追憶 4

 その日、私は高熱にうなされていた。

 もちろん予定なんか無い。一日中家に居るだけ。


 だけど、苦しい。

 普段は無為に過ぎるだけの時間なのに、その時ばかりは一秒一秒が身に染みた。


 苦しいと、頭が回る。

 余計な思考が止まらない。


 無になりたい。

 消え去りたい。


 なんで私ばっかり。

 なんで、なんで、なんでなんでなんで。


 ――トン、トン。

 パタ、タ、タッ、タッ。


 すー、ぴた。

 べたり。べたり。


「起きられるか?」


 声が聞こえた。

 数秒遅れて、顔を上げた。


 誰だっけ。

 ああ、兄だ。


 ……なんで?


 そっか。部屋に。

 それから、私の額に触れたのか。


「…………」


 涙が出た。

 なんか、止まらなかった。


 あんまりにもみじめだから。

 自分のことが嫌で嫌で仕方がないから。


 私は「彼」の負担になっている。

 私は彼の足を引っ張り続けている。


 彼だけじゃない。

 関わる人、全部。


 私は誰からも必要とされていない。

 みんな、私なんか消えた方が良いと思ってる。


 私自身が一番そう思ってる。


 じゃあなんで生きてるの?

 分かんないよそんなの。でも……。


 でも、なんか、悔しいじゃんか。

 ずっと、ずっと、ずっとずっと嫌なことばっかり。


 何も悪いことしてないのに。

 何も……ただ、生きてるだけなのに。


 じゃあ、どうする?

 どうすればいいの?


 わかんない。

 そんなの、分かるわけないじゃんか。


「……あぅ」


 なんか、乗った。顔に。

 なんだろ。触ってみよう。


 手に力を込める。

 重い。しんどい。


 届いた。触れた。大変だった。

 今の私にとってそれはフルマラソン級の重労働だった。

 

(……ひんやり)


 なんだろこれ。

 持ち上げてから薄目で見る。


(……おしぼり、かな?)


 なんで急に?


(……ああ、そっか、彼だ)


 おしぼりを鼻と口の間に落とす。

 そして目を開けたまま彼の方を見た。


(……大人っぽい)


 最初の感想は、それだった。

 こんな距離で彼の顔を見ることが久々過ぎたせいか、そんな風に思った。


「…………なん、で?」


 なんで部屋に居るの?

 そんなの看病しに来てくれたからに決まってる。だけど、そうじゃなくて……私が聞きたいのは、知りたいのは、そうじゃなくて……。


(……あれ?)


 ぼんやりとした視界に映る彼の顔。

 その目に、きらりと光る何かが見えた。


 分からなかった。

 どうして彼が私を見て泣くのだろう。


 ただの涙ならば何も思わない。

 あくびを我慢したのかなとか、多分その程度だ。


 でも、これは違う。


 この表情は、なんなのだろう。

 彼は、何を考えているのだろう。


 苦しい。辛い。分からない。

 その感情が、一時だけ「知りたい」に変わった。


「……何か」


 ぽつり。彼は声を震わせて言った。

 

「何か、やりたいこと、ある?」


 不思議な問いかけに思えた。

 普通、こういう時は「やって欲しいこと」を問いかけるものだ。


「……」


 なんとなく、手を伸ばす。

 彼の涙に触れてみたくなった。


 その手を掴まれる。

 そういうことじゃない。


 でも、なんか、心地よい。

 大きな手。とても温かくて、少し震えてる。


 ……やりたい、こと。


 なんだろう。

 そんなの考えたことない。


 将来の夢。昔はあったのかな。

 でも、そんなの……もう無理だよ。


 今さら遅いよ。

 何もかも手遅れだよ。


 失った時間は二度と取り戻せない。

 だから、ずっと、このまま、みじめに……。


「……っ」


 思い切り息を吸い込んだ。

 彼の手から伝わる熱が、ずっとずっと忘れていた何かを思い出させてくれた。


 なんだよ。この人生。


 なんにもない。

 嬉しいこと、楽しいこと、なんにもない。


 要らない。こんなの。

 今すぐ終わりにしたい。


 私だって、もっと……。


「……ちやほや、されたい」


 その声を聴いて驚いた。

 自分の口からこんな言葉が出るなんて思わなかった。


「楽しいこと、したい」

 

 きっと高熱のせいだ。

 温かくて、頭がふわふわしているからだ。


「私だって、もっと……」


 やりたいこと。

 狭い部屋の中、ずっと願い続けていたこと。

 

 叶うわけがないと諦めていたこと。

 いつの間にか考えることすらもやめていたこと。


「普通に、生きたいよぅ……」


 朝起きて学校に行く。

 友達と喋って部活をする。

 おうちに帰って、家族と会話して、また朝が来る。


 なんで、こんなにも難しいの?

 

 大金が欲しいわけじゃない。

 お姫様になりたいわけでもない。


 ただ、ただ、普通になりたい。

 みんなが当たり前に生きてる場所に混ざりたい。


 どうして、私の居場所は無いの?


「……」


 彼が、息を吸い込んだ。

 はじめに鼻をすする音がして、次に声が聞こえた。

 

「八通り、方法がある」

「……すごぉ」


 びっくりだよ。

 一個だけでも奇跡だよ。


「聴くか?」

「……きくぅ」


 彼は一生懸命に説明を始めた。

 その話は難しくて、一割も理解できなかった。


 だけど、ずっと聴き続けたいと思った。

 私を見る目が温かくて、声が優しくて、嬉しくなった。


 私、お荷物だよ?

 どうして捨てないの?

 どうして、そんなに一生懸命になってくれるの?


(……あっつぅ)


 顔とか、体とか、全部。

 全身から湯気が出るんじゃないかと思うくらいに、あつい。


「ひとつ重要なことがある」


 彼は言う。


「全部、――次第だ」


 名前を呼ばれた。

 最初、それが自分の名前だと分からないくらい久しぶりの出来事だった。


「……私が」


 声を出した。

 彼は目を見開いて、私を見た。


 その反応が面白くて、笑ってしまった。

 直ぐに罰が当たる。私はケホケホした。


「大丈夫か?」


 心配そうな顔が妙に面白くて、またむせた。

 笑いと咳が混ざって、なんかもう、おかしかった。


 ああ、そうだよ。そうだった。

 なんでこんな大事なことに気が付かなかったんだろう。


 この熱は……このぬくもりは、ずっと傍にあった。

 お兄ちゃんは、一度だって私を捨てようとしなかった。


「……やりたい」


 ――覚えてる。

 この先ずっと、絶対に忘れない。


「……がんばって、みたい」


 この時、思ったんだ。


「……できるかな?」


 貰ったもの、全部、返したい。

 貰っていたことに気が付いたから。気が付けたから。


 ――だから、始めることにした。


 人生にリセットボタンなんてない。

 だけど、多分きっと、いくつも裏技がある。


 私にとっては、バーチャルだった。

 ミーコに転生する。弱いままでも、新しい自分を始めることができる。


 ニューゲーム。

 この日、決めた。


 体が溶けそうな程の高熱。

 それを感じたまま、お兄ちゃんのことをケホケホと笑いながら、決意した。



 だから、私は――



「休憩おわり!」



 椅子から降りて、兄に背を向ける。

 そのまま振り返らずに部屋へと向かった。


 

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