第7話 揺さぶられ続ける自我
「貴方は……?」
倒れ伏せ、今にも息絶えそうな男。
その姿にシェリアは目を細める。
……なぜここに入れた?
その疑問の答えは、彼の手の中にあった。
「貴方っ! もしかしてこじ開けたの!?」
アントンに渡している鍵と同じもの。
概念的に世界と隔絶されたこの空間は、シェリア以外ではこの鍵を持つものしか入れない。
しかも、シェリアが許可した者に限るのだ。
それをこじ開け、越えるということは、一度自身の体を分解して再構築するのに等しい。
「そんなことして……死ぬわよ……!」
「わた……しの死など……どうでもいい…………」
少しずつ、でも確実に這い進む男の姿。
流れる血は床を真っ赤に染め、すぐにでも致死量に達するだろう。
それでも男が意識を保っていられているのは……魔力のおかげでもあるだろうが、それ以上に男の精神力がなせるものだ。
全身に耐えがたい痛みが走っているはずだ。
体のどこにも力が入らないはずだ。
いや、すでにそれを感じる感覚すら無くしてしまっているかもしれない。
それほどに、男の状態は手遅れになっていた。
「そこまでなってしまったら、いくら私でも治せない。概念世界を突破するということは自殺すると動議なのよ!」
「はぁ……はぁ……」
シェリアが叫ぶも、男は止まらなかった。
三メートルが二メートルになり、続いて一メートルになる。
そして——
「……っ!?」
がっしりとシェリアの足首を掴む男の手。
瀕死の重体のはずなのにその力は信じられないほど強く、痛みを感じるほどだ。
「ア……アインを……たす……助けてください……」
血に塗れた顔を上げ、シェリアの目を見つめる男。
境界を越えた代償なのだろう。片目はすでに潰れ、鼻や口、両目からも血が流れていた。
おそらく、すでに視力は失われている。
なのに、男の眼差しはシェリアを逃さない。
「王子は助けるわ……明日、王に話して」
「そ……れで……は…………お……そい」
「……何ですって?」
「アインは……きょ……うの……ひ、昼に……処刑……される」
「もういい……話さないで」
「だか……ら……お、ねがい……しま…………」
これ以上は本当に命を落としてしまう。
しかし、男は止まらず、シェリアの足首に鈍い痛みを与えてきた。
「つ……」
「アイン……ア、イン……を……」
「は、離しなさい……! はな、してっ!」
痛みに眉を歪め、振りほどこうとするも男の手は離れない。
それどころか、シェリアの足に更なる苦痛を与えてくる。
……分からない。
なぜ、そこまで他人の為に生きられるのだろうか?
自分の命が惜しくないのか?
這い寄ってくる死が恐ろしくないのか?
男は自身の命などどうでもいいと言っていた。
それが理解できない。
命は尊いもののはずだ。
この世界には死者を蘇らせる方法など存在しない。
死んでしまえばお終いなのだ。
「分かった! 分かったからっ……!」
それは、痛みから逃れるための口実。
だが、男にとってはこれ以上ない言葉だったのだろう。
「ほ……んとう……です、か……?」
フッと力が緩み、痛みから解放される。
握りしめられ、血に塗れた自身の足。
血が止まっていたからなのか、ドクドクと再開した血の巡りが心臓の音と同調し、うるさいくらいに耳を揺らした。
「アイ、ンを……たのみま……す……」
男は上げられなくなった顔を上に向けるため、仰向けに。
「あのひと、は……貴方に……人生をさ……さげて……だから…………」
震えながらも伸ばされる手。
残った片方の瞳はすでに虚ろで。
かろうじてしている息は途絶えかけていて。
それでも、彼の手は真っ直ぐに
「どうか……アイ、ンの手…………を……」
「…………分かったわ」
掲げられる手を見つめ、シェリアは深く頷いた。
男はもうすぐ死ぬ。
だからこそ、手向けとしてこの言葉を贈る。
この言葉が、彼への救済になると信じて……。
「ありがとう」
途切れなく。
男の言葉は紡がれた。
伸ばしていた腕が力を失い、地へ落ちる。
虚ろな瞳は変わらない。
だが、かろうじて続いていた呼吸は止まっていた。
なのに——
「なんで……なんで最期に笑うのよ……?」
男は笑っていた。
それこそ、救われたと言わんばかりに。
……意味が分からない。
男の笑顔の意味も。
あんなことを言ってしまった自分の心も。
「……分からない……分からないよ…………」
ただ一人となった世界で。
その声は、泣きそうに震えていた。
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