第1章 サタンが目覚める日
1
真夏の強烈な日差しが、瞳孔を突き抜けその奥にある網膜を焦がす。
リルの目はあの時、あの最後の瞬間と同じように大きく見開かれていた。
その強すぎる刺激に虹彩が縮小する。
そして主の意思が不在のまま瞼がひとりでに閉じた。
風に揺れる草木のざわめき。
周囲にこだまする蝉の合唱。
真夏の喧騒が鼓膜を震わせる。
眠りから目覚め機能を回復し始めた感覚器官は、あらゆる刺激を受容し脳へ送り続ける。
しかしリルは何の反応も示さない。
あまりにも長い間、時を止めていた彼女の脳は未だに大部分の機能を停止させたまま深い眠りに就いていた。
それからどれ程の時間が経過しただろうか。
真上に位置していた太陽が少しずつ高度を下げ始め、木々の根本から伸びる影が長くなる。
リルの意識は暗く深い海の底に横たわっていた。
そこに
眩しい。
とにかく眩しかった。
光は次第に熱を帯びながら強さを増して行き、触れるもの全てを焦がし始めた。
異様な熱気に全身が包まれ、体の奥底から不快感が込み上げてくる。
本能的な危機感を感じた。
この状況から一刻も早く抜け出さなければならない。
そう思った瞬間、リルの意識は急浮上を始めた――。
◆
リルは、勢いよく目を開けた。
しかしあまりの眩しさにまたすぐ閉じる。
一体、どうなっているの――。
自身の身に何が起きているのか、何1つ理解できなかった。
体は動かず、思考も朧気ではっきりとしない。
その間も眩しい光と強烈な熱は容赦なくリルの体を刺激し続ける。
どうにかそれから逃れようと藻掻く。
体の自由が利かない。
手足を動かそうと必死に筋肉へ指令を送る。
そうするうちに、徐々にではあるが体の感覚が戻ってくるのが分かった。
体のパーツの1つ1つが確かに自分のものである感覚を得る事ができた。
リルはゆっくりと瞼を上げた。
強い光に目が
目を細めしばらくそのまま待つ。
すると次第に目が光に慣れ視界が鮮明になってゆく。
そして真っ青な空が瞳に映し出された。
(日差しを浴びている……)
ここはどこだろう。
私は何をやっているのだろう。
そんな疑問を感じつつ、体を動かしてみようとする。
全身に力を入れるが思ったように動かない。
加えた力がどこかへ分散する奇妙な感覚に襲われる。
視界の他に、体表に伝わってくる感覚や平衡感覚などから仰向けの状態で横たわっている事に気づく。
手のひらで背後を探ってみると、ザラザラとした土の感触やゴワゴワとした雑草の感触が伝わってきた。
――草むらの上で寝そべっているようだ。
腹部の筋肉に力を入れて少しずつ体を起こす。
すると視界一杯に広がる緑色の景色。
初め、それが何であるのか分からなかった。
しかし、しばらくしてから群生した木々の織りなす緑模様である事を理解する。
どうやら森の中にいるらしい。
何故そんなところにいるのかは見当がつかない。
最後に見たものは何だったか……何かヒントを得ようと記憶を探る。
すると脳裏にとある1人の女の姿が浮かび上がる。
ピンク色の髪にそれと同じ色の派手なドレスを身に纏っている。
その右手には細長い剣が握られている。
「インカローズ!」
思わずリルは叫んだ。
それを皮切りに様々な記憶が蘇ってくる。
あの日、あの瞬間の事がスローモーションのように脳内で再生される。
女の左手には禍々しい魔力が渦巻いている。
そうだ……そうだった! 私はあの時――。
その女の正体は魔法少女『インカローズ』に違いなかった。
インカローズと交戦していたリルは不意をつかれ、彼女の発動する封印術によって眠らされてしまったのだ。
リルは大きなショックを受けると共に、己の犯した過ちの大きさを実感する――。
◆
当時リルの所属する魔界は、人類およびそれに味方する魔法少女と交戦状態にあった。
それを終結させるきっかけを作ろうとインカローズを生け捕りする計画を立てたリルは、それを実行する為にインカローズの元へと向かった。
人間界には12人の魔法少女の存在が確認されており、その中でもリーダー格を務めるインカローズは様々な重要情報を握るキーパーソンであった。
敵の核心的な情報を引き出す格好のターゲットとしてインカローズに目を付けたリルは、彼女の活動拠点である『日本』という国の『東京』と呼ばれる地に足を踏み入れる。
しかしそこには『魔界のトップ』として君臨するリルの力を無効化する為の罠が仕掛けられていた。
それにまんまと嵌まったリルは長い眠りに就く憂き目にあう。
◆
リルの心の中に様々な感情が渦巻く。
しかし時間を巻き戻す事はできない。
波立つ心を一旦落ち着かせ、自身が置かれている状況を冷静に分析してみる事にした。
あの時インカローズに掛けられたのは『永遠の時』と呼ばれるこの世で最強の封印術だ。
無限と言っていい程の封印効果を発生させ、それを受ける事は即ち死を意味する。
それにも関わらずこうして復活する事ができたのは、インカローズの練成した魔法陣が不完全であったからだ。
その事には封印される直前に気付いていた。
展開される魔法陣の構成が、本来のものと一部異なっていたのだ。
インカローズが術の発動に失敗した為だと思われる。
そのおかげで命拾いができたのは不幸中の幸いだ。
本当ならもう2度と目覚める事はなかった。
だがそれでもこうして一定の効果を得るに至ったのは事実だ。
果たして私はどれ程の間、眠らされていたのだろうか――リルは疑問に思う。
そして、数ヵ月、長くて数年ぐらいではないかと推測する。
魔法は『魔力』と言うエネルギーを『魔法陣』と呼ばれる構図に沿って流す事で発動する。
魔法陣はとても繊細な性質を持つ。
いかに永遠の時が強力であろうと、肝心の魔法陣の錬成にミスがあれば何の意味も持たない。
精々、中級魔法程度にまでその効果は落ちていた事だろう。
それを踏まえ、術の効果期間は数ヶ月から数年ほどだと思った。
しかしそれでも事態は深刻と言わざるを得ない。
リルは苦虫を噛み潰したような顔をする。
数ヶ月の短期間であれ組織のトップの不在による影響は小さくはないだろうし、それが年単位であれば戦争が何らかの形で終結を見せていてもおかしくはない。
いずれにせよ一刻も早い行動が求められる。
ひとまずリルは味方勢力との合流を目指す事にした。
体の感触を確かめるようにゆっくりと立ち上がる。
(それにしても……どうしてこんな森に?)
目覚めた先が深い森である事にリルは疑問を覚える。
基本的に封印術は座標を固定する。
ならばここは最後にインカローズと戦った場所でなければおかしい。
記憶が正しければそこは都市開発が進んでおり、緑など申し訳程度にしか目にすることができなかったはずだが……。
そんな事を考えていた時、ふと後方に何かの気配を感じた。
それもそう離れてはいない。
迂闊だった――リルは瞬時に臨戦態勢へ移る。
正体不明の何者かが背後にいる。
死角を取られた時点で劣勢に立たされていると言っていい。
こんな近くまで寄せ付けるなど通常あり得ない。
体の感覚が完全な回復に至っていない事を痛感する。
リルの脳内に屈強な敵の兵士の姿が思い浮かぶ。
そいつはじっと背後から襲撃の機会を窺っている。
命の危険を感じたリルは、素早く振り返る。
しかしそこに見た姿は予想を裏切るものだった。
どう言う訳か非力そうな人間の少女が佇んでいたのだ。
眉をひそめながら、その少女を注意深く観察する。
1メートルほどの背丈で、年齢は人間で言う5、6歳ぐらいだろうか。
随分とみすぼらしい
半袖のワンピースに栄養状態の悪そうな細い体を包み、碌に手入れのされていない黒髪を長く伸ばしている。
そんな小汚い人間の少女が、何の理由か、心配そうな眼差しをリルの方へ投げかけていた。
武装をしている気配は無い。
敵意も感じられない。
だが1つ奇妙な点に気づく。
少女の手に何か怪しげな物が握られている。
よく見るとそれは木製のコップであった。
淡黄色の側面には細かな木目が幾筋も走る。
その中は透明色の液体で満たされていた。
怪訝そうにそれを見つめていると、「あのね、暑くて倒れた時は、水を飲んで涼しい所で寝たらいいんだよ」と少女が口を開く。
(……は?)
言っている意味が分からず、思わず少女を睨む。
「えぇと、前にお母さんがそう言ってたの……!」
その反応に驚いたのか、少し慌てた風に少女が弁明する。
暑くて倒れた時――それはもしかして私の事を言っているのだろうか?
先ほどまでこの酷暑の中、地面に横たわっていた。
何の事情も知らない者の目には、暑さにやられて倒れ込む急病人のように映るかもしれない。
少女の発言からして、病人に水を飲ませて介抱しようとしているらしい。
しかし言葉をそのまま鵜呑みにするのは危険だ。
真意は分からない。
そもそもここは敵の陣中であるはずの場所。
目覚めを見計らうかのように現れた人間の少女。
その手に持つ謎の液体。
あまりにも怪しい。
水と見せかけて何か毒物でも服ませようとしているのではないか――。
それもあえてひ弱そうな人間の少女を遣わす事で油断させようとしている。
もしそうならこの場で始末してやる必要がある。
リルは少女の元へ詰め寄るとその手からコップを取り上げた。
目を凝らし中の液体を観察する。
手の
サラサラとしている。
無色透明で目視の限り異物の類は見当たらない。
匂いも無臭だ。
次に液体へ魔力を流し込んでみる事にした。
何か毒物でも混入していればそれに魔力が反応して変色するのだ。
それは魔界における簡易的な毒の識別法で、装備の整っていない戦場などでよく用いられる。
爪の先からポタッと薄い水色の魔力を水面へ垂らす。
すると中の液体と混ざり合い魔力は見えなくなった。
それからしばらく待つが、予想に反して何の変化も現れない。
更に追加で何滴か魔力を流し込むも、やはり結果は同じだ。
(まさか……ただの水?)
言葉の通り、この少女は単なる親切心から近づいてきたのだろうか?
しかしリルは冷酷な性格を持つ悪魔という生き物であるが故に、利害関係や血縁関係などに基づかない思いやりの心に疎かった。
見知らぬ他人に心遣いを向けるなど理解し難い。
「飲まないの……?」
不思議そうに少女が尋ねてくる。
しかしリルは「もう良い、さっさと去りなさい」と冷たく突き放すように言う。
少女はビクッとした。
そして少し戸惑うような素振りを見せた後クルっと背を向け、どこかへ去って行った。
その後ろ姿をリルは無言で見送った。
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