第二章 遠雷
Ⅰ 大神官殿
間もなく雨が降り出すだろう。湿った匂いに加えて肌がピリつくような感じは、
周囲を三名の神官に囲まれ、蒸気車から白い祭服に紫藤色のマントル姿の男性が現れる。聖ザナルーカ教会の入り口前で出迎えた助祭と司祭らが跪いた。
ラグナ教会総主教庁大神官、名をサイアスという。
教会では総主教直属でナンバー2の存在だが、色白の頬や引き結んだ唇には無垢さが残る。顎下でまっすぐに切り揃えられた髪は紺色で、汚れた空気のせいでこの街では滅多に見られない青空色の瞳が、正面の人物をとらえた。
同じく純白の祭服の上に、金糸で刺繍が施された朱色の
遠くで雷が轟いた。
「今回の査察は教会法第十一条に定めるものであり——」
神官の一人が総主教の勅書を読み上げる間も、大神官とデビッキは互いに目を逸らさない。読み上げが終わるとデビッキが「承りました」と一言答え、それで儀礼が終わった。
礼拝堂に入ると、大神官は透かし彫りのアーチが幾重にも重なる天井や、燭台に灯され金色に輝く柱や講壇、手入れの行き届いた大理石の床までぐるりと観察しながら歩いていく。虫の一匹も見逃さないといった目つきだ。
「大変見事なものだ。優秀な職人を何人も雇ったのだろう。確かここの改修工事は、総主教庁の補助は受けずに行っていたな」
大神官の声に、デビッキは振り返らずに答える。
「銀行から低金利で資金を調達できまして。それに補助を受けようとすると、予算やデザインを色々制約されるじゃないですか」
「当然だ。金に糸目をつけずに絢爛華麗に飾り立てた宮殿を作ってどうする」
「そうでしょうか。中途半端な芸術など、人々が見たいと思うかどうか。ここは観光名所にもなっていて地域に貢献してるの、ご存知ありませんか」
「だから勝手が許されるとでも?」
「許されませんか?」
執務室のドアを開け、大神官一団を中に入れると、デビッキは錫杖や頭に被ったミトラ、幄衣までもをさっさと外してしまう。
「動きづらいんで外させてもらいますよ」
「それよりこちらの二人は? なぜ部外者がここに」
「私の友人で、例の”教祖さま”に直接会っています。話、聞きたいでしょう?」
「しかし機密事項もあるだろう」
「私は構いません。大神官殿にも彼らにも、隠さねばならないことは何らありませんので」
するとフランが大神官の前へ進み出た。
「はじめまして。フランといいます。旧市街の火葬場でオーナーをしていて、彼は僕の秘書兼料理人のルゥ。デビッキとは八年来の友人で。僕も経営者だし、ここで見聞きしたことは決して他言しないと約束します」
「……失礼しました。総主教庁大神官のサイアスです」
「とてもきれいな声ですね」
そう言って差し出されたフランの右手を、サイアスは少しためらいがちに握った。
サイアスの声は、鍛え上げられたデビッキの深みのあるテノールとは種類が違う。ややもすると高く細い声なのだが、温かみの中に清流のような透明感があり、音量はなくともすっと頭に入ってくるのだ。
もしこれが聖なる声だと言われたら、すぐに信じてしまうだろうとルゥは思う。それに権威の権化と聞かされていたからどんな豪胆オヤジかと想像していたが、どことなくフランに似ていなくもない。
「ノールデン市の火葬場というと、ベルジェモンドですか。燃焼したご遺体から採取し、闇市場にしか流通しないという」
「悪い事をしてるつもりはないんだけど、教会のトップの方から言われるとちょっと怖いな」
「失礼、教会として何ら批判の意図はありませんので。お許しください」
「大神官殿は個人的に興味がおありなんじゃ?」
いつの間にか一人着席しているデビッキが口をはさむ。背後の金庫の鍵を開け、寄木細工で出来たからくり箱を取り出した。
箱の中から現れたベルジェモンドに、サイアスがはっと惹きつけられる。
「これが。確かに宝石以上に美しいな。魂のかけらと言われるだけある」
「ちなみに今お持ちのは処女の乳首っていうんですよ」
ニヤニヤ顔のデビッキに、サイアスは冷たい目で見返す。
「もしやこっちの金色は
にこりともしない大神官の意外すぎる発言に、ルゥはブッと吹き出してしまった。慌てて口元を押さえると、隣のフランに肘でどつかれる。しかし天使の横顔も笑いたいのを我慢していて、ますますルゥを苦しめた。デビッキも嬉しそうに口元を歪めている。
「大神官殿もくだらないことおっしゃいますね」
「先に言い出したのは君だろう」
「お好きなんですか」
「一緒にするな」
「私は嫌いじゃないですよ、そういうの」
「あのさ、名前つけたのは僕じゃないからね」
フランがそっと告げるとデビッキは爆笑し、サイアスはゴホンと咳払いした。
「食事や宿泊場所は用意してあるので不要だ。余計な気遣いはしなくて結構。接待を受けるつもりはない」
薄ピンク色の、突起がもうそれにしか見えないベルジェモンドを返しながら、大神官は早口に話題を変える。もしかして照れ隠しなのかもしれない。
「そうですか。おいフーシェ、大神官殿に薬酒をお出しして。ノールデン・ロゼがいい」
「はい。すぐに」
「要らぬと今言ったはずだが。私の聞き間違いか?」
「違うと思いますよ。イライラされてるようなのでお飲みになってください」
「君が余計な口をきくからだ」
「
フーシェが運んできたロゼ色の瓶とラベルは最近よく見かけるものだが、中身は喉が焼けるほど高度な酒精の、スパイシーなリキュールなのだ。グラスはフランとルゥの分もあるが、もう二度と飲まないとルゥは決めている。
「肉体疲労、肝の病、冷え症や気分の落ちこみに効能があります。うちはみんな飲んでるので病知らずですよ。どうぞ」
デビッキは水で割らずに、グラスの中を一息に飲み下した。あんなことをしたら喉から腹まで火竜が暴れ回るはずだが、平然としている。
一方大神官は、グラスに鼻を近づけただけでトレイに返した。
「これを修道士たちも皆飲んでいるだと? 酔うではないか」
「
「君は食事にも過大な解釈をしていたな。そういう積み重ねがやがて教会全体の堕落に繋がると考えるべきだろう」
「節制すれば万事良しとは考えません。栄養のある食事で体力をつけなければ。処方の研究には、未開の山地での新たな薬草探しという危険な任務もあります。けれどうちには、あえてそういうのに挑戦したいという有望な信徒が門を叩きに来てくれるんですよ。よそはどうだか知りませんが、私の教区では人材に困っていませんので」
鉄肺病で寿命が半減すると努力や我慢は死語となった。厳しい修行を積み神の召命に答えようする者は増えない。明日を担う聖職者の減少は教会存続そのものにかかわる問題で、教会が孤児院を積極的に運営するのは社会福祉のためだけではないのだ。
それを知らずにデビッキが言うはずはないだろう。
「どうぞ、おかけになって下さい大神官殿。一体何の罪で私を追い落とすおつもりか、ゆっくり拝聴したいものです」
沈黙した大神官へデビッキは手の平を向け、帳簿類が積んである机の椅子をすすめた。降り始めた緋雨が屋根を叩く音がし、窓の景色がロゼ色に染まる。
二人の間に散った火花を冷ますように、フーシェが薬酒のグラスを机に置いた。
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