第23話 解釈違い
「……あつい」
ミーコとしての配信を終えた後、彼女は椅子を倒して仰向けになった。
最大180度のリクライニング。
足だけは床につけたまま天を仰ぎ、少しだけ荒い呼吸を繰り返す。
「……足ぃ」
関節痛。あるいは筋肉痛。
彼女は下手なダンスみたいな動きをして、痛みが最小化されるポジションを探した。
その途中、
「おわにゃ!?」
すってんころりん。
「……クソ雑魚ぉ」
ぽかんと空いた口から出た怨嗟の声。
彼女は世界の全てを破壊したい衝動に駆られたが、最初の一手で返り討ちにされるという結論に辿り着き、断腸の思いで泣き寝入りした。
いや、寝ない。
やることがいっぱいある。
「……あっつぅ」
暖房はつけていない。
部屋の温度は低いのに、汗が出てくる。
お風呂に入ろう。彼女は決意した。
コロコロと転倒した椅子から脱出して、事故現場を背に部屋を出る。
お風呂場までの距離は僅か数メートル。
普段なら数秒で辿り着けるのに、今日は遥か遠くに思えた。
全身から汗が湧き出る。
その感触が嫌で、彼女はふらふらと移動しながら上着を脱いだ。
「……」
「……」
兄とエンカウントした。
彼女は、なぜか悪行がバレたような気持ちになり、思考が停止した。
「……お兄ちゃんのエッチ」
よく分からない発言をした。
思考力が著しく低下した結果である。
兄は目を細め、微かに下を向いた。
その僅かな時間で思考を整理して、一歩、妹に近寄る。
「!?」
彼女は驚き、のけぞった。
兄は左手を妹の背に当て、右手を額に当てた。
その手に全盛期のカイロみたいな熱が伝わる。
彼女は知らない。このエンカウントは、偶然ではない。
むしゃピョコが兄に連絡した。
彼女は何も知らないまま、だけど、額に触れられた意味を理解した。
難しいことではない。
この状況、保護者が口にする言葉なんて、ひとつしかない。
「…………」
冷たい汗が出た。
滝みたいに、どんどん背中を濡らした。
「…………」
口はパクパクと動いている。
だけど伝えたい言葉は出てこない。
休め。
その一言で、今日が終わる。
兄の言葉に「ノー」と言えるわけがない。
嫌だ。嫌だ。まだやれる。
だから……お願い。信じて。見逃して。
祈るような気持ちで兄を見る。
一秒が引き延ばされ、心臓が痛い程に騒ぐ。
兄の口が微かに開いた。
そして、いつもの優しい声で言った。
「食事、どうする?」
彼女は、ぽかんと口を開けた。
「弱い方にする? それとも強い方にする?」
「……弱い方?」
「分かった」
兄は踵を返し、リビングへ向かった。
「…………ほぇ?」
その姿が見えなくなった後、ぽつりと声を出す。
何も言われなかった。とても予想外の結果だった。
たっぷり一分間もフリーズする。
その後、彼女は半ば無意識状態でシャワーを浴び、汗を流した。
* * *
リビング。定位置。
彼女が椅子に座ると、机にヨーグルトと二色のスープが並べられた。
たまごスープと白っぽいポタージュ。
どちらからも温かそうな湯気が出ている。
「…………」
悪いことをした後みたいに兄の表情を覗き見た。
兄はいつものように横を向き、タブレットを操作している。
「……頂きます」
小さな声で告げ、スプーンを手に取る。
ヨーグルトは冷たく感じた。
ほとんど嚙まず、スルッと飲み込んだ。
スープは程よく温かかった。
たまに嚙むやつが現れるけれど、口を閉じるくらいの力で十分だった。
二口目。三口目。
特に理由は無いけれど、一品ずつ順番に食べる。
彼女は高熱でも味覚が消えないタイプだった。
嗅覚もしっかりしており、平熱の時と同様に美味しく感じられる。
だけど、食欲はあまりない。
とても少なく思えた三品を食べ終えた頃、しかし満腹度は腹八分目くらいだった。
「…………」
彼女はそわそわする。
「…………なにも」
ぼそりと、小さな声。
「…………なにも、言わない、の?」
兄はタブレットを見たまま、ゆっくりとした口調で返事をした。
「――は、まだ動いてる。動ける間は平熱だ」
彼女はぽかんと口をあけた。
とってもクレイジーだと思った。
「…………私、平熱?」
「違うのか?」
彼女は口を開けたまま硬直する。
そして数秒後、クスッと肩を揺らした。
「……違わない」
机の下、無意識に手を握る。
そして彼女は俯いたまま口を開いた。
「……おに、ちゃんは、熱出た時、どう、する?」
「がんばる」
「……そっかぁ」
彼女は、なんだか一気に力が抜けた。
その様子を横目で確認して、兄は言う。
「体は重い。思考は鈍る。デメリットばかりだが、良いこともある」
「……どんなこと?」
「道を歩くとき、前の人が遅くてイライラする機会が減る」
妹はぱちぱちと瞬きをした。
「……前の人が歩くの遅いと、イライラするの?」
「時間は大切だ」
「……そっかぁ」
妹は熟考する。
むー、と目を細め、唇を結ぶ。
そして数秒後。
ぼそりと声を出した。
「……前の人が遅くてイライラするお兄ちゃんはちょっと解釈違いです」
兄は目を見開き、思わず妹の方を見た。
しかし僅かな時間で正気を取り戻し、また横顔を向けて言う。
「小粋なジョークだ」
妹はじっと目を細める。
とても珍しい兄の姿を瞳に映し、クスクスと肩を揺らした。
(……懐かしいなぁ)
ふと、思う。
(……こんな風に、お兄ちゃんのことを笑ったの、何年振りだっけ?)
ふと、思い出す。
(……割と最近、だったかも)
冷たい水を飲む。
背もたれに体重を預け、なんとなく視線を上げる。
息が熱い。脚はずっと痛い。
頭はふわふわする。あと、少し重たい。
だから、だろうか。
幻覚が目に映り始めた。
目を閉じても消えない。
それは――ミーコが生まれることになった前日のこと。
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