第一話:記憶の祭壇《2》
日比谷――
江戸時代の大名屋敷を整理して生まれたこの街は、日本初の近代公園である日比谷公園を中心に様々な施設が建ち並ぶ。
そんな日比谷には、東京を代表する建物の一つがあった。
名は『日比谷三角』
震災を挟んで完成した三角形状の建物は、ホテルや劇場など様々な施設を内包する先進的な総合文化施設だ。
そんなビルの片隅に一軒のカフェがあった。
大正ではバーやクラブ、キャバレー、ライブハウス、喫茶店、果ては風俗店まで区別がなく、すべて『カフェ』と呼ばれている。
日比谷三角のカフェは、
扉の銘に刻まれた名は『ラヴォアール』
客は店内奥に設えられた舞台で興される音楽や小劇などを楽しみながら、珈琲や洋酒、洋食を楽んでいく――そんな店だ。
その日、小さな舞台を独占していたのは一人の少女だった。
出身は想像がつかない。おそらく様々な国の血が混じり合っているのだろう。
年齢はやっと二桁を越えた程度だろうか。
紹介もなく、無造作に舞台に立った少女が始めたのは伴奏もない
だが――第一声が響いた瞬間、カフェ中に響いていた喧噪が沈黙する。
圧倒的な声量! 絶技の旋律!!
即興で華やかな装飾も加えられた情熱的なソプラノが、聞く者の感情を揺り動かしてゆく。旋律が進むにつれて客たちの魂は《幻想》に深く浸っていった。中には滂沱の涙を流す者さえいる。
そうして、どれほど酔いしれていたのか――
やがて客たちが幻想から醒めた。歌が終わったのだと気付く頃には、少女は既に舞台を降りた後だ。
「い、今の子は……」
手前のテーブルに座っていた年若い将校が呆然と呟く。友人らしき福々しい実業家が我が物顔で頷いた。
「どうだ、よいだろう! さる伝手で今日の昼から舞台に立つかも知れんと聞いたので、これは是が非でも君を誘わねばと思ったのだが……気に入ってくれたか?」
福々とした青年がチラっと流した目線の先には、上品な服装をした長髪の少年がいた。
相当な家柄の子息と噂される少年は、少女シンガーが舞台に立つとき必ずいるとの噂があった。
「ああ、勿論気に入ったとも!」
青年二人が盛大な拍手を捧げる。釣られるように、呪縛が解けた観客たちもぽつぽつと拍手を捧げ初め、やがて大喝采となってホール中に響きわたった。
熱気はそのまま高い酒や上等な料理、厳選された珈琲のオーダーへと変わってゆく。まだ日も高いうちから皆が歌について、文化について、大声で語りあう中を、給仕たちが忙しげに回り始めた。
「
「ありがとう」
スタッフ送られ、舞台からバックヤードに戻る。
背中に拍手が当たるけどアンコールに応えたことは一度もない。
商売で歌ってる訳じゃないしね……
そのままスタッフ通路を進み、小さなエレベーターへ乗り込んだ。
エレベーターのボタンを押す――押したいんだけど、残念ながら無い。
なんとハンドルだ。
スイッチは触るだけで駄目で、押し込まないと反応しない。
このハンドルとスイッチで、扉の開け閉めからカーゴの移動、降りたい階での停止――諸々をすべて人が操作しないといけないのだ。
目的階での停止がなかなか難しく、ズレすぎて飛び降りたこともある。
今日は幸い一発で止められた。
蛇腹扉を開けて短い通路を抜けると、周囲に華やかさが戻ってくる。
日比谷三角の上階に入っている『東京ホテル』だ。
さりげなく現れたコンツェルジュが一礼するけど、必要とされていないことを察すると一礼とともに再び気配を消す。
そのままロビーの階段を登り、最上階の廊下を奥へと進んでいく。
お客にジロジロ見られてるような気がするけど、無視!
スウィートに続く八角形の廊下を進んでいく途中、ふと窓を覗き込んだ。
見下ろせば舗装もされてない日比谷通りがある。
道の真ん中には
確か省線だったかな?
そんな感じの名前をした電車が、遠くのガードへ消えていく。
見上げれば青い空だけが広がって――
呼吸数回分くらいそうしていただろうか。無意識に溜息が漏れた。
「ここ以外に、行くところなんてないか……」
呟くと、奥にある部屋へ入る。
アールヌーボースタイル――鉄と硝子とジャポニズム形式にまとめられたスィートは、僕の個室だ。他に人の気配はない。
「はー、すっきりした!」
大声で歌うのは気持ちがいい。たまりに溜まったストレスが少し発散してくれる。
溜息を漏らしつつ、高価な子供用ドレスを雑に脱ぎ捨てた。
靴も脱ぎ、トップを兼ねたサテンのシュミーズとガーター付き
それほど大きなサイズではないけど、僕が小さいのですっぽり埋まってしまう。
「くああぁ……っ!」
そのまま大きく伸びをした。
幼くて凸凹の少ない身体が滑らかに反り、繊細に震え――パタリと脱力する。
「……」
反射的にスマホを弄りたくなって、すぐ気付く。
ない。
大正十三年の日本には、ラジオ局すらない!
代わりにテーブルへ広げたままの、タブロイド誌の束をチラっとみた。
どれも簡潔、明瞭、痛快をモットーとしているゴシップ新聞で、三面にある小さな記事が赤鉛筆で囲まれている。
右から左にかかれた、読み難いタイトルを声に出す。
「夜のビル街にて都度目撃されし、幽霊怪盗の正体はいかに……」
――いかにも何もあるものか!
次に、部屋の隅に放り出してるボロけた鞄を見た。
一昨日壊された奴だ。
中身は取り出し、僕が協力している
そろそろ何か分かりそうなものだけど……いまは待つしか無いか。
「はあ……」
下着姿で放心していると、足の間の影がするりと動いた。
黒猫だ。
まだ子猫といった体格で、首にはお洒落なタイ付きカラーを付けている。
『なんて格好だ、
黒猫が股の間で喋る。
僕の相棒である黒猫のニュートで、《旧支配者》の血を引くとか何とか――
「変なところをのぞき込むな、ニュート!」
つまり股の間を――
ニュートが興味深げに何度も頷くので、ジト目で睨んでやる。
「僕のパンツを見て面白い?」
『時代が大正に移る前、欧州にはカストラートと呼ばれる人たちがいた。高音域を生涯維持させる目的で少年のうちに去勢されたシンガーのことだが、知っているか?』
「切れとでも? いくら《転生》した身体とはいえ、今はボクのだよ」
そうだ、ついてる。
見た目が十歳ぐらいの身体なので、分かり難いけど!
股の間から太ももに移ったニュートが呵々、呵々と笑う。
『当時の音楽家たちがお前を男だと看破できれば、去勢しようと群がったろうな!』
ニュートが一度言葉を切った。
くっくっくと猫らしからぬ皮肉気な笑顔を浮かべる。
『その身体を作り出した《魔術師》イーフレイムは大変な変人だ。受け継がざるを得なかった瑛音には同情するとも』
「やかましい!」
『あ――おい、やめろ!?』
両足を畳んで足の間にニュートを押し込む。
そのまま胡座に移行した。
ニュートが前足で太ももをぺしぺし。ブレイクの合図だ。
でも知らない。
「こっちはその変人と精神を《交換》されたせいで、令和から大正みたいな異世界に島流しだよ。早く元に戻してくれってイース本国に言えと何度も!」
イース……イースの大いなる種族!
宇宙がいまみたいに拡大して冷える前、様々な《法則》を体現する超存在が存在していた。通称は《旧支配者》。
イース人もその一柱で、特性は《時》の支配だ。
もっとも、他の《旧支配者》みたいに邪神っぽくはないんだけど。
どっちかというと変な外星人という感じ?
そういう存在を笑い飛ばせていたのは、転生する前までだ。
はあ……
『ここは異世界というか、分岐したIF世界だな。日露戦争が日英露仏にプラス数カ国にまで発展した、もう一つの《大正時代》』
ニュートが戒めからするりと抜け、僕のお腹に背を擦り付ける。
シュミーズの端が大胆に捲れ上がった。
『それと――元の身体はもうない。何度も説明してきたが、お前はイーフレイムが仕掛けた《精神交換》という魔術のターゲットにされたのだ。イーフレイムが未来へタイムトラベルするための生け贄としてな』
「安心して、イーフレイムも恨んでるよ!」
なにしろ転生の魔術を使った張本人だしさ!
がるるる!
『とはいえ、当人は虚空の彼方で《
そう、とっくに死んでる。
ただ死んだだけじゃなく、ヨグ=ソトースという旧支配者中のド支配者に激突して。
タイムトラベルには向いてなかったのかも知れない。
「でも、何か手は……」
『さてね? その答が出るまでは
「のぞくなー!!」
『猫に何をいう。飼い主のお風呂タイムを見張るのは、我らの種族的本能だ』
「普段は猫扱いするなと言ってるくせに……あと、君は相棒! 飼い主とか呼ばないでよ、気持ち悪い」
ひょいとニュートを解放する。
「――で、今日はどうしたの?」
『イース人から神託が来ている。曰く――あと一息だから、本の《死刑》を頑張れヨロシク=オネガイシマス』
「翻訳アプリ変えてって、言っておいて」
イース人は《時》を支配してるけど、直接の歴史改編を嫌がる。
だから各時代でエージェントを雇う。
この大正時代では僕とニュートというワケだ……はあ。
彼らの目的はただ一つ、『カブトムシは嫌』
意味はよく分からない。
ただ、同じ神託を受けたイース教団である
何故に?
それ以来、結社とは共闘する仲だ。
一応は発明されていたエアコンやシャワー、それに水洗トイレが使えるのも彼らのお陰だ。
ジブリみたいな原始生活を覚悟してただけに、とても助かってる。
『結社にも別件の神託が行っているはずだ。お前が依頼した資料の調査も進んでる筈で……ほら、さっそくだ』
それきり黙った。
正確にはにゃーとか、うにゃあとかは喋るんだけど、それだけだ。
どうしたものかと思案していると、扉が軽くノックされる。
「いるよー!」
答えてからふと自分がまだ下着姿だったことを思い出して、慌てて着替えに手を伸ばす――けど、ニュートの気まぐれで空を切った。
ニュートが悪いわけではないんだけど、ギリギリで間に合わない。
床に尻餅をついたのと、執事風のタキシードを着た長髪の
鍵? 大正時代は何もかもが手動だよ!
少年は惨状を一瞥して素早く扉を閉じると、必要最低限の動作にあらん限りの敬意を込めて礼をした。
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