第8章 別れの景色
11
ロディアはこれまでの人生で一度たりとも戦闘と名の付くものに負けた覚えがなかった。
対峙してきた相手が弱かったのでは無い。
誰もこの力を受け切る事ができないのだ。
重力魔法を制御できなくなった魔法使いが己の作り出した重力場に飲み込まれるが如く、強すぎる力は時として自らを蝕む。
目の前にいるこの女もいずれは同じサタンによって繰り出される魔法攻撃の波に耐えられなくなる時が来る。
しかし……。
ロディアは心の中で舌打ちをする。
その前にこの城が崩れ落ちそうな勢いだ。
戦闘が始まる前に部屋中へ結界を張り巡らせておいたが、サタンの攻撃を防ぐまでには至らないようだ。
この戦いを長引かせるのであれば、ある程度の人的・物的被害を覚悟する必要がある。
だが、そこまでの犠牲を払う価値が果たしてこの戦いにはあるだろうか?
勝利の末に獲得できる戦利品など無いに等しい。
無益な戦い――か。
「分かりました、もういいでしょう。ここは私が引きます」
そう言いながらロディアは戦闘を中止した。
◆
相手の戦意の喪失を感じ取ったリルは攻撃を止め武装を解除する。
ほんの5分ほどの戦いにも関わらず、室内は酷い有様だ。
ベッドやソファなど室内家具は原型を留めておらず、床や天井それに四方の壁は大きく崩れ落ち、その残骸が足の踏み場無く部屋中に散乱している。
しかしリルはそんな事など気にも留めず平然とした顔でロディアに言う。
「あっさり負けを認めるとはね。それじゃあ私の要求を全て飲むと言う事でいいのかしら」
それを聞いたロディアが不敵な笑みを浮かべる。
「あなたにこの世界を治められるでしょうか?」
リルは眉をひそめる。
「訳もない、元々は私がこの世界を支配していたのだから」
「残念ですが、あなたの知る魔界はもう存在しない。3000年のブランクは余りに大きい」
落ち着き払った様子でロディアが語り始める。
「あの日、あなたが失態を演じた日を境に全ては大きく変わりました」
リルはひとまずロディアの話に黙って耳を傾ける事にした。
「あの後、魔界の首脳部は速やかに人間界から兵を引き上げます。それからすぐに神族との戦争が始まった。そして、そのどさくさ紛れにマモン家の軍勢がうちの領地へ乗り込んで来ます」
「マモンが……? なぜ」
リルは耳を疑った。
「真意は今でも不明ですが、魔神の誕生を発端とする一連の騒動により失墜していた権威を、強大な力を持つサタン家を掌握する事で回復しようと目論んだ――と言ったところでしょうか」
リルの頭の中に、目をギョロリとさせた丸顔の男の姿が浮かぶ。
ネアン・デューク・マモン――マモン家の当主で、高い自尊心を持ち何よりも体面を重んじる悪魔だった。
「“急ごしらえの頭”であるあなたの兄上では、その事態に対処する事ができなかった。本来の
リルは唖然とした。
馬鹿な――サタン家が。
「しかし、本当の問題はここからです」
ロディアが言葉を続ける。
「神族との戦いは、両者共に深手を負いながら決着のつかないまま終戦を迎えます。向こうの王はまだ外界での戦闘経験が乏しかったし、我々は戦争の求心力となるはずのサタン家が機能不全に陥っていました。要するにお互い決定打に欠けていた訳です。その後、戦後処理に入った首脳部はサタン家とマモン家の両名を魔界総議会から除名します。この二家による内輪揉めが戦況を大きく左右したと言っても過言ではありませんから、それは妥当な処置と言えるでしょう。しかしそれは魔界が均衡を失うきっかけとなり、魔界はそれからなん千年にも及ぶ戦国の世へ突入します」
何も言葉が見つからなかった。
魔界総議会から除名……?
あり得ない。
七家の筆頭格であるサタン家を誰が追放できるものか……。
それ程までに影響力が低下していたと言うのか。
◆
リルが生まれる1000年ほど前まで、魔界は群雄割拠の時代にあった。
王家の血筋が途絶えた事をきっかけとする魔界全土を巻き込む動乱が発生し多くの血が流れた。
その後、亡き王家に代わり魔界を包括的に管理しようと置かれた組織が魔界総議会である。
総議会では意思決定を合議制とする事で権力者同士の力関係を均衡に保ち、不要な衝突を防いでいた。
そのパワーバランスが崩れてしまったのならば、再び魔界が戦火に包まれたとしてもおかしくはない。
――全ては私のせいだ。
「その長きに渡る戦が一応の終結を見せたのがつい最近の事です。かつての魔界は『魔王』と言う強権の
厳しい口調でロディアが言う。
「あれから長い時間をかけて我々はサタン家の復興に力を注いできました。そして、魔界の覇者として返り咲く悲願をついに私の代で達成させた。だがそれだけではまだ不十分なのです。更にその先へ進む必要がある。私は戦を終えるにあたり既に形骸化していた魔界総議会を完全に廃止させ、サタン家を筆頭とした新たな支配秩序を確立させます。それにより私は絶対的な権力を持つに至る」
「あり得ない……! そんな事を他の七家が認めるはずは――」
「悪魔は力が全て。そうではありませんか? 歯向かってくる者どもは
最後は興奮したようにロディアが言い切る。
「同じデューク・サタンであろうと、私とあなたでは『役』が違う。私は唯一無二の存在だ……。魔王の再来はすぐそこにある」
リルはロディアの目を黙って見つめる。
その奥には狂気がチラチラと見え隠れしているような気がした。
「……お分かりいただけましたか? あなたの着ける席はもうどこにもない。お引き取り願いましょう」
有無を言わせない圧力を感じたリルはため息を吐く。
「思い上がりも甚だしい……。しばらく頭を冷やしていなさい」
そう言いロディアに背を向け、部屋の外へ歩き出す。
しかし、その途中ロディアが言葉を付け加える。
「あなたに感謝している点もあります。スペルビア島の誓い。それを結んだ事に関しては、今を生きる悪魔の1人として敬意を表しましょう。その決め事が無ければ、魔界は更なる苦難の歴史を歩んでいたかもしれない」
リルは思わず立ち止まる。
目覚めてから思い出すことの無かった1つの記憶がパッと蘇る。
デューク・サタンとしての初めての仕事――大きなトラウマ――。
スペルビア島は死神界に存在する小さな島だ。
かつてそこで、当時の死神界の王と共にリルはとある誓いを立てていた。
島の名に
スペルビア島の誓いは死神との間に結んだ一種の“契約”だ。
死神と契約を結ぶには、何らかの代償を差し出さねばならない。
それが死神の王ともなれば、尚更大きなものが必要だった。
リルは遠い目をした。
契約を結ぶために、私は――。
目を閉じ首を横に振る。
今はそんな事を考える必要はない。
固い靴底を絨毯に沈ませながらリルは歩き出す。
少し進んだところで、目の紋章に反応し扉がゆっくりと開く。
それを通り抜けようとした時、ナイフのように鋭い言葉をロディアが背後から放った。
「リル・デューク・サタン。次会う時は――殺す」
リルは何も言わずに立ち去った。
◆
廊下にこだましていた足音が次第に遠くなり部屋に静寂が戻る。
「ふん」
そうロディアが呟いた後、部屋の隅の方からうめき声が上がる。
バサルトが目を覚ましたようだ。
「うぅむ……んっ!? こ、これは!?」
「ようやくお目覚めか」
「ロディア様……一体何が」
室内の惨状にバサルは目を見開いていた。
そして慌てたように自分の体のあちこちに手を当て始める。
怪我をしていないか確認しているのだろう。
「一体何が、じゃないだろ。貴様は主が戦っている時に呑気に寝ている訳か」
「も、申し訳ございません!」
「報告は遅い、戦いもせずに気絶する。一体どうなっている。お前の役は他の者にでもくれてやった方が有意義かもしれんな」
「こ、今回は突発的な出来事ゆえに対処が
くだらない言い訳を始めるバサルトをロディアは冷ややかな目で見つめる。
「今の警備体制では敵の対応にも限りがあるようだ。誰が相手であろうと、もう2度とこのような事態は引き起こすな」
厳しい言葉に、ロディアの顔色を伺いながら「善処します」とバサルトは答えた。
12
城門ではあのジェネラルとか言う兵が、おどおどしながらも睨みをきかせてきた。
しかし、そんな物に構う気分ではなかったので、そばを素通りして門を抜ける。
リルの心は乱れていた。
自責の念も手伝い、初めに抱いていた闘志は急速に引いている。
ロディアの狙いかもしれない。
己のわがままをどこまで押し通すか――それに関しては相手の資質を見定めてから判断しようと考えていた。
現代のサタン家を取り仕切る人物が、果たして長として相応しい風格を持ち合わせているか。
否と判断すればすぐにでも息の根を止めてやる。
そして再び私が頂に立つ。
だが、その点においてあのロディアと言う当主はそれらしい欠点も見当たらない。
突発的な事態にも一切の動揺を見せず、素早く相手の正体を見破り果敢に立ち向かった。
臨機応変に戦術を変えるしなやかさや、他の者を思いやる温かさも持ち合わせている。
戦闘時、ロディアの隣に居た太った悪魔が気を失い床へ倒れ込んだがその体には結界が張られていた。
室内の壁や床も同様だ。
無関係の者達に攻撃の影響が及ばないよう、ロディアが配慮したのだろう。
その後、戦闘を長引かせれば被害が発生すると踏んだロディアは当意即妙に言葉の応酬による駆け引きへ戦術を切り替えた。
そしてそれは功を奏す。
多くの命を預かる城主としては正しい判断だ。
組織を率いるだけの適性はあるかもしれない。
来た道を引き返すように歩きながら、リルは考える。
ロディアの語っていた事は恐らく全て真実なのだろう。
人間界だけではない。
魔界も大きな変貌を遂げていた。
自分の居場所へ帰ってきたつもりが、逆に爪弾きにされてしまった気分だ。
ロディアの話を聞く限り私の罪はあまりに大きい。
自分の立場を守ろうとする手前、大見得を切った部分もあるが、今の魔界に自分を受け入れてくれるだけの土壌があるようには思えない。
次会う時は殺す――。
あれはただの脅しではない。
魔界を背負う者としての覚悟がその言葉には現れている。
魔界の秩序を乱しかねない危険因子は、例え相手がかつてのトップであろうと容赦なく排除する。
あそこで見逃されたのは、同じ血を持つ者に対する一種の温情措置かもしれない。
今後魔界へ関与しないのであれば、せめて命だけは取らないでやろう。
そう言いたいのだ。
リルは一度立ち止まり、ゆっくりと辺りを見渡した。
綺麗に舗装された往来を歩く悪魔たちも、その上を滑らかに進む乗り物も、すらりと背丈の高い建物もどれも自分の知らないものだ。
親しみを覚えるのはどこまでも広がる青い空ぐらいか……。
そんな中でただ1人こうしてポツンと立っていると、まるで世界の全てから見放されてしまったような錯覚に陥る。
あの男は優秀で周囲からの信頼も厚い気がする。
なんの躊躇いもなく旧制度を打ち壊し魔王に成り代わろうとする野心には不安を覚えるが、取り返しのつかない過ちを犯した私よりかは上手く魔界を運営するかもしれない。
私情を優先するのでなく、魔界の未来を思うのであれば、ここは大人しく身を引いた方が賢明だ。
私はもう魔界から必要とされない
この世界から立ち去らねばならない。
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