Ⅷ 約束
薄暗く視界はぼやけたままで、べたつく汗をかいていた。ひどく寒くてぶるぶる震えがくる。
『ルゥ、僕を見て。わかる?』
遠くでフランの声がして頷いたが、届いただろうか。
内臓がぐちゃぐちゃにかき回されたみたいに気持ち悪い。世界がぐわんぐわんして吐き戻した。そして次にまた気付くと、今度は逆に暑くてたまらない。その繰り返しだった。
眩しいなとはっきり光を感じるまで、夜がやたらに長かった気がする。
「朝なのかな……」
見覚えのない天井だった。もしかするとフランの家なのか。体を起こそうとするが、途中で力尽きてしまい起き上がれない。
そうだ、体を乗っ取られて
「てことはおれ、屍体になった?」
「なってないよ」
すぐ横で美声がする。
「……デビッキ司教。どうしてあなたが」
「ここはうちの教会の宿舎だもん。君は高熱と嘔吐で一晩中苦しんでたんだよ」
そう言って立ち上がり、絞ったタオルで首や顔を拭いてくれた。
「他人の魂なんて異物が入ってきて、体が拒否反応を起こしたんだ。もしあれ以上長引いたら危険な状態だったよ。悪かったね」
朽ちた体を捨てたラスパイユの魂は、フランに向かっていた。
「そっか……、フランさんじゃなくておれで良かった。そうだ、デビッキ司教こそ大丈夫なんですか?」
死体が生きている人間を殺そうとした。おぞましい光景だった。
祭服で隠してはいるが、首筋に青紫色の痕が残っている。しかも絵の具で塗ったように濃いから、ただの痕ではないのかもしれない。
「フラン君に叱られたよ。君がいるのにどうしてこんなことになった、ルゥを必ず助けろって、胸倉つかまれてさ。前のバルド君の時もそうだったけど、フラン君って他人のためにあんなに怒れる人なんだなぁ」
少し間を開けて呟く。
「妬けちゃうな」
「怖いんですけど。おれ精神削られるんですかね」
それには答えず、小瓶から注いだドドメ色の極めて怪しい液体を水で割り、ルゥへ差し出した。
「薬だよ」
「怖いんですけど⁉︎ この色呪われたりしませんよね?」
「安心してよ、大神官の処方だから。フラン君との約束だし、おれが彼を悲しませるわけないじゃん」
その言葉を信じるしかない。苦いのを我慢してルゥが飲み下すのを、デビッキは見つめていた。
「もう一日ここで休んでいって。どこか痛かったり、何かおかしいと感じたらすぐこれを鳴らして呼ぶこと。いいね。明日、熱が下がったら帰っていいよ」
サイドテーブルに小さなベルを置いてデビッキは部屋を後にした。
「そっか、デビッキ司教は聖地に行くんだった。結局無実は証明できなかったなぁ。明日の話をしたってことは、明日発つのかな」
熱のせいか頭が回らなくて、日にちが数えられない。数えようとしているといつの間にか眠っていて、再び目覚めるとフランがいた。
窓際で夕刊を読んでいた顔を上げる。
「どう? だいぶ楽そうな顔になったね」
油切れの機械のように動かなかった体と頭が軽くなり、すっきりしていた。手渡された水銀の体温計を脇に挟む。
「はい。いつからここに?」
「一時間くらい前かな。目覚めた時に誰もいなかったら心細いでしょ」
いつ起きるか分からないのに、そばについていてくれたのか。それに首に当てられたタオルが冷たい。きっと何度も替えてくれたのだろう。温かさと同時に申し訳なさがつきんと痛む。
「うん、三十七度四分。でも夜になるとぶり返すかもしれないから、まだ油断しちゃだめだよ」
「でもフランさんのごはんが」
「こういう時まで人の心配はしないの。いちごが出てたから買ってきたんだ。今年は早いよね。食べられそう?」
言いながらひとつかみ皿に盛ってくれる。つやつやで真っ赤ないちごは、みずみずしい甘い匂いだけで最高だった。土壌が汚染されているので、繊細な花や果物は育ちにくく、高価なのだ。
「おれのためなんかにもったいないですよ。フランさん食べてください」
「君こそ、僕のために無茶をしたね」
「前回は何もできませんでしたから。あんな思いはもう二度としたくないって決めてるんです」
フランを実験台にして自身の魔物化を狙う黒羽の主により、フランは魔法の力を暴走させられた。あの時は暴れまくるフランを火葬炉に閉じ込め、分厚い耐火合金の扉の外から苦しむ姿を見ているしかできなかったのだ。それにナユを取り返すために黒羽の館へ乗り込んだ時も、気づいた時にはフランを奪われ監禁されてしまった。
「壁の中に閉じ込められた僕を見つけてくれたじゃない」
「それじゃ遅いんです。あのまま戻って来れなかったかもしれないんですよ。もう二度と……」
「僕は、君のために何もできなかったよ。自分の不甲斐なさをデビッキに八つ当たりしちゃったし」
「聞きました。すごい怒ってたって」
「情けないよ」
ちょっと二人で笑い合った。
「でもおれ、悲しかったんです。フランさんがラスパイユに向けて絶対許さない、遺体も魂も燃やし尽くすって言った時」
「どうして?」
「
「自分じゃどんな状態だったのか思い出せないんだけど」
「それでいいです、忘れましょう」
フランは他人を傷つけて平気でいられる人ではない。たとえ相手が仇であっても、既に死んでいたとしても後々苦しむはずだ。だからそんなことはさせたくない。
「フランさん、ごはんはちゃんと食べてるんですか? 昨日の夜から、あと朝と昼も」
「昨日の夜は料理長が作ってくれたよ」
「野菜も食べたんですか」
「う、うん……」
「残したんでしょう」
「ん……」
「今朝は何を食べたんですか」
「クロワッサンを半分……」
「だけですか」
「あのね、料理長から食べたいものありますかって聞かれたんだけど、わからなくて。なんでもいいよって言ったら料理長が困っちゃって。でも食べたいものなんて僕にはないんだよ」
汚染された環境で育った食べ物に含まれる毒素に、フランの体は過剰に反応してしまう。だから幼い頃から食べて吐いて下痢しては日常茶飯事なのだ。それでも生きるためには無理やり食べるしかなく、好き嫌いが激しいのもおまけして、食事に楽しい思い出がないのだそうだ。
ルゥの両親は弁当屋を営んでいた。決して裕福な暮らしではなかったが、食卓には毎日違うおかずが並んだし、今日のごはんは何だろうと、階下の調理場から漂う匂いで想像するのが楽しみでもあった。
「ルゥなら今日は何にする?」
子どものように困った顔をしたオーナーをじっと見て考える。
「旬のえんどう豆のポタージュスープに、種なしパンと一昨日手作りしたソーセージですね。パンはスープに浸して食べて。ポタージュにすれば野菜も見えないですし」
するとフランの顔がほころんだ。
「うん。それが食べたい。料理長に頼んでみる」
その時、心底思った。
あぁ! 早く料理がしたい。この人のためにごはんを作りたい!
それが顔に出たのだろう。フランは首を横に振る。
「まだ起きないの。無理しちゃダメだよ。今夜いっぱいは休むようにってデビッキに言われてるでしょ」
「でもずっと寝てたんで腰が痛くて」
「揉んであげるよ」
上体を起こして丸めたルゥの背中と腰を指で押してくれる。
フランは火葬場の他に、鉄肺病の療養所も運営している。看取ってくれる身寄りがいない末期の患者が常時十人ほどいて、二、三日に一度そこを訪れるのがフランの習慣だった。孤独な患者の話し相手になり、咳が止まらない背中をさすり、こうしてマッサージをしてやるのだ。
療養所での手際を見るに、フランは病人の世話に手慣れている。それは、亡くなった恋人の看病をしていたからなのだろう。
今なら二人きりだ。
「あの、フランさんのもう一度だけ会いたい人は、どんな人なんですか」
マッサージする手が止まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます