Ⅱ 修道士が死んだ
新市街、午後五時のノールデン中央駅は多くの人でざわめいていた。鉄骨にガラスをはめたアーケードの天井を見上げながら駅舎を抜けると、ホームには発車準備を整えた最終列車が待っている。
「うわぁ! かっこいいっ!」
ルゥの目の前には、身長よりも大きな金属車輪が三つ。そして蒸気機関車の真っ黒な車体の後ろに、客車は終わりが見えなくなるまで続いている。
「どうしてルゥ君まで来るわけ? おれはフラン君と二人っきりで体温を感じながら濃密な夜を過ごしたかったのにさ」
巨大な男子のロマンを目の前にせっかく夢心地だったのに、
「おれはフランさんの秘書兼料理人ですから! フランさんが旅先で慣れないものなんか食べたら、一発でお腹壊しますからね」
すぐ脇で機関車からプシューッ! と大きな音がして、飛び上がってしまった。
「お邪魔虫なんだからちゃんと役に立ってよね」
旅費はおれ持ちだしとケチ臭いことをブツブツ言われるが、全て聞き流す。だってルゥには汽車をこんなに近くで見たのも初めてなら乗るのも初めてで、もう楽しみで仕方ないのだ。
「うわ、うわ、ここってもしかして一等車じゃないですか⁉」
「当たり前でしょ。フラン君を乗せるのに二等以下なんてあり得なくない。君、それでも秘書なの?」
不機嫌にコンパートメントのドアを開け、さっさと乗り込むデビッキ。
「むきぃいいぅぅ!」
ルゥが頭から蒸気を出していると、フランに「言わせておきなよ。僕は汽車なんて何年ぶりか分からないくらいだしさ」と早く乗るよう尻をポンポンされた。
薔薇模様のふかふかな座席は向かい合わせに六人座れるようになっていて、間には折り畳み式のテーブルが設置されている。
「よかった、食事ができそうだ。冷めないうちにごはんにしましょう、フランさん」
黒いジャケットとつばの広いキャプリーヌハットを上の網棚に置いたフランが座ると、早速ルゥはテーブルを組み立てた。それから背負ってきたリュックを開けて、まだほんのり温かい包みを取り出す。
「持ってきてくれたの?」
「はい。ポワロー葱のキッシュです」
「う、ネギなの……?」
「今が旬ですから甘くてみずみずしいですよ。それに台もパイ生地じゃなくてフランさんがお好きなブリオッシュにして、甘くしてありますから」
刻んで柔らかく煮たポワロー葱を、溶いた卵と牛乳、生クリームと一緒にブリオッシュ生地を敷いたタルト型に流し入れ、焼き色がつくまでオーブンで焼いた料理だ。生地は昨日から仕込んでいたし、どうしても食べさせたかった。
フランはしばらくの間、薄緑色のくたっとしたポワローさんとこんばんはしていたが、意を決してちょっとかじった。
「この生地すごくおいしいね」
「ありがとうございます。次の一口はポワローにたどり着いてくださいね」
「はぅ……」
巨大な蒸気機関車に象徴される文明享受と引き換えに、この地域は土も水も空気も汚染されている。そこで育つあらゆる食物にも毒素が溜まるのだが、フランの体は常人では感知しないほど微量の毒素にもことごとく反応してしまい、下痢や嘔吐は日常茶飯事なのだ。加えてとんでもない偏食のため、放っておくと飲まず食わずで過ごしてしまう。そのせいで半年前に体を壊して以来、ルゥが専属料理人としてフランの健康を食事で管理しているのだった。
目の前に座ってわざとらしく窓の外を眺めるデビッキにも、仕方なくキッシュを差し出す。
「フランさん一人では食べきれませんので。よかったらどうぞ」
「時間ないのにわざわざ弁当作ってきたわけ?」
「せっかく焼き上がりって時に、出かけることになったって呼ばれたんですよ! それで、甦りの街って何なんですか?」
ホームでは笛が吹き鳴らされている。間もなく大きな音と揺れと共に、大量の白い煙を吐き出し、汽車が動き出した。
「新聞読んでないの? 秘書なのに?」
「ぐっ!」
そう言われては返す言葉もないが、生憎ルゥにその習慣はない。隣のフランがやさしく教えてくれる。
「シュルシェーズ村っていうところでね、亡くなった人を甦らせられる人がいるんだよ」
「死んだ人を⁉ 何者なんですかその人? もしかして魔物とか?」
デビッキはキッシュを一口かじり、「うまいね」と食べ進めて答えようとしない。またもフランが「新聞の情報だとね」と前置きして教えてくれる。
「魔物かどうかは分からないけど、≪
「え……、そんなになんですか」
「
鉄肺病は、文字通り肺が鉄のように硬くなっていく不治の病だ。汚染された環境に因子があり、二十代から三十代で住民の九割が発症、五十代までに確実に死に至る。
ルゥの両親も鉄肺病で他界したし、火葬場には日々そういうご遺体が運ばれてくるから、ルゥにとって死はごく身近にあり当たり前に受け入れるものだった。だから運命に逆らおうと人々が殺到するというのは、ちょっと驚きだ。
「百パーセント成功するわけじゃないみたいだけど、それでも可能性に賭けたいという人が多いんだね」
「でもきっと高額な献金を取るんじゃないですか?」
「そうみたいだよ」
黙ったまま大きな口でむしゃむしゃ食べ続けるデビッキに、フランが二つ目を手渡した。
「棺で眠ってた人が復活するような派手な奇跡を新興宗教に見せつけられて、老舗大手のラグナ教会が黙っているわけにいかないよね」
そう振られて、二つ目をわずか三口で平らげたデビッキがようやく口を開く。
「そうだよ。あんなのタチの悪い金儲け主義の新興カルト集団さ。おれの教区でよくも面倒なことを始めてくれたもんだよ。しかも現地の修道院長は手に負えないとか泣き言ほざきやがって。着いたらまず叱り飛ばしてやる」
ルゥの中ではエロ司教のデビッキだが、ラグナ教会で上から総主教、大司教に次いで三番目の高い地位にいる。この国では司教は三人しかおらず、ノールデン市から南東へ下ったシュルシェーズ村はギリギリ担当教区内だという。
死人を甦らせる教祖さま。にわかには信じがたい話だが、デビッキが自ら出向くくらいなのだから噂や誇張ではないのだろう。果たしてその奇跡は神のものか、あるいは悪魔のものか。
ポワローの繊維が喉に引っかかり、フランがむせて咳き込む。
「だいじょうぶですか?」
背中をさすって水筒を差し出す。その向こうの窓の景色に目を奪われた。
「うわぁ! 速い!」
木立が現れては右から左へあっという間に消え、平原と夕空がずっと奥まで広がっている。
「すごいですねぇフランさん! 見てくださいよ」
ケホッと小さく咳をして、「そうだね」と水筒の水を飲んだ。
「汽車のおかげで国が狭くなったようなもんだって、死んだ親父が言ってました。おれ、ノールデン市からこんなに離れるの初めてで」
「シュルシェーズ村は海沿いなんだよ」
「海が見られるんですかぁ⁉」
期待に胸を膨らませると、「遊びかよ」とデビッキは鼻でため息をついて目を閉じてしまった。
「ご機嫌ななめみたいだね。放っとこ」
聞こえるように言ってフランは食事を片付けると、肩にかけた革製のポシェットから何かを取り出した。
「トランプですか?」
「そう。最近手品の本を借してもらってね、練習してるんだ。ちょっと付き合ってよ」
言いながらカードをシャッフルし始める。その手つきだけを見ても、結構練習したんじゃなかろうか。
「じゃあ、この中から好きなカードを一つ選んで、僕に見せないで覚えておいて」
扇状に広げられたカードの中からルゥが選んだのは、♥の5だった。
「覚えました」
「じゃあそれを一番上に戻して、もう一度シャッフルするよ」
何度か切ると「これで混ざったはずだね。ではさっきルゥが選んだカードを、何番目に出してほしい?」と問う。
「えっ、ええと、じゃあ四番目」
「四番目ね。見ててよ」
パチンと指を鳴らす。それから束の下からカードをめくってテーブルに置いていく。最初は♣︎の3、二番目は♦︎の9、三番目は♠︎のクイーン、そして四番目は——
「♥の5だ」
謎めいた天使の笑みに「ええええーっ! すごい!」とまたハイテンションな声を上げてしまい、細目を開けたデビッキが迷惑そうに眉をしかめた。
「びっくりした? 今のは一番簡単なやつで、次はちょっと上手くいくか分からないんだけど」
次も、その次もことごとくルゥのカードを当てていくフラン。タネを見破ろうと目を凝らして「もう一回!」としていたら、あっという間に二時間半が経ち、目的の駅に着いていた。
村までは蒸気車バスで一時間ほど走るという。最終バスにも関わらず満席で、ルゥたちは運転席のすぐ後ろに座った。
産まれて初めての海は車窓の向こうにいきなり現れた。暗くなりつつある空の下に銀色の波しぶきが立ち、それは遠目にも圧倒的なスケールで、ルゥから言葉を奪った。
窓にかじりついているとデビッキから「子どもじゃないんだから」と言われてしまうが構わない。ずっと見ていられる。
「お客さん、神父さまですかい?」
運転士に問いかけられ、デビッキが応じる。
「ええ。よく分かりましたね」
「声ですよ。神父さまか、そうじゃなきゃ歌手だ。あたしは毎週ミサに通ってますがね、言っちゃ悪いけどそこの神父さまの声とは比べものにならないくらい素晴らしいですぜ。ラグナ神からの授かり物だ」
「それは素直に喜んで良いのか迷います。まだ神の足元にもたどり着けていない若輩者ですので」
かけらにも思っていないことを、さも殊勝な面持ちで告げるデビッキ。やはり新市街の信者はみんな騙されているんじゃなかろうか。
「けど今は村に近づかない方がいいですぜ。ラグナ教会の修道士が襲われて死んだって話で」
「死んだ⁉ 一体何が?」
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