Ⅲ 魂のかけら

 かじ? かじって家事のこと? もうごはんを作らなきゃならない時間?


「くそっ、逃げるよ。ちゃんとつかまって!」

「なんだこの臭い!? かじって火事⁉︎ 火事じゃないですか!」

「さっきからそう言ってるよ! しっかりつかまってよ!」


 フランに担がれてルゥの体がベッドから浮いていた。だいぶ寝ぼけていたようだ。

 見ると部屋の中に灰色の煙と、焦げ臭い匂いが充満している。危機感がマックスに跳ね上がり、急に目と喉の痛みを感じた。

「おれ自分で歩けます!」


 渡されたタオルで口元を覆う。この煙の量だと火元はすぐ近くだろう。

 フランが激しく咳こむ。今度はルゥがフランを抱えて、姿勢を低く部屋の外を目指す。二人分の貴重品のカバンはフランが持ってくれていた。

 部屋のドアを開けると、ぶわっと熱量が迫る。火元はすぐ隣の部屋のようだ。

「誰もいなかったはずだよね」

「おれたちだけのはずですよね」

 二人同時に顔を合わせた。一つのフロアに四室の三階建だが、三階に他の客はいなかったのだ。


 下の階からバケツを持ったオーナー夫婦と宿泊客がバタバタ上がってくる。隣室のドアが開いていて、中ではベッドが一台燃え上がっていた。バケツの水を三杯かけたくらいでは一瞬火が小さくなっても、またすぐに戻ってしまう。

「もっと人手を呼ばないと!」

「それがよそでも火事があったみたいで、応援に来られるのがいねえって……!」

「とにかく消火しましょう!」


 バスルームの水栓に飛びついて捻るが、チョロチョロしか水が出ない。隣のルゥたちの部屋も同じだ。

「こんなの待てないですよ!」

 かといって一階からバケツリレーで運んでもかかる時間は変わらないだろう。


 スッとフランが前に出る。

「みんな下がって」

 カバンをルゥに預けて、それからバケツに溜まった水を頭からかぶった。

「フランさん何を⁉︎」

「ルゥ。天使の白き炎フランベルジェは僕の魂のかけらで、だから美しいベルジェモンドが生まれるんだと前に言ったよね。その言葉を信じるよ」


 炎上する炎はフランの身長よりも高く、天井まで届きそうだ。猛然と炎へ向かうと、右手の親指と薬指で円を作る。顔の前で念じると、立てた人差し指と中指の先に小さな白い炎が宿った。

 立てた指を炎へ向けると、小さな白い光は炎の中へあっという間に飲み込まれる。そして爆発したように炎が膨れ上がり、瞬時にベッドが燃え尽きた。炎は暴れてフランをも取り込もうとする。


「フランさんっ!」

 なんて熱さだ。ルゥは一歩も前に出られない。下がらなければ命が危険だと、全身の組織の一つ一つが叫んでいる。


 だがルゥの前に立つフランは、猛る炎の前に微動だにしない。そして右手をひねって手の向きを変えると、猛り狂う炎が反応し、動きをピタリと止めた。火の内側から白い光が膨らむと、炎と黒い煙は白い光の中にかき消されてしまった。

「熱っ!」

 だがさっきよりもずっと熱い。


 そうか、これは天使の白き炎フランベルジェだ。通常の炎よりもずっと高温のフランの魔法が、燃える炎を取り込んで消したのだ。

「うぅわあぁっ! 焼け死ぬ!」

 あまりの熱さに、オーナー夫妻たちは部屋の外へ逃げた。しかしルゥは勇気を振りしぼってとどまる。


 フランが集中している。己の手から離れた白き炎を制御しようとしている。ほんのわずかな気の緩みも許されない。綱渡りの緊張感がルゥにも伝わってくる。


「そう。小さく、小さくだよ。少しずつでいいから」

 子どもに語りかけるように炎と対話している。

「ゆっくり、ゆっくり。戻っておいで」

 言われた通りに炎が小さくなる。だが一抱えほどになるとまた膨らんでしまい、フランが手に力を込めた。


「もう一度だよ。小さく、小さく」

 フランもきっと初めてだが、白き炎の子も初めてなのだ。強風に煽られながら二人が手をつなごうと懸命に伸ばし合っている気がして、ルゥの拳にも力が入る。


 がんばれ! がんばれ二人とも!

 額から流れる汗が目に入って痛い。炎が小さくなっても迫る熱は壁のごとしだが、徐々にやわらかくなっていく。


 やがて白き炎は蝋燭の火ほどの大きさになり、フランの手のひらに乗った。ぴょんぴょんと跳ねている。

「おかえり。よく戻ったね。ありがとう」

 フランが笑う。そしてふーっと優しく息を吹きかけると、白き炎は溶けていなくなった。


 ベッド一台が跡形もなく焼却したが、壁紙と天井が少し焦げただけで、燃え広がらなかったのは奇跡だ。カーテンや絨毯すら無事だ。

 ふらつきながらフランがバスルームへ入っていく。チョロチョロの冷水シャワーに、頭を突っ込んでいた。


「灰になるかと思ったぁ……」

「おれも焼け死ぬかと思いました。すごかったです。いつ練習してたんですか?」

「そんなのしてないよ。けど前に君に魂のかけらって言われて、そうなのかなって考えてはいたんだ。だから自分の一部だと想像して話しかけてみた」

「魔法の感覚はおれにはよく分からないですけど」


「小さい子って自分の鼻くそをほじって食べたりするじゃん。あれって自分の体から出たものだから汚いと思ってないんだよね。それと似てるかな」

「えぇ? 鼻くそと同じですかぁ?」

 シャワーを止め、笑いながら髪をふくと、もう寒いと言い出した。


「魂のかけらだって、ルゥが言ったから信じる気になったんだよ。小さい頃は無意識のうちに炎を出して何度も家を火事にしちゃったし、大人になって火葬場の仕事をしていても、煩わしい力だと心のどこかでずっと思ってた。けれど君がそう言ってくれるなら、捨てたものじゃないね」


 もう三ヶ月も前のことだ。言った本人は忘れかけていたのに、まさかフランが大切にしてくれていたなんて。

「フッ、フランさんだっておれのごはんを選んでくれましたしっ!」

 濡れ髪から水も滴る天使にハートを撃ち抜かれた。


 だがその後、臨場した警察が発したのはありえない言葉だった。

「フランさんが放火の容疑者だって!? そんなわけないだろ! 命懸けで消火した本人だぞ!」

「しかしあなた、以前ノールデン市のオークション場で放火してますよね。人に被害までも出している」

 それは黒羽の主に魔法の力を暴走させられ起こしたことだ。決してフランの意思ではない。


「でも、それとこれとは関係ないよ」

「放火魔は一度の犯行では満足しない。このフロアにはあなた方しか泊まっていなかったんでしょう?」

「違うよ。部外者が出入りした形跡はないか、調べるべきだよ」


 しかしどんなにルゥが怒り叫んでも、フランが釈明しても、ホテルのオーナー夫妻が証言しても警察の主張は覆らなかった。手錠をかけられ、二人とも警察署へと連行される。

「ふっざけんな! フランさんのこと何も知らないくせに勝手に決めつけんなよ!」


 地下の留置場は冷たかった。毛布を体に巻き付けてもフランはガタガタ震えている。とにかく房内のコンクリートの床が冷くて、あっという間に冷えが背中まで上ってくるのだ。ルゥですら寒くて歯が鳴った。

 フランの髪はまだ乾いていないし、頭をシャワーに突っ込んだ時に服も濡れてしまった。大量にかいた汗にも体温を奪われている。それにフランの魔法は体内の熱を炎に具現化しているから、炎を出した後はより一層寒くなるのだ。


 二人で肩を寄せ合い、背中合わせになって温め合う。悔しいが警官に頭を下げて毛布をもう一枚もらい、とにかくフランが風邪をひかないようできるだけはした。先にしっかり眠ってしまったことは、朝になり目覚めて初めて知った。


 今日は事情聴取を行うと聞かされる。しかし何時間待っても一向に始まる気配はない。

「フランさん、これってやっぱり——」

「足止めされているね」

 昨夜の強引な連行然り、始まらない事情聴取然り。時間稼ぎだ。


「僕たちは真実へ近づいたってことだね」

「ノアム司祭の仕業でしょうか?」

 あのホテルを紹介した張本人だ。それに聞いてもいない長話をされたのも、今となっては足止めの一つだったと思える。

「それもありえるけど、ドレーヌ大聖堂へ来ることはサイアスさんにも話してあるんだ。部下の神官たちは、サイアスさんに命じられたら何でもしそうだよね」

 なんてこった。それに、いつここを出られるのか分からない。


 するとルゥの腹がぐううぅーと鳴る。昨夜から水すら与えられていないのだ。

「ちくしょう! いい加減にしろよ!」

 格子の向こうへ叫ぶが、もちろん返事はなかった。


 昨晩寒くて眠れなかったフランはウトウトしていたが、ばっちり眠ったルゥは目が冴えわたっている。房内を獣のようにぐるぐる歩き回っていると、赤い箱と水が提供された。

「クラッカーか。しかもなんだこれ……」

 一口かじっただけで分かる粗悪品だ。しかし背に腹は代えられず、水で流し込む。石のように硬いうえ、味がなくてパサパサなので、途中で水が足りなくなった。


 目を覚ましたフランは一枚半しか食べられなかったが、少ししてお腹が痛いとトイレから動けなくなった。房の中に便器があるのだが、横側に申し訳程度の衝立しかなく、正面からは丸見えだ。そんなところで苦しんでいるのが気の毒すぎて、声もかけられない。


「あああ! ちくしょうめ!」

 拳を格子に叩きつけることしかルゥにはできなかった。

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