約束小道 -3
何時ものようにのんびりと時間が過ぎていくと思った昼下がり、思わぬ来客があった。茂みの奥に佇んでいる人影に狼が声を掛ける。
「入ってきたらどうだ?」
その声に隣に座るマサキも顔を上げる。広場に顔を出したのはマサキと同じ年頃の少女だった。顎下までの日本人形の様なまっすぐな髪にぱっちりとした二重の女児だ。リボンの髪飾りが可愛らしい。
狼を恐れているのか、はたまた狼が人の言葉を話したことに驚いているのか、表情の硬い少女にマサキが声を掛けた。
「狼は怖くないからおいでよ」
狼の横で笑うマサキに少女が恐る恐る近づいてくる。
「その犬、狼なの?」
「そう。でも人を襲ったりしないよ」
距離をとって立ち止まった少女に、マサキが「狼は妖怪のようなもの」と説明をする。その言葉に少女はさらに困惑したようだ。少し考えたマサキが狼の首に抱きつくと、とりあえず危険が無い事を理解したのか少女が近づいてきた。
「触っても、いい?」
「ああ」
少女が狼に尋ねる。ゆっくりと伸ばされた手を狼が静かに受け入れると、狼の背を撫でていた少女の顔が少し柔らかくなった。
「可愛い」
「そ、そうか」
しばらくして少女がぽつりと言った。笑みを浮かべた少女とは対照的に、狼は複雑そうだ。隣のマサキがぷっと吹き出すと、少女は不思議そうに首を傾げた。
狼を挟んで、子供二人が仲良くなるまでに時間は掛からなかった。たわいのない話をしているうちに日が傾く。もう帰る時間だ。
「ねえ、明日も来られる?」
わかり易く期待するマサキの目に少女も楽しそうに頷く。
「なら、今日は帰ろう。あそこの細い道を抜けると外に出るんだ」
マサキが獣道を指差す。しかし、それを遮ったのは狼だった。
「少し娘に話があるから先に帰れ」
「え?」
「すぐに帰すから心配するな」
「……うん」
戸惑いながらも頷いたマサキは、狼の言う通りに一人で広場を出た。がさがさと茂みをかき分ける音が聞こえなくなったところで、狼はひとつ息をついた。狼が少女を振り返る。
「娘、お前はどうやってここに来た?」
その問いに少女は目を瞬かせた。少し考えた後、ぎゅっと両手を握りしめる。
「わからない。犬の声が聞こえて気がついたらここにいたの」
話しながら急に恐ろしくなったのか少女の肩が小刻みに震えている。今にも泣き出しそうだ。狼が鼻先をその頬に擦り寄せる。
「帰る場所がないのならここにいるといい。そのうちに思い出す」
少し安心したのか、頷いた少女が狼の隣に座る。狼の首筋に顔を埋め、その背を撫でた。どれくらいそうしていただろうか。しばらくして少女が顔を上げた。
「狼さんは『狼』って名前なの?」
「いや、名が無いからマサキが『狼』と呼んでいるだけだ」
「マサキってさっきの子? そういえば自己紹介を忘れてたね」
「そうだな。お前の名は?」
少女が狼に凭れて空を見上げる。茜色はもう隅に追いやられて紺色に濃淡をつけるのみだ。いくつか瞬きはじめた星に混じって飛行機のライトがちかちかと光る。
「そういえばわからない。思い出せないや。変だよね、こんなの」
「そうか。ならもう寝たらいい。明日またマサキが浮かれた顔でやってくるだろうさ」
少女はもう一度狼の体に顔を埋めた。皮膚に伝わる感覚で少女が頷いたのがわかる。
「さっきから何も食べてないのにお腹も空かないし、外にいるのに暑いのか寒いのかもわからないの。おかしいね」
既に眠りの淵にいるのか、他人事のように呟いた少女を、狼は大きな尻尾で包んだ。
「もう来てたんだ。おはよう」
いつもより早く広場に顔を出したマサキは、狼の隣の少女に言った。
「おはよう。今ちょうど、いつ来るかなって狼さんと話してたの」
穏やかに挨拶を返す少女の横で、狼が不機嫌に鼻を鳴らす。
「お前は私には挨拶もなしか」
「え、ごめん。そういうつもりは……」
ふいと顔を逸らした狼にマサキが目を丸くする。ぶんぶんと手を振って弁解するマサキに、狼が吹き出した。喉を鳴らして笑う。
「冗談だ、気にするな」
「え、酷い! 俺本気で謝ったのに!」
マサキが抗議するが、狼は笑うのみだ。マサキが頬を膨らませると、今度は隣の少女から楽し気な声が漏れた。マサキが唇を尖らせる。しばらくして少女の笑いが収まったのを見たマサキが言った。
「昨日、名前を訊くの忘れてた。俺は、」
「知ってる。マサキくんでしょ。狼さんに聞いたよ」
「そっか。でも俺もきみの名前知ってるよ。
「な、んで、私の名前を知ってるの?」
その名を聞いて少女の顔色が変わった。青い顔で搾り出した声は明らかに動揺している。一変した雰囲気にマサキも気付いたようだが、わずかに眉を寄せただけだ。
「学校が同じなんだ。昨日帰ってから思い出した。実香ちゃん可愛いから知ってたよ」
照れくさそうなマサキに、少女はニ、三、瞬く。その気の抜けたマサキの顔に、少し落ち着いたのか少女、実香は一つ息をついた。
「あ、でも、本当は俺……」
言いかけて、マサキは狼にちらと視線を向ける。そうして少女に近づいてその耳に顔を寄せた。何事か囁いて、へへ、とはにかむマサキに、実香がつられて笑う。
「何、こそこそと話しているんだ」
狼は不満そうだ。もし狼が人の表情を作れるのなら、先ほどのマサキのように頬を膨らませているだろう。困った実香がマサキを見ると、マサキは唇の前で人差し指を立てた。
「狼には内緒」
「感じ悪い子供だな」
ヒヒヒ、と楽しそうなマサキに狼が言う。やがて狼は子供たちの相手に飽きたのか欠伸をして寝る体勢に入ってしまった。
「ねえ、あっちに変なきのこがあったんだ。見に行こう」
狼と遊ぶのを諦めたマサキが森の奥を指差す。実香も先ほどの動揺からは抜け出したのか素直に頷いた。連れ立って歩き出した子供たちを、狼は目を細めて見送る。
その日もあっという間に時間が過ぎた。森の散策から帰った二人が狼に成果を報告する。クワガタだの、珍しい植物だのとはしゃぐマサキに、実香が時折細かい説明を追加する。特段反応をするわけでもないが、それでも子供たちの話を狼は大人しく聞いている。
「さて、じき日が暮れる。子供は帰る時間だ」
話が一段落したところで、狼が空を見上げた。薄青の空の端には夕陽に染められた橙色の雲が流れている。
「まだ、帰りたくない」
「マサキ」
珍しく駄々を捏ねるマサキに、狼が咎めるように名を呼んだ。狼に初めて呼ばれた自分の名にマサキは目を丸くし、やがて諦めたように息をついた。
「わかったよ。実香ちゃん、帰ろう」
立ち上がったマサキに倣って実香も立ち上がる。ぱんぱんと服についた埃を払って実香は狼に向き直った。一度ぺこりとお辞儀をする。髪の赤いリボンの飾りがひらひらと揺れた。
「今日は、帰るよ。狼さん、ありがとう」
「そうか。気をつけてな」
にっこりと狼に笑いかけて、実香はマサキの手を引いて歩き出した。急に手を繋いだ実香に、マサキは夕陽のせいだけではなく頬を赤く染めている。
外に続く茂みの前まで歩いたマサキは、立ち止まって振り返った。実香もそれに続く。
「狼、さっきの内緒話、いつか狼にも教えるよ。でも、今はダメ」
それだけ言って、マサキは茂みに足を踏み入れる。
「さようなら」
実香は狼にもう一度お辞儀をして、マサキの後につづく。狼は子供たちが鳴らす草の音が聞こえなくなるまで目で追って見送った。
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