コロスの恋

青柳花音

コロスの恋



 10月。人里離れた山の中にある静かな沼で、若い女性の遺体が発見された。

 第一発見者は、その山の持ち主である老人。山を手放そうと業者を呼び、下見の為に山中を歩いている時だったそうだ。遺体は表面の皮膚がふやけてこそいたが、目立った外傷はなく、綺麗な状態であった。それがニュースで報道されてすぐ、1人の若い男性が警察へ出頭し、『やったのは自分だ』と証言したのだ。


 彼はすぐに取り調べ室へ通され、今、僕の目の前にいる。取り調べ室の壁にもたれて、彼の目の前に座っている先輩刑事の背中越しに意気消沈とした彼の顔を睨む。整った顔立ちの男の顔は青白かった。身体は痩せていて、弱々しい印象を受けた。弱々しいが、清潔感があり、綺麗という表現が似合う。彼のような綺麗な男が人を殺したとは信じ難い。ただ単に刑務所は入りたいだけの廃人の可能性もある。警察をおちょくっているのかも。男の取り調べは、とても慎重に行われた。


「名前は?」

「……坂下俊輔です」

「それで? お前は何をやったんだ?」

「はい……僕が彼女を水の中へ……」

「彼女は誰だ?」

「……すずか」

「苗字は」

「井藤すずかさん……」


先輩の声と男の小さな声、それからボールペンを走らせる音が響いている。


「遺体を何処に捨てた?」

「沼へ。……彼女が……そこへ帰りたいと……」

「……帰る?」



『どういう事だ?』と問いただすと、彼は静かになにがあったのか話し始めた。







 彼女は、自分のことを水妖(ウンディーネ)だと言っていた。


 自分の在るべき場所はこの世にはなく、何処かに存在する自分の故郷へ、いつか帰るのだと。自暴自棄にも聞こえる、その発言と彼女の生い立ち、フワリとした空気感、そして美しい容姿。全てのことが他人の目には気味悪く映ったようで、昔から友人は少なかった。彼女自身にもそれを気にした素振りは、一切見えなかったし、逆に僕がどんなに傍に居ても、気にも留めていなかった。



「しゅん、私はきっとウンディーネ。だから、パパもママも居ないの」

「違うよ。君の名前はすずかだ」

「そうね。……でもね、ここは私の世界じゃないの。私のパパもママもきっと別の世界に、水の国にいるんだよ。早くそこへ帰りたい」



そんな事を突然思い出したかのように口にして、僕の顔をチラッと見るのだ。彼女は僕を気にも留めなかったけど、邪険にもしなかった。だから僕は、彼女の保護者であるかのように、常に彼女と一緒にいた。



 小学生の頃だ。遠足で、地元の親水公園へ行った時、侵入禁止のロープを潜って、水辺ギリギリまで入っていった事がある。何の躊躇もなくロープを潜った彼女に僕は、慌てて声を掛けた。



「すずか、まずいよ」



僕の忠告なんて、耳に入らない彼女は、膝まで伸びた雑草の中を進む。慌てて彼女を追った僕に気づいた何人かの生徒が、僕たちのルール違反にヤジを飛ばしている。それでも彼女は足を止めないし、僕も足を止めなかった。水際まで進むと彼女は、感情の読み取れない声で言った。



「しゅん、私が水の中へ飛び込んだら、思いつく限りの悪口を言ってよ」

「え?」

「悪口よ。約束ね」



そうして彼女は、ドボンと鈍い音と水飛沫を上げて僕の目の前から消えた。


「へ…?」


一瞬何が起きたのか分からなかった僕は、間抜けな声を上げて固まった。僕の後ろで、ヤジを飛ばしていた何人かの悲鳴が上がる。その騒ぎを聞いて、ようやく僕は彼女が水の中へ落ちたのだと理解した。もちろん、約束なんか守れず、悪口なんて一個も言えなかった。ただただ彼女の名前を呼んで、水の中に手を突っ込むしか出来なかった。

 誰が呼んでくれたか、駆けつけた先生達によって、彼女は無事に救出され、僕も一緒に大目玉を食らった。僕は、親にも連絡され、家でも大目玉を食らい、二度としないと約束させられた。何故、侵入禁止を無視したのか何度も聞かれたけれど、僕は彼女の事を言いたくなくて、只々謝り続けた。

 



 どうして水の中へ飛び込んだのか、悪口とは何なのか、彼女に質問した。すると彼女は、僕の事を見もしないで、静かに答えた。



「帰りたかったから」

「どこに」

「パパとママのところ」

「……」


そう言われてしまうと、何も言えなくなってしまう。



「水の国に帰るにはね、水辺で悪口を言われないといけないの」

「悪口……?」


言いたい事だけ言って、彼女はまた意識をどこかへ飛ばすよう『……帰りたいな』と呟いた。僕の疑問を含んだ呟きは、無かった事にされたようだった。


 この一件は学年でも問題になったらしく、先生達は、極力彼女に関わろうとした。それでも彼女の態度が変わる事は無く、いつだってぼんやりと、どこか浮世離れした様子で過ごしていた。同級生やその保護者は余計に気味悪がって、彼女はどんどん孤立していった。

そんな彼女の隣にいるのは、本当に僕だけになってしまった。それは、可哀想な事だと思ったと同時に少しだけ嬉しかったのを覚えている。彼女を1人きりにしない為、同じ学校へ通い、一緒に登下校をし、体調を悪くした時は、僕が病院まで付き添った。何よりも、誰よりも近くにいた。それでも彼女の関心は、僕でもこの世でもなく、物語に出てくる水の国であり、いるはずの無い両親とあるはずの無い故郷であった。



 そんな彼女にある日、変化が訪れた。



「しゅん、バスケットボールて難しいの?」

「え?」

「私にも分かる程度のルール? それとも複雑?」

「……どうして急にそんな事聞くの?」

「……なんでもない」




 彼女が興味を持って何かを僕に質問してくるのは、それが初めてだった。それから彼女の周りに、僕の知らない奴がいる事が増えた。反対に、僕が彼女といる時間は徐々に少なくなっていった。

 

 この世に何の興味もなく、生きていく事さえ無気力だった彼女が、この世の男に恋をした。そいつは、彼女と同じクラスの生徒で、男子バスケットボール部に所属していた。ああ、だからバスケのルールなのか、と納得した時には、もう2人は、お互いを思い合っていて、交際を始めた頃だった。

 彼と出会って彼女は変わった。

常に明るい表情を浮かべ、鈴を鳴らしたように笑い、女友達まで出来た。僕の知る、孤独で清らかで美しい水妖の姿は、何処にも無かった。僕の知らない、可憐で純粋な少女がそこにはいた。


 それから、僕たちはどんどん一緒にいる時間が減っていった。すごい速さで。まるで最初からそうだったように。彼女は以前から、僕を気にも留めていなかったし、彼が傍にいる事で、彼女が孤独ではないのなら、僕が近くにいる理由はどこにも無かった。






 彼女と一緒に登下校しなくなって、半年が過ぎた頃、女友達何人かと談笑している彼女を見た。

 青白く陶器のようで、まるで血が通っていないかのような肌だったが、今はほんのり朱のさす。温かみのある色味になっている。人の魂を宿して、水妖はいなくなった。彼女がこの世に溶け込んでいく事に安堵しているのに、心の何処かで寂しさを感じた。孤独で清らかな水妖には、もう会えない。そして可憐で純粋な人間の少女は、僕を傍においてはくれない。それでも、彼女が以前よりずっと幸せならば、仕方のない事だった。

 今、彼女の目の前に完璧で、幸せな世界があるならば、その世界で愛されながら生きてほしい。そうして、僕らの縁は途切れて、交じり合わないまま学校を卒業した。




 再会は突然だった。


 24になる少し前、身に覚えのない番号から連絡があった。病院からだった。連絡を受けて、僕は急いで病院へ向かった。病室の中でチューブに繋がれて横になる彼女がいた。彼女は病気だった。そして、もう半年と保たないだろうと医者は言った。




「……しゅん」


眠りから覚めると彼女は僕を見つけて言った。


「呼び出して、ごめんね」

「いいんだよ」


こんな時でも彼女と視線が交わる事はなかった。僕の方を見ているようで、僕の後ろをぼんやり見ている彼女が懐かしい。

 記憶にあるより、もっと弱々しくて、今にも事切れしまいそうな彼女に、僕は不安を煽られる。柄にも無く視線を合わせようと視線の先に身を乗り出してみたけれど、どこか空を見つめるだけで、瞬き1つしなかった。


「ありがとう。……私ね、また1人になっちゃったんだ」



ぽつり、ぽつりと彼女は僕と離れてからの事を話し始めた。

 長く交際し、婚約した直後、バスケ部の彼に裏切られ、捨てられた事。そのまま友人達と疎遠になってしまった事。仕事をクビになった事。

 僕は黙って聞いていた。彼女はそのうち話疲れて眠ってしまった。

 


 その日から僕の病院通いが始まった。彼女はいつかのように浮世離れした空気を纏って、病院のベッドの上で時間を持て余しているようだった。暇つぶしにと家から文庫本をいくつか持ってきたけれど、小説を読む体力も続かないらしく、ページをめくってはすぐに閉じ、脱力する姿をよく見た。ならば音楽は! と思ってプレイヤーを用意したが、癇に障って煩わしいと一蹴された。



「……帰りたいなぁ」


ある日、彼女は呟いた。


「何処に?」


僕の質問を無視して、そのまま眠ってしまった。














「しゅん、水の綺麗な湖には精霊が住んでるんだって」


彼女と突然再会してひと月。ベッドから上半身を起こして、窓の外を見ながら僕に言った。


「近所だと何処だろうね」

「……考えた事なかった。ネットで調べたら出るんじゃない?」

「ネットに載ってないような場所だよ。精霊が住んでるんだよ? 観光地とかじゃなくて、誰も知らないような」

「誰も知らないなら見つけようがない」

「でも、行きたいな。そんな所に」


言いたい事は、何となく察しがついていた。でも、そんな話はしたくなくて、僕は分からないふりをした。


「元気になったらね」


口から発された言葉を音で認識した時、その響きの白々しさに腹が立って、自分が心底嫌いだと思った。出てしまった言葉を飲み込む事はできないが、これ以上余計な事を言うまいと、グッと唇を噛む。そんな僕をいつの間にかこちらを向いていた彼女が、薄ら笑みを浮かべるようにして見ていた。


“白々しいね”


そんな事を言われているような気がして恥ずかしくなった。


「私、あの山が怪しいと思ってるのよ」


窓から見える遠くの山々を指差す。


「あの中のどこかにとっても澄んだ綺麗な湖があるんじゃないかって踏んでるの」

「無いかも」

「絶対ある」


自信に満ちた声で断言する彼女が僕は不思議で仕方なかったが、『そうか』と頷いて終わった。そのやりとりから2週間で、彼女は息をひきとった。

 


 遺体は業者に頼んで、僕の借りている部屋へ運んでもらった。友人達だけの静かな別れをして、火葬場を予約すると出鱈目を言った。不審がられたけれど、ほんの数日、自由に出来れば良かったので、半ば強引に押し通した。病院でぽつりと溢した『帰りたい』が頭から離れない。彼女の望みを叶えなければ。まるで呪いのように、僕はそれしか考えられなかった。

 彼女の腐敗が進む前に湖を見つけるのは、さすがに無理だったので、近所に住んでる爺さんが随分前に自慢していた、爺さん所有の山にある沼へ運ぶことにした。

 爺さんは、もうすぐ山を手放すそうで、『その前に一度沼が見たかった』と言ったら、気を良くして、次の日には案内してくれた。爺さんの山は、コンクリートまでは敷かれてないが車で入れるようになっていた。

 噂の沼は想像よりずっと綺麗な場所だった。木々の葉が色を変え、それが水面に反射している。


「いい処ですね」

「なかなかだろう?」

「本当に手放しちゃうんですか?」

「俺も歳だから、管理なんかも出来ないしなぁ。坂下くん、あの小道が見えるかい?」

「はい」


爺さんが指さしたのは、荒れた遊歩道って言葉がぴったりな丸太を半分に割ったような木材でで足場を作った、小さい道。


「あれを行くと、あの崖の上に着くんだ。上から水辺を見下ろせる。この時期、周りの木が紅葉するからなぁ、そら良い景色になるんだ」

「下からでも綺麗ですもんね」

「上からのはもっと良いんだ。手放す前に他人様に自慢できて、良かった」

「もっと早く、連れて行ってとお願いするべきでした」

「嬉しいねぇ。そう言われると、惜しくなってしまうなぁ」


爺さんは『はっはっはっ』と機嫌よさそうに笑った。



 一度行ったと言っても、夜中に山中を彷徨くのは危ない。目的を達成できないまま遭難は困るので、夜明け前に家を出て、日が出るのを山の裾で待ち、明るくなり始めると同時に山中へと入った。爺さんは次に山に入るのは業者との下見の時になると言っていたので、昨日の今日で爺さんが山へ登る事はないと思われた。

 昨日と同じ道を進んで、沼のほとりへ辿り着いた時には日も更に高く上がっていて、気持ちがいいくらいだった。沼のほとりの小道を人一人担いで運ぶ。これが想像を絶する大変さで、傷まないように運ぶのは無理だった。体液は出る、腐敗臭が少しずつ強くなる。硬直が始まって体勢も変な風に曲がっていく。これをビニールシートと毛布にくるんで担ぐのだ。普通なら発狂しそうなものだが、僕は落ち着いていた。理由は簡単で、目的がハッキリしていたからだと思う。やるべき事が分かっていた。ゴールも知っていた。そして、最後くらい彼女の役に立ちたかった。

 

 沼を見下ろす断崖の上に着いた時、僕はあまりの美しさに息を飲んだ。見下ろす沼は、空の青と木々の黄色や緑や赤を写して、昼を過ぎた高い太陽が風でキラキラと波打っている。なんとも素敵な景色だけれど、10月だ。水辺に吹く風の冷たさが、水の冷たさを容易に想像させる。風の冷たさに身震いした時、彼女の生前の声が頭の中に響いた。



“ここは私の世界じゃないの”


“早くそこへ帰りたい”



僕は彼女をおろして、リュックの中からダンベルをだして彼女の横に置いた。毛布の上からロープを巻いてダンベルをくくりつける。




「すずか、」



作業をひと段落させて、僕は最後の大事な仕事にかかった。


「……化け物め。お前なんか……水の国へ帰ればいい……。二度と人間の邪魔をするな」


 僕は彼女を静かに罵った。

 

 彼女が故郷と呼んだ、水の国へ帰れることを願って。

 いくら罵るフリでも人間、思ってもいない事を言うのは辛いもので、胸が詰まるような息苦しい感覚に襲われた。


「愛されるはずがない。我が儘なお前なんか。帰れ……行っちまえ……」



後味が悪い。後悔が残りそうで気分の良くない手向けの言葉だが、大事な事だった。

 言い終えた僕は、括ったダンベルを手に持って彼女を担ぎ上げた。船すらないこの状況で、少しでも深いところへ沈めてあげるためには、この方法しかない。


 僕は、力一杯投げた。彼女を包んだ毛布の塊が投げ出したダンベルに引っ張られて少し飛距離を伸ばす。


「すず……」


思わずこぼれた呼びかけを遮るように、彼女は急降下し、盛大な水飛沫をあげ、水面に叩きつけられた。

 そんなに重い重しじゃないけど、それでも水を吸う毛布とダンベルで彼女はゆっくり沈んでいった。彼女がどんどん見えなくなる。水面を濁らせていた細かな気泡が消えて、彼女の姿も見えなくなった時、僕の目から涙がこぼれた。しゃくり上げたりせず、まるで壊れた蛇口から水がタラタラと流れるように。


 終わったのだ。彼女の為にしてやれる事は、もう終わったのだ。

 しばらく涙の出るに任せてぼんやりし、落ち着いてきたところで立ち上がり、僕は山を下った。




 これが水妖(ウンディーネ)について僕が知っている事の全てだ。












「ふー…」

男が退室すると先輩刑事は、深いため息を吐いた。


「死体遺棄だけのようですね」

「病院に問い合わせれば、すぐに裏も取れそうだな」


先輩は少しイラついた様子で自分の髪を混ぜた。


「なんでそんな……『イカれてる』。この一言に尽きるぞ」

「正統な手続きさえとれば……そもそも彼にそれをする責任もないワケで……」



先輩は天井を仰ぐように顔を上げて、また溜め息を吐いた。



「まあ、執行猶予がついて、実刑は免れるだろうが」



 スッキリしない事件だと思った。恐らく、男は実刑判決を望んでいるのだろう。弁護士によっては、執行猶予か心神喪失で責任能力は無いとして無罪を主張するだろうが、男が拒否したとしても入れるのはせいぜい3年。



「……先輩、彼の言っていた水妖(ウンディーネ)て、ご存知でしたか?」



ちらりとこちらを一瞥して、先輩は気のない声で返す。



「さぁな」



その声がいやに冷たく響いた気がした。



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