聖なる怠け者の冒険/森見登美彦
お笑いというエンターテインメントを生業にする方々を、私は尊敬している。すべてがそうという訳でもないし、本人たちがそれぞれ意識的にやっているとは思えないが、彼らはネタという物語を巧妙に使役した風刺家であるからだ。
風刺というモノは扱いが難しい。風刺を巧みにするには観察眼が必要になるからだ。これが生半可な観察の上に立つモノであったならただの皮肉屋、批判家になってしまう。実に繊細微妙なシロモノであるといっていい。これがビルの側面に命を宿した絵画であったなら話は早いだろう。そこには余計な情報のない明確なメッセージのみが描かれる。そこに受け取り手の意思は介在しない。少なくとも、描かれているその間、作者が受け取り手の事を慮ることは、あまりない。芸術というモノはえてして自分の内面を、金脈を探るがごとく掘っていかないことにはホンモノにはなりえないタフな世界だからだ。むろん笑いがタフな世界でない、と言っているわけではない。使う筋肉がそれらとは明らかに複雑な方向に異なるというだけだ。演芸の場合は芸術的なそれよりも、どちらかといえば瞬発力や柔軟性が求められている気がする。そこには芸術とは全く異なる能力やセンスが必要とされる。ユーモアや物語を作る力だけでない、何か。
では、それは何なのか、それはつまりコミュニケーション能力である。表情や間のとり方、声の発し方、その何から何までもが彼らには求められている。演芸は人の目の前で身体ひとつで行うものだから、どうしてもそのような力が要求される。ひとり書斎やら工房やらに籠って作品と向き合う人には、これがなかなか鍛えられないし、鍛える必要もほとんどの場合ないといっていい。しかし生計の道に笑いを選ぶ方々が適正なコミュニケーション能力を有していないことにはおそらく非難囂々の様相を呈するであろう。ただの風刺演芸家など誰も笑ってはくれまい。彼ら彼女らはユーモアというクッションをうまく挟んで人を笑顔にできる風刺のカタチを模索しなくてはならない。
ここまで読んだ人は、「おいおい何の話だよ」と思われているかもしれない。しかし、これは森見登美彦作品においてのメタファーなのだ。
彼の文章はまさしく演芸である。仮に誰かに「それは違う」と言われても私の考えは変わらない。彼の作品を読んでいると寄席が開かれた場所で流れる囃子のような音が聴こえてくる感覚に襲われる。その感覚は他の作家さんではまず体験できない。
なればこそ。
私は森見登美彦という作家が畏ろしい。
巧みな笑いということは巧みな風刺ということだ。巧みな風刺ということはその表現の中にある異端が受信者の中にもあるという自覚をくすぐるということだ。だから彼の文章を読んでいると「面白い…あぁ、でもこわい…だけど面白くて止まらない!」ということになる。「こんなやつ居るかよ」ではなく「いるいるこういう人(俺にも思い当たるところがあるなぁ)」という忸怩をつつかれる感触があるのだ。
そしてそれらは森見登美彦作品の中ではすべてがそうであると言っていいが、この「聖なる怠け者の冒険」では、それに加えて許しの要素がある。読んでいて、知らず重荷が取り払われている感覚がある。
この作品では繰り返し、こう述べられる。
「必要なのは優しさである。〇〇が□□でいけなくてはならないなんて、いったい誰が決めた?」と。
巧みな風刺で心の奥をつつき回したあとに、この「君はそのままでいいんだよ」という青春漫画の高身長イケメン御曹司のごとき許しの感覚。ユーモアによって巧妙に隠されてはいるが、いや、隠されているからこその知らぬ間のカタルシスが読後には必ずや味わえているはずである。私から言わせてもらえば、この畏れとおかしみとカタルシスを得られていないのならば、この作品の面白さの半分も味わってないといっていい。ただ「あぁ面白かった、キャラが可愛かった」で終わってしまったら決して購入代金の半分も元は取れていまい。ぜひ腐れ大学生などの「もやい男」を描く森見登美彦さんの隠されたイケメン性とサービス精神を余すことなく味わって頂きたい。
最後のページをめくるとき、囃子の音が遠ざかっていくのがわかる。もちろんそこにはいささかのうら淋しさを孕んでいる。でも大丈夫。そうなったらまたページを繰ればいいのだ。さすれば、またあの祭の出囃子が聴こえてくるはずだ。それが小説の素晴らしさであり、持ちうる力である。まだ読んだことがない方も、もう読んだという方も、ぜひ手に取って欲しい。そしてそこに潜む畏ろしさと解放を味わって欲しい。ソファやふとんでごろごろしながら──そう、あなたもそれで聖なる怠け者になれるから。さぁ、森見ワールドへ冒険に出かけよう。
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