Ⅸ ごめん
「鉄肺病で亡くなったってモノリ主任から聞きました。日中仕事で看病ができないから、その方のために療養所を作ったとも」
背を向けているのでフランの顔は見えない。
しかし時間が止まったのはほんのわずかで、フランは再び指で背筋をほぐし始めると話してくれた。
「僕より三つ年上でね、新市街のローズレイホテルで働いてたんだ。そこの婚活パーティーで知り合ったんだけど」
「え、フランさん婚活してたんですか?」
「ううん、取引先の銀行の支店長からどうしてもって頼まれて行ったの。彼女も参加者じゃなくてスタッフで」
ローズレイホテルはノールデン市では最も格の高い四つ星ホテルだ。
「フランさんなら一人勝ちだったんじゃないですか?」
「そんなわけないでしょ。喋るのが得意な人がいくらでもいるよ。だから僕は端っこで見てたんだけど、彼女はすごく一生懸命働いててね。僕の一目惚れって言っていいかな。でもなかなか信用してもらえなくてさ。ずっと結婚詐欺だと疑われて、お金だけは絶対に貸さないって付き合って最初に言われたよ」
「火葬場の経営者って信じてもらえなかったんですか?」
「うん、全然。銀行の支店長にも説明してもらったくらいで」
フランのような天使から真剣に好きだと言われたら、普通理性なんて吹き飛ぶんじゃないだろうか。ルゥなら頭からつま先まで溶かされて、お金も何もかも全て預けてしまう自信がある。
「それから半年くらいでプロポーズしたんだけど、断られちゃって」
「ええーっ⁉ フランさんがフラれるとかあるんですか⁉」
「当たり前でしょ。断られた理由が、彼女はメイベルっていうんだけど、結婚したらメイベル=エーヴェルでベルベルになるからやだっていうんだよ。まぁそれは冗談なんだけど、僕は細かくて面倒な男だし、食事には手がかかるし、結婚したら火葬場を共に経営していかなきゃならないしね。仕事が好きだったから辞めたくなかったみたいだし。それでも僕の家で一緒に暮らすことになったんだ」
やはりあの家で幸せな時を過ごしたのだ。キッチンで見た鍋底の焦げはメイベルが残したもので、フランのために料理をしていたのだ。
「鉄肺病を発症したのは、それから四か月後だった。免疫力が低下する病気も併発して、進行はあっという間だったよ」
鉄肺病は不治の病だが、進行にはかなり個人差がある。メイベルのように別の病を併発したり、元々あった疾患と合併するとわずか数ヶ月で死に至ることもあれば、二十年以上かけてゆっくり進行する場合もある。しかし肺が鉄のように硬くなるので、どの場合でも末期は呼吸が苦しい時期が続く。
「亡くなったのは今からちょうど一年前で。そこから僕は眠れなくなって、食欲も落ちて酒量が増えて、体を壊して死にかけたところを君に助けられた」
半年前の
「まだ一年なのか、もう一年経ったのか、どっちですか?」
「うん……、どっちだろう。いないのには慣れたかな」
明るくて働き者で、竹を割ったような気持ちのいい女性だったそうだ。一見大胆に見えても本当は石橋を三度叩いて渡る、時に強迫的なところがあるフランを大丈夫だからとぐいぐい引っ張っていく人で、「オーナーにはこの人ありという感じだったよ」とモノリが言うくらいだから、端から見てもお似合いの二人だったのだろう。
「もしもう一度会えたら、どんなことを話しますか?」
『ただもう一度だけ会いたい。あなたにもそういう人がいるでしょう?』とベインから問いかけられた時、ルゥは亡き両親に今の自分のことを伝えたいと思った。だから聞いたのは、フランにも同じような答えを期待したからだ。
「……ずっと謝ってるような気がする。そばにいられなくてごめん。ワガママを聞いてあげられなくてごめん。怒っちゃってごめん。いいよって言ってあげられなくてごめん。もっと一緒に笑っていたかったのにごめん。もっと抱き合いたかったのにごめん。もっと話せばよかったのに忙しいのを言い訳にしてごめん。って」
背中を押す手が、同じ場所だけを押し続けている。
「最後の朝に、ちょっと言い合っちゃったんだよね。口論ってほどでもないんだけど。いちごが食べたいって言われて。去年は出回るのが遅くてね、前日にもあちこちのマルシェを探したんだけど、どうしても見つからなかったんだ。日中は療養所で看てはもらってたけど、僕も忙しいのと看病疲れもあって。つい、僕だって一生懸命探してる、しつこく言われなくてもやってるよって強く言っちゃって。それで彼女の方も意固地になってさ。そのまま出勤したんだけど、仕事中に急変して。あっけなく一人で逝ってしまった」
皿に盛られたいちごの赤さが、視界の端に映る。
「最期は手を握って、愛してるって伝えるものだと思い込んでたのに、あんな終わり方なんてね。彼女は別に無理難題を要求したわけじゃなかったのに、どうしてあとほんの少しだけ余裕が持てなかったんだろう。どうして受け入れてあげられなかったんだろう。たったそれだけのことで、あんな別れにはならなかったはずなのに。自分がどれだけバカで未熟で身勝手でどうしようもない人間か、心の底から思い知ったよ。愛を叫ぶ資格なんて僕にはなかった」
フランはルゥの背中をトンとした。それが終わりの合図だった。
ルゥは抱えた膝から顔を上げられない。
泣くな。おれが泣いちゃダメだ。おれから聞いたんだぞ。フランさんが泣いてないのに、おれが一人で泣いてどうする。何か言え。
「……っ」
それでも堪えられなかった。布団をかき寄せて顔を覆う。
「フランさんは一生懸命されたじゃないですか」
「きっとメイベルさんも同じことを思っています」
「ご自分を責めないでください」
そんな陳腐で薄っぺらい言葉を言えるはずもない。
火葬場の炉前ホールで悲しみに暮れる遺族に、いつもフランは何と声をかけていたっけ?
どうしたらフランのように遺族の心を照らせるんだ?
こんなに必死で考えてるのに何も浮かばない。何も表現できない。まるで体を乗っ取られた時と同じ感覚だ。
するとフランが微笑んだ。背中越しでもわかる。
「いいんだよ、何も言わないで。いちご食べようよ。きっとおいしいよ」
鼻をすすり、袖で両目をぐいっと拭い振り返った。
「はい。じゃあいただきます」
初物に歯を立てると果汁が溢れるが、思ったよりも酸味が強い。
「う、酸っぱいね……」
二人して顔をすぼめてしまった。
「明日、このいちごでジャムを作ります。トーストしたパンにバターと塗って、一緒に食べましょう」
こんなことでフランの喪失と後悔を埋められるとは思わないし、紛らわせるはずがない。けれど一年前に叶わなかった時間なのは確かだ。
その時、窓の外がふわっと明るくなった。大気汚染の影響でノールデン市はいつも灰色に覆われているので、思わず二人の顔が外を向く。薄くなった雲から透けるバニラ色の日の光が、聖ザナルーカ教会の中庭に溢れていた。
「綺麗だね」
「はい。葉っぱの緑色が微笑んでるみたいですね」
ひょっとしたら彼女がすぐそこで聞いていたのかもしれない。
「うん」
白金髪の天使が小さく頷いた。
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