていたものだ。
そんなある日の事。
現地で指揮をとる上官の1人が「よろしければリル様も何かお召し上がりになりますか?」などと言いながら、籠に盛られた食べ物の山を差し出してきた。
どれもビニール袋や紙袋で丁寧に包装されており衛生面には問題なさそうだ。
ひと通り毒味も済ませているとの事だったので、好奇心からそのうちの1つに手を伸ばしてみる。
包装紙には人間界の文字で『饅頭』と印字されていた。
聞けば魔界にある物よりも非常に甘味が強いらしい。
それが病みつきとなるようで兵士の間では好評のようだった。
試食してみたところ、白く柔らかい生地を嚙みしめると同時に柔らかく粘性のある中身があふれ出し舌にまとわりつくような甘みが広がった。
他の貴族たちと同様、味付けの濃い食べ物を普段あまり口にしないリルだったが、これはこれで美味しいかもしれないと思った。
◆
そんな記憶も手伝ってか、その商品に少しばかり興味を持ったリルは店へ近付いていく。
「いらっしゃいませ! まだなにも買ってないなら、うちのどうですか?」
客を1人捕まえられたと早とちりしたのか嬉しそうに話しかけてくる。
接客に手慣れたベテランのような雰囲気をしているがまだ若い。
人間の年の頃で言えば20代半ばぐらいだろうか。
艶のいい黒髪をバンダナ風のキャップでまとめている。
店の奥が調理場となっているようで、調理器具の
それを店員がスッと重力魔法で浮かび上がらせ店頭へ移動させる。
腰ほどの高さの陳列棚には重力を発生させる魔法装置でも組み込まれているのか、正方形のスナック袋に包まれながら多くの饅頭が浮遊していた。
陳列棚の外側に貼られた手書きのメニュー表に目をやる。
中の具材に違いがあるようで、全部で6種類の商品が販売されている。
桜あん、カスタード、クリームチーズ……何となく味の想像がつく物が多い。
値段はどれも300染前後。
饅頭と名がついているものの、記憶の中にある物と比べサイズが大きい。
手のひらほどもあり生地も妙にフワフワとしている。
「その桜あんのやつなら50染値引きできますよ! もう時間が経っちゃってるから」
にこやかに店員が言う。
桜あんの饅頭は1つ290染で販売されている。
なら50染の値引きで240染か。
しかし、幾らお得になろうが買う事はできない。
「その染とやらはこの国の通貨?」
「え? そうですけど」
不思議そうに店員が言葉を口にする。
「ここで買い物をするにはそれが必要?」
店員は少し考えるような素振りを見せた後に「お姉さん、もしかして海外から? 他にシオンもこの国で使えますよ!」と答えを返してきた。
「シオン……?」
「ほら、マギア教会が発行してるお金ですよ」
シオンにマギア教会――またもや知らない単語が飛び出してきた。
リルがしばらく無言でいると目の前の店員はどこか困惑したよう表情を見せた。
恐らくシオンもマギア教会もこの世界の人間なら知っていて当然の事項なのだろう。
それに反応を示さない客にどこか違和感を覚えているようだ。
「染もシオンも持ってないよ」
「そうなんですか……? もしかして財布をどこかに落としたとか?」
「そうじゃないけど」
「うち、リングも対応してますよ」
幾つかの指輪が嵌められたリルの指へ視線を向けながら店員がそう言ってきた。
「リング?」
「オールリングの事ですよ!」
時々人間たちがつけていたあの黒い指輪――どうやらオールリングと言うらしい。
私も黒い指輪を嵌めているものだから、それを所有していると思われているようだ。
「それも持ってない」
「そうなんですか……?」
時間の無駄だと思ったリルは
しかしその時。
店員が何かを思いついたように「あっ、そうだ!」と言ったかと思えば、店の奥へ行き何やらゴゾゴゾとし始めた。
それからすぐに戻ってくると、手提げつきの茶色いビニール袋を手渡してくる。
「お客さんの事情は分からないけど、せっかく来てくれたんだし、コレよかったらどうぞ」
少し訝そうな顔をしながら、リルは袋の中を覗いてみた。
すると、そこには饅頭が2つ入っていた。
「最近発売したばかりの『野菜たっぷりの肉饅頭』ってヤツです。廃棄の時間が近いから店から下げてたんですけど、今日の夜ぐらいまでは持つと思うんで、よかったら夕飯にでも食べて下さい」
リルは目を丸くした。
どうやら厚意でこれを譲ると言っているらしい。
売れ残りとは言え、見ず知らずの客にそんなサービスをして何の得があると言うのか……。
「その代わり、もしまたうちに来る事があったら、その時は是非買ってって下さいね!」
商売人然としたスマイルで店員がそう言った。
リルは無言でそれを受け取った。
◆
その帰り、偶然見かけた広場に立ち寄ったリルは中央の噴水の近くに置かれたベンチに腰掛けながらしばし休憩をとった。
この場所は妙に涼しい。
それに、そよ風が適度に吹き渡り心地良い。
一息ついた後、リルは瞳に紋章を出現させる。
紋章は魔力の流れを可視化する。
戦闘で用いれば相手が発動しようとしている魔法を予測できるし、魔法都市を見渡せばその街に埋め込まれているテクノロジーを見通せる。
誰もがサタンを忘れ去っているらしいこの時代において、それを多少使用したところで騒ぎになる可能性は低いだろう。
紋章を通して360度へ視線を巡らせる。
地面の下には毛細血管の如く縦横無尽に魔力網が構築されている。
そしてそこから供給された魔力を元に所々で魔法陣が展開されているのを確認できる。
何種類かの氷魔法に風魔法。
それを用い、利用者が快適に過ごせるようこの広場一帯の気温や風量を調整しているようだ。
魔法都市の空気はよく肌に合うが、それを人間が作り出していると言うのは複雑な気分だ。
ひと通り周りの景色を眺めた終わったリルは、先ほど貰ったばかりのビニール袋へ目を向ける。
2つの饅頭で重そうに中が膨らんでいる。
リラックスしている内に夕飯にするのもいいかもしれない。
そう思ったリルは袋の中から饅頭を1つ取り出した。
そして薄い2枚のスナック袋から露出している白い生地を齧る。
ふっくらとした刺激が歯に伝わると共に
中の具を噛み締めると油分がジワっと染み出てくる。
刻み野菜からあふれ出す甘味に、こんがり焼かれたひき肉の旨味が絶妙に味覚を刺激する。
空腹が至高のスパイスとして作用しているのか、絶品だった――。
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食後の余韻をのんびりと味わった後、例の森へリルは到着した。
辺りはもう暗い。
昼間は盛んに活動していた生き物達も鳴りを潜める。
代わりに現れるのは夜行性の昆虫や動物たちだ。
茂みの中を歩く度に、手に持ったビニール袋や
2つあった饅頭の内もう1つは食べきれずに持って帰ってきていた。
元から食が細い上しばらく何も食べておらず胃袋が縮んでしまったせいか、1つだけで満腹になってしまった。
(残りは明日の朝にでも食べよう)
幸運にも空腹を満たせたのは良いが、喉の渇きが酷い。
適当に川でも見つけてその水を蒸留して喉を潤そう。
それからしばらく移動を続けていたところで、前方の茂みが突然「ガサ……ゴソ……」と音を立てて揺れ始める。
何か動物が潜んでいるようだ。
リルは一度立ち止まりその挙動を見守った。
しかしそこに現れたのは――。
(人間……?)
どう言う訳か、人間の子供が茂みの中から顔を出したのだ。
その手には大きなバスケットが抱えられている。
夜に近づき光量も落ちたせいで、やや姿がボヤけているものの、その顔や出立ちに見覚えがあった。
封印から目覚めた時に出会ったあの少女だ。
向こうもリルの存在に気付いたようで、驚きの表情で見つめてきた。
それからすぐに「お姉ちゃん……! もう元気になったの?」と嬉しそうに話しかけてくる。
あの時の事を思い出す。
この子供は私が熱にやられて倒れ込んでいると思い込んでいたのだ。
そしてコップ1杯の水を持ってきた。
ちょうどいい。
川なんか探さなくともまたこの子供から水を貰えばいい。
そう思ったリルは出し抜けに「この前、水持ってたでしょ。それ貰える」と何の感情もこもっていない声で言った。
「水が欲しいの……? 家に帰ったらあるけど」
少女が答える。
この前の水は自宅から持ってきた物のようだ。
そこへ案内するとでも言うのか、先導するように少女が歩き始めた。
とりあえずその後をついて行く事にする。
しかし少女の歩幅が小さい為か、とてもスローペースだ。
暇を持て余したリルは背後から少女を観察した。
痩せ細った体に腰ぐらいにまで届くボサボサの黒髪。
出来の悪そうな白茶色のワンピース。
黒く汚れた靴に靴下の履いた小さな足を突っ込んで懸命に歩いている。
少女が抱えるバスケットの中には何かの木の実がコロコロと転がっていた。
もしかしたらそれを収集しにこんな場所をうろついていたのかもしれない。
一体どんな生活を送っているのだろうか。
その後何十分も歩いたところでようやく目的の場所に到着する。
少女が家と言い張るそれを見たリルは怪訝そうな顔つきをした。
「なにこれ」
家の焼け跡だった。
屋根や壁が焼け落ち家屋の中が剥き出しになっている。
焼失を免れた一部の部屋を生活の場としているようで、そこに家財道具が所狭しと集められていた。
少女はそこへ小走りで向かうと、壁を失い吹き
そしてその近くの銀色のボールの中に溜められた水をコップですくいリルの元へ戻ってくる。
「はい」
リルは言葉が見つからないままにそれを受け取った。
安全な飲み水を求めたつもりだったが、これは大丈夫なのだろうか?
まさか雨水では……。
そもそもどう言う状況なのか、これは。
再び少女が家のほうへ駆けて行ったかと思うと、別のコップで先程と同様に中の水をすくい勢いよく飲み始めた。
少女も喉が渇いていたようだ。
リルは自分の手元へ視線を戻す。
暗くてはっきりとは分からないがパッと見、汚水ではなさそうだ。
(まぁいいっか……最悪、回復魔法でどうとでもなるし)
少女から受け取ったそれを飲み干す。
生ぬるい。
しかし水分の失った体に染み渡り、生き返った気分になる。
その後、飲み終わったコップを回収しに少女が近づいてきた。
他に人気のない事が気になったリルはコップを渡しながら「あんた、親は?」と尋ねてみた。
すると少女の動きが止まり、力無く顔を横に振った。
「この家、どうして焼けたの」
「帰ってきたら、こうなってた……」
◆
少女が語るには、今から1年ほど前の晩夏の事。
家の近くで綺麗な蝶々を見かけその後を追いかけていたところ、途中で迷子になってしまったらしい。
それからどうにか戻ってくると、何故か家が炎に包まれていた。
しばらくして雨が降ってきた事によりどうにか鎮火するも、その時にはもうどしようもない状態だったようだ。
それ以降両親の姿を一度も目にしていない為、その火事で死んでしまったのだと少女は考えているようだった。
家の焼け跡の近くに小さな石を2つ置く事で簡素な墓を作り、少女は両親を弔っていた。
◆
青いバケツに溜めた水を使って少女がコップを洗う。
そのそばに立ちながらリルは瓦礫の山を見つめた。
この下に少女の両親が眠っているのだろうか。
その時カサカサと乾いた音がすると共に小さなが振動が右手に伝わってきた。
何をやっているのかとしばらくその様子を眺めていたが、その後ビニール袋を少女へ手渡した。
受け取ったは良いもののそれが何かを理解していないらしい少女は不思議そうにそれを両手で握りながら形を確かめていた。
やがて中に入っていた饅頭を取り出したところで「食べれば」とリルは声を掛ける。
水と物々交換のつもりだった。
それに元より何の対価も無しに獲得した物。
他人にくれてやったところで不利益にはならない。
リルの言葉や袋の中から漂う匂いからそれが食べ物だと分かったのか、少女は恐る恐る饅頭に口をつけた。
2、3口と食べ進めていく。
そのスピードはだんだん速くなり、終いには貪っていた。
よほど美味しかったのか、よほどお腹がすいていたのか少女は瞬く間に食べ終える。
その後しばらくボーとしていたが、その場で横になったかと思えばスヤスヤと眠り始めた。
リルはキョロキョロと辺りを見渡した後、1本の木に目星をつけ枝に飛び乗った。
仰向けに寝転がると、今後の事を考えながら静かに目を閉じた。
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※セイボリー:塩気のある軽食のこと。
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