約束小道 -4

 翌日も少し早く訪れたマサキは見渡すほども広くないこの場をきょろきょろとしている。


「娘は今日は来ないだろうよ」


狼が言うと、マサキは肩を落として隣りに座った。狼の首に手を回してその背をぎゅっと抱く。


「おととい、聞いたんだ。近所の事故で亡くなった女の子の話。その子は赤いリボンの髪飾りがお気に入りだったんだって。学校が同じだなんて嘘だよ」

「知っていたのか?」

「うん」


マサキは狼の長い毛に顔を埋めたまま動かない。


「泣かないのか?」

「泣かないよ。痛いのも辛いのも俺じゃないもん」


マサキには言葉どおり涙は無い。その代わりに狼に抱きつく腕に力を込める。


「ねえ、あの子、どうなった?」

「私は人間が最後に辿りつく場所は知らない」

「なんでここに来たのかな。何か思い残すことがあったの?」

「さあな。でもあの娘は昨日自分から帰っていった。お前も一緒だったろう?」

「森から出た後、実香ちゃんは家に帰るって言ってた」

「だったら、そうなんだろうよ」


自分を思い出したらしい少女は、昨日狼に別れを告げて帰っていった。おそらく彼女はもうここへは現れない。


「もう苦しくないよね」


己に言い聞かせるようにマサキが呟く。狼は何も答えない。代わりに真夏の温い風がひゅうと細い音を立てて木々の間を抜けていった。




 このところマサキは目に見えて覇気が無い。少女と別れてからしばらくは落ち込んでいたが、最近はいつものペースを取り戻していた。しかしまた沈んでいる。その日は朝から狼の隣に座って黙り込んでいた。いい加減痺れを切らした狼が声を掛けた。


「ここ数日なんなんだ、鬱陶しい」


マサキがびくりと肩を震わせる。顔を上げて少し視線を彷徨わせた後、覚悟を決めたように話し出した。


「夏休みが終わる前に遠くに行くことになったんだ。父さんの都合で急に決まったって」


一息でそこまで言って、マサキはまた俯いた。眉間の皺は泣くのを堪えているようだ。


「そうか」


簡素な返事をした狼に、マサキが顔を歪める。


「狼は寂しくない? やっぱり俺邪魔だった?」

「私が寂しいと言えばお前はここに留まるのか? お前のような子供に何ができる。無意味な問答だ」

「そう、だね。ごめん」


唇を噛んで、マサキは視線を合わせないまま立ち上がった。ひとつ深く息を吐く。


「俺、もう来ない。じゃあね、狼」


マサキは広場を出て走り出した。がさがさと葉が揺れる音が遠ざかっていく。途中一度だけ葉擦れの音が止まったが、狼は気が付かない振りをして目を閉じた。


「長引けば辛いだけだろう?」


声にならない呟きは誰に伝わることもなく夏の日差しに消えた。




 まだ空が夜を残して薄い青を広げている早朝、がさりと茂みを揺らす手があった。朝靄が掛かり夏とはいえ相応の冷気を保っている。はきだしの腕を擦りながら現れたその姿に狼は目を瞬いた。


「おはよ」


先日走り去ったマサキは気まずそうに朝の挨拶をした。人通りの少ない早朝、こんな森の中を子供が出歩いて良いはずが無い。狼は咎めるように目を細めた。


「何をしにきた」

「俺、今日引っ越すんだ。思い残すことがある人間は狼のところに来るって聞いたから」

「どういうことだ?」

「狼に、やっぱりちゃんとお別れを言いに来た。さよならって言うのは辛いけど、言わないときっともっと辛いから」


子供のひそやかな声が森の空気を震わせる。そうしてマサキは穏やかに微笑んだ。


「大きくなったらまた来るからそれまで待っててよ。どうせ狼はここに居るんだろ?」

「草太が、来るかもしれない」

「そしたら狼が草太さんと一緒に俺のとこに来てよ。狼に俺より仲の良い人がいるのは悔しいけど、でもきっと仲良くなれるよ。ね、いいでしょ?」


ねだるようなマサキに狼が頷く。おそらくそんな日は一生来ない。だが、たった今体に血が通い始めたかのような不思議な感覚に、狼はそれも良いかと思う。


「わかった。約束しよう」

「うん。ありがと」


ぱっと笑みを見せてマサキが狼に抱きつく。ぎゅっと毛を引っ張ってマサキは狼の耳に口を寄せた。


「絶対、また会おうね」


祈るように囁いて、マサキは狼から離れる。


「俺、もう戻らなきゃ。抜け出したのばれちゃう。じゃあね」

「元気で」


狼が返事をする間もなく駆け出したマサキに、一言だけ声を放る。

 寂しいけれど悲しくはない。草太の時とは違い、寂しさには必ずしも悲しみが付随しないのだと知る。このままいつかの未来までマサキを待つのも悪く無い。知らぬ間に昇った太陽が朝の湿った空気を一掃する。今日も暑くなりそうだった。

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