Ⅶ 魂の再構築
一瞬ぎょっとしたが、さすが大神官は切り返しが早い。
「いや、名案かもしれないぞ。主席司祭の話によると、ベインにはどうしても甦らせたい人がいるようだが、これは十中八九ラスパイユ元司教のことだろう。遺体に
「僕たちが先回りできることになるね」
「問題は五年も前に手放された魂を戻せるかだが」
「できますよ、おれなら」
さらっと言い切るデビッキに、神官たちから「まさか」と嘲笑を含んだ声が上がる。しかし「君たちの常識でこの男を測らない方がいい」と大神官に一喝された。
「だが遺体を掘り出すには許可を得る必要があるな。まさか墓荒らしをするわけにはいかぬし。墓はドレーヌ大聖堂の管轄教会か?」
「そうだったんですが、区画整理で墓地が縮小されましてね」
「すると今は道路の下か」
「自殺だしそれもやむなしという意見が大半でしたが、さすがに気の毒だったので。私が改葬しました。だからここにいます」
「ザナルーカ墓地にか?」
「そうですよ」
デビッキがフランにしなだれかかる。
「フ〜ラン君、おれ超ファインプレーじゃない? ねぇ褒めて。ヨシヨシして」
争っていた相手の墓をわざわざ自分のところへ移すとは。
しつこい神の頭をポンポンしながら、フランとサイアスが目を合わせて苦笑した。
「元司教に安眠はないだろうな。これがお得意の命は脅かさないが精神は削るというやつか」
「死んでもまだ続くっていうね。やだなぁ、頼むから僕にはしないでよね」
この時ばかりはルゥも元司教を本気で悼んだ。
準備のためその日は解散となり、翌日午後にまた集まることになった。
「ルゥ、火葬場にバルドを呼んできてくれる」
「バルドですか? 明日のことには関係なさそうですけど……、わかりました」
これから一体何が起こるのかルゥには想像がつかない。
翌日午後、フランと共に再び聖ザナルーカ教会へ向かった。
礼拝堂の入り口は既に閉められ、一般客は出入りできなくなっている。祭壇前には土から掘り出した、朽ちかけた木棺が安置されていた。
「絶対これより内側に入っちゃダメだからね。何が起こってもだよ。いいね」
ご丁寧にフランの前に椅子を並べてバリケードを作りながら、デビッキは何度も念押ししてくる。
「そんなに危険なの?」
「人は死ぬと、最初に自分が何者だったかを忘れるんだ。けれども愛情や怒りや恐怖みたいな原始的な感情は残ってね、思いのままに暴走することがある。ラスパイユがおれを恨みながら死んだとしたら厄介かもしれない」
「攻撃してくるかもしれないってこと?」
「そう。腐っても元司教だからね、感情と同じようにチカラは残ってるはず。だからこれより前に出ちゃダメだよ。結界も張っておくし、あと万が一の時はフーシェが体を張って何とかする」
「うん、わかった。すごいものが見られそうだね。悪魔祓いってカッコイイね」
「そう? ねぇもっと褒めて。ギューッとしてチューってしてくれたらすごいがんばれるから」
「デビッキ司教」
フランにスリスリしている背後から、サイアスが現れた。
「なんです? 邪魔しないでくださいよ」
「君の聖護札を見せてみろ」
不機嫌に取り出した札には、絡み合った複雑な紋様が、細いペンや筆を多用し幾重にも重なり合っている。ルゥには到底真似できない職人技だが、大神官はちらりと一瞥しただけで不満顔になった。
「本気ではないな」
「そんなことないですけどねぇ」
「準備が整ったなら始めるぞ」
「いつでもいいですよ」
二人が靴音を響かせながら礼拝堂の奥、朽ちかけた棺の前へと位置に着く。
自衛の術を持たない聖職者は全員ルゥたちと同じラインまで下がって注目している。内側にいるのはデビッキとサイアス、フーシェと他に二名の司祭だけだった。サイアスの部下たちも全員下がっている。
デビッキが頷くと、司祭が棺の蓋を開ける。ルゥたちの位置からは中身は見えないが、不吉な瘴気が立ち上った気がして思わず両腕をさすった。
少しの間目を閉じて、デビッキが聖護札に気を込める。閉めきった礼拝堂内に、デビッキを中心にふわりと風が舞い、白い祭服の裾がふくらむ。
「
美しいテノールの後、周囲の司祭たちが思わず後ずさる。彼らよりも遠くにいるルゥも二歩下がった。札を貼られた棺の中身が上半身を起こしたのだ。かつて肉だったものが腐って真っ黒になり、半分は茶渋色の骨だけになっているおぞましいものが、ゆっくりとデビッキへと首を向ける。
「ラスパイユ元司教、私は大神官のサイアスだ。あなたにどうしても聞かなければならな——」
だがサイアスが言い終わるよりも早く、腐った肉で皮一枚つながった骨の腕が伸び、両手でデビッキの首をつかんだ。
「デビッキ!」
バリケードの椅子の背をつかんで、フランが前のめりになる。
「おれを……忘れてないな? 殺したいほど憎いか? やってみろよ。やれるもんならな」
デビッキの挑発に呼応するように腐った遺体の顎関節が動き叫んだ。声ではない不快なそれは、蒸気車の焼き切れる寸前のブレーキ音だ。寒気と共に体をグサグサ刺されるような感触がして、思わずルゥは耳を塞いだ。屍体が人間を殺そうとしている。周囲の修道士たちも動けないでいる。
「ラスパイユ司教、どうか落ち着いてほしい。聞きたいのはあなたの怒りの源なのだ。デビッキに罪を暴かれたからといって、あなたのような方が悔い改めもせず自殺に走るとは思えない」
サイアスの声は信徒に語りかける口調だった。だが死者には響かず、骨の指がギリギリと首を絞めつけていく。
「中止だデビッキ、
「まて……! 暴かれたくない理由があるんだろ? あんたが墓まで持って行かなきゃならなかった秘密が」
すると喉を握り潰そうとする力は強まり、骨の指が食い込む。
「図星だ……な!」
デビッキの顔が紫色になり、サイアスが聖護札に力を込めた時、急に遺体がぼろぼろと崩れ落ちた。膝をついたデビッキが骨の指を引きはがし、声を詰まらせながら叫ぶ。
「逃げたぞ!」
「
フーシェと司祭が防御するが、黒い矢のように一直線に飛んできた何かが光の壁を突き破るのがルゥにも見えた。そして椅子に張られた結界をもメリメリと突き抜け、立ち尽くすフランの胸に黒い矢が向かう。
「フランさんっ!」
咄嗟にルゥは前に出た。ドンッと背中に衝撃が来て、視界が白くなる。
「ルゥッ⁉︎」
体に力が入らなくなり、前のめりに倒れるのが分かった。このまま倒れたら顔面から床に突っ込んでしまう。避けなきゃと思うのに、体が全然動かない。いや、体ってどうやって動かすんだっけ?
「ルゥッ! しっかりしろ! 僕を見ろ!」
フランの声だ。フランが抱えてくれて倒れずに済んだ。
(僕を見ろって、見てますよ。あれ、でもなんかぼやけてるな?)
そして次の瞬間、抱えてくれたフランの顎を、ルゥの拳が殴りつけていた。
(え。何してんだよおれ。なんでだよ?)
わけが分からず頭は混乱したが、殴った腕や拳の感覚はないままだ。
(どういうこと。おれの体、どうなっちゃったんだよ)
『忘れるものか。お前さえいなければ。お前さえ存在しなければ!』
(えっ、今のおれの声。なんで? 何なんだよ?)
「ラスパイユ司教だね。ルゥの体を返せ」
後ろに尻もちをついたフランの唇の端から、血が垂れている。
そうか、向かってきたラスパイユの魂に体を乗っ取られた。それで合点がいく。ルゥの人格は体の奥の方へ押し込められてしまって、だから自分の意思で動くのもしゃべるのもできないのだろう。
(フランさん、おれここですよ! 体の中にいます!)
そう叫びたいのだが声の出し方が分からない。ジェスチャーで伝えたくても体の動かし方が分からない。表現できないのがこんなにもどかしいなんて!
「おれが憎いか。あんたらは二人してフラン君を標的にした。おれから大切な人を奪う。それが復讐なんだな」
これはデビッキ司教の声だ。屍体に首を絞められていたが、無事なようだ。
「だがあんたが女性たちに犯した罪はまぎれもない事実だ。おれが告発したからといって、恨まれる筋合いはない」
デビッキの声を聞くだけで、腹の奥から溶岩のような憎しみと怒りが湧き上がる。これはラスパイユの激情なのだろう。
怒りの源は理由ではない。結果でもない。理屈などではなくデビッキという存在そのものに向けられている。
『大切なものを奪われながら、残された自分は一人、現実を生き続けなければならない。決して癒えぬこの苦痛こそはデビッキ、お前にとって素晴らしい贈り物になろう』
「贈り物? ルゥの口からそんなことを言わせるな! もしルゥを傷つけたら絶対に許さない。あなたの遺体も魂も、僕の炎で灰も残らぬまで焼き尽くす。司教のあなたにとっては最大の屈辱のはずだ」
フランが指を棺へ向けた。爆発しそうな怒りを抑えて、声が震えている。こんなフランを感じたのは初めてだ。
そしてなぜだかとても悲しい気持ちになった。これはラスパイユの感情ではない。
「ベインさんにはあなたが大切だった。偽りでも甦らせたかったはずだ。じゃあ、あなたの大切な人は誰なの? なぜ自ら死を選んだの?」
ベイン。
その名に大きく鼓動が打つ。そしてドロドロに煮詰まった怨念とは全く異質な何かが、ルゥの中を吹き抜けた。
思い出している。記憶が次々に連なって甦る。
ベイン、ドレーヌ大聖堂、罪、告発、離別、死。
その一瞬の隙に、サイアスとデビッキが動いたのは同時だった。
「
「
(えっ、えっ、それって心臓を止める術じゃ。待って、おれはこの体の中にいて……)
そして真っ暗な静寂が訪れた。
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