Ⅱ 転落
「四階建てのアパルトマンの倍はゆうに超えるからね。はい、足上げて頑張ってー」
ノアム司祭が後ろからせっつく。スタミナのないフランは途中で何度も立ち止まり、先の見えない階段に辟易しているようだ。
「大丈夫ですか? おれ行ってくるんで下で待っててください」
「そういうわけにいかないよ」
「ラスパイユも上るのには苦戦したみたいです」
「覚えてるの?」
「はい、記憶が。それでもわざわざ上ったってことは——」
上で待つ人がいたからだろう。
「ベインさんが外国へ布教活動に出されたのは、ちょうどデビッキがラスパイユさんの身辺を調べ始めた頃と一致するんだ。はぁっ。ラスパイユさんが己の危険を察知して、わざと遠くに
「ベインの存在と関係性を隠したかったってことですかね」
「それにしても、ふぅっ、運動不足だなぁ」
手すりのない階段を上りきって塔の上に出ると、後ろからの強風で二人の髪が煽られた。中央に吊り下げられた鐘を中心に、ぐるりと塔を一周できるようになっている。
眼下の街はノールデン市よりもずっとひしめき合っていて、ミニチュアの蒸気車や路面電車が動いているのにしばらく目を奪われた。
「ルゥ」
後ろからフランに腕をつかまれる。
「あまり前に行かないでよ。心配になる」
「すみません。でももう少し歩かせてください。何か思い出せそうで」
ノアム司祭も一緒に上がってきたが、さすが彼は息を乱していない。鐘の向こう側からじっと観察されているのを感じながら、ルゥは塔の外周に沿って歩く。フランは横から離れなかった。
塔の上はさほど広くはないし、二つある鐘を鳴らすための歯車やハンドルで混みあっている。ラスパイユはすぐそこにいたのだ。差出人の名がない封書を開封している気持ちになり、それから記憶が甦るのをルゥは感じた。
「……どこからか届いたメモの筆跡にまさかと思い、鐘楼へ上がると、外国にいたはずのベインがいました。きっと師の危機を知って居てもたってもいられずに、どうしても会いたかったんだ。ラスパイユも驚いている」
記憶は映像ではなく、ぽとんと雫が落ちて生じた波紋のように連なって感情となり、ルゥの中に湧き上がる。
「思いがけない再会に極まって、ラスパイユは自分の犯した罪を告白した。そして……。
内臓がぐちゃぐちゃにかき回された感触が甦り、腹と喉が熱くなる。しかしルゥは足を止めない。
「この場所です。ベインは死を望まなかった。けれどラスパイユはどうしても運命を共にしたくて。この場所で揉み合いになったんです。つかんで、突き放されて、しがみついて……、転落したのはラスパイユだけだった」
下には大聖堂の屋根と、中庭の枯れた芝生だ。転落のふわっとした瞬間、二人は互いの顔を見たのだろうか。
最愛の存在に見放された。決して裏切らないと信じ込んでいた相手に拒否された。尊い感情と掲げていたのは一方的な愛に過ぎなかった。そんな死に際の絶望に喉をギュッと絞められ、落ちていく感覚とともにルゥは強い吐き気で膝をついた。
「ルゥ!」
嘔吐していた。そして訪れたのは真っ暗な静寂だった。
「顔が真っ青だよ。こっちで休もう」
フランはハンカチを差し出すと、問答無用でルゥを抱えて階段の方へ連れて行った。
おもむろにたずねるノアムの顔が強張っている。
「あなた方は、一体何を?」
その顔をじっと見つめたまま、フランは答えない。仕方なく表情を和らげたノアムが、しゃがんでルゥの肩に手を添える。
「大丈夫かい? 歩けるようになったら早めに下りたほうがいいな。もうすぐ三時の鐘を鳴らすから、うるさくなる」
五分ほど休み、階段を下りる途中で鐘を鳴らすために上ってきた修道士とすれ違う。鐘楼を汚してしまったのが申し訳なかった。
上りはあんなに苦労したのに下りはあっという間だ。応接室で休ませてくれるというので甘えさせてもらうことにした。暖炉の前で体を温めていると、ミルクココアがなみなみ入ったマグカップを渡される。胸にまとわりつく甘い香りに、ルゥは口をつける気になれなかったが、カップを包んだ手から伝わる温もりはありがたい。
「話から推測するに、もしかしてデビッキはラスパイユの魂を再構築したのかな。長いこと研究してるもんね」
ズズズッと熱いココアをすするノアム。そこまで言われてはもう観念するしかなく、フランが頷いた。
「掘り返したご遺体に
「へぇ! しかも五年も前の遺体を使って。蹴り飛ばしてやりたいなぁ」
「ラスパイユさんもベインさんも、二人ともデビッキに復讐したがっている。だから恨むようになったきっかけをもう一度調べ直したくて。罪を告発され、司教の座を奪われたからという単純な理由だけとは思えないんだ」
「ラスパイユの死には何か他にあると踏んでいるわけだね?」
「うん。そして死の直前、あの塔の上でラスパイユさんとベインさんは会っていた」
「心中しようとしたと聞こえたけど、つまり二人の間には何か望ましくない関係があったのか。それでラスパイユは互いの罪と存在もろとも消し去ろうとしたと」
はーっとノアムが溜息を吐く。
「一方的な死の欲望へ巻き込まれるなんて、たまったものじゃないな。殺されかけた、でも救えなかった。あるいは自分が殺してしまったのかもしれない。ベインの心は両極端に揺さぶられて、引き裂かれたわけだ。哀れではあるね」
「そうだね。だから心の均衡を保つためには矛先に憎しみを被せて、デビッキに向けるしかなかったのかな」
「デビッキなら恨む相手として不足はないしな」
時間をおいてもルゥの気分は優れず、かえって頭痛までしてきてしまった。ノアム司祭に安くてきれいなホテルを紹介してもらい、一泊することにした。
「すみません。明日も仕事あるのに」
「モノリにはもしかしたら泊まるかもって伝えてあるから。無理しないで横になりなよ」
建物は古くお湯がなかなか出ないホテルだったが、リネン類は清潔で心地よく、オーナー夫妻の手作りパンが絶品で、ルゥも少し口にすることができた。
ベッドで横になると、いつの間にか眠っていたようだ。
「ルゥ、ルゥッ。起きて」
なんだろう、フランに体を揺すられている。少し強くないか? そんなに激しくしなくてもちゃんと気づいてますってば。
「ルゥ起きろ! 火事だ!」
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