走れメロス/太宰治

「走れ!メロス」

 この言葉はメロスがメロス自身を奮い立たせるために、心の中でつよく唱える言葉である。辛くても苦しくても挫けそうでも、いや、もはや挫けても。走れ!走れ!そう自分に鞭打つ、メロスがメロスたらしめるために必要なメロスらしい言葉である。

 メロスの疾走感を表すためか、文体もクリスプで無駄がない。キレがあって抑揚があって切迫感のある文章だ。かと思えばユゥモアだって時折顔を覗かせる。先を読まずにいられない。メロスの、そして著者の息遣いを追わないわけにはいかなくなる。


 あぁ、この人は技術の人だ。


 私はそう思った。

 技術というモノは一朝一夕で身につくモノではない。才能だけにかまけて示せるモノでもない。苦心惨憺、骨身を削り、汗かきベソかき血を流し、ようやっとそうして身に付くシロモノなのである。太宰治といえば反社会文士の筆頭のようなイメージがある。酒と薬に溺れ、その金は嫁の着物を質屋に入れて工面するような、頭をくしゃくしゃしながら締切が来てからやっと仕事をはじめるような、古典的イメージの文士。そこには努力との接点などないようにも見える。しかし、彼のその這い蹲るような生き方が、おそらくは彼にとっての必要な鍛錬だったのではあるまいか。彼にしか成し得ないカタチの、彼だけが通過できる磨耗のフィルターだったのではなかったか。

 あるいはそう考えることは買い被りかもしれない。当人からしてみれば、こんなことを伝えられたら困惑するのかもしれない。しかし、と私は思う。文章は物語る。物語は物語る。

 彼は、たしかな努力を積んだ人だ。

 彼は「走れ!メロス」とメロスを鼓舞しながらも「走れ!太宰治!」と筆を進めていたに違いない。その熱が、手汗が、半世紀以上の時を超えてまで伝わってくる。


 そう思えるのは、短編・「走れメロス」だけを読んでの話では無い。他の8編の掌編を読むことで、その感覚は殊更に理解することが出来る。

 彼の過剰なまでに自己をほじくり返す様は、狂気ですらある。しかし、その狂気すら磨けば光る。それを体現してくれている。深過ぎる闇は微かな光すら増幅させて伝えるモノなのだ。



 話は変わるが、私はこの短編・走れメロスを中学時代に読んでいる。その当時はディオニスの最後の態度に「なんだよ都合いいヤツめ、本当に友達になりたいのならオマエも一発ぶん殴られろよ」と思っていた。

 しかし、それは文学を理解していない青二才の意見であると今は思う。あの物語のラストにはそういった反射神経的な感情は不要なのである。あの場面はたしかな重力でもって沈殿した祈りがゆっくりと舞い上がっていくところなのだ。今ではそうとわかる。しかし、この「走れメロス」を再読するまで、かつてと同じようなことを割に吹聴していたような気がする。「メロスってさぁ、あのディオニスってやつ……」と。まったく忸怩たることである。


 それを思うと、勇者でもないのに…

 私はひどく赤面した。

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