約束小道 -2
「どうした? 今日はやけに機嫌が悪そうだな」
茂みを押しのけて近づいて来た子供に狼が言った。マサキは口を真一文に結び、不機嫌なオーラを纏っている。
「狼には関係ない」
「そうか」
昨日帰る時にはマサキの様子は何時もと変わらなかった。ゆえに原因は狼ではない。触らぬ神に祟りなしと思ったか、はたまた単に興味が無いのか、狼はそれ以上追及しなかった。
工事途中で打ち捨てられた山の中には、遠くの車の音と時折鳥が囀る以外にめだった音は無い。その静寂に先に耐えかねたのはマサキだった。
「さっき、クラスのやつらに会ったんだ」
先ほどからちらちらと見られているのには気付いていたが、無言を通していた狼は顔を上げた。ばつの悪そうなマサキと視線が重なる。
「それで、なんで不機嫌になるんだ?」
ただクラスメイトに会っただけならばささくれだつ必要はない。何かあったのだろうが、それについてはマサキはまた黙り込んだ。俯いたままの子供に狼が溜め息をつく。
「狼はさ、友達とか仲間とかいないの?」
「さて、私と同じ類のものに出会ったことはないな」
「狼みたいに人の言葉を話せる動物に会ったこと無いって事?」
「そうだ」
マサキが僅かに目を伏せ、そっと狼の首筋を梳く。
「ひとりは、寂しくない?」
「お前は、寂しいのか?」
尋ねるというより、ただ口から漏れたようなそれに狼が問い返すと、マサキは驚いたように目を開いた。
「寂しくなんてないよ!」
鼻息も荒く否定する子供に少し笑う。足を繋ぎとめる鎖に一度目を落とし、狼は話し出した。
「独りでは、なかった。同種のものはいなかったが人間の友人がいた」
「どんな人?」
「お前が落ちてきた日、私が化けていた人間はその友人の姿を映したものだ。お前と同じで、ここに訪ねてきては好き勝手話していたよ」
「そうなんだ。綺麗な感じの人だったよね。その人、今どうしてるの?」
「さあ、どうだろうな?」
狼は答えない。いつもより少しだけよく話す狼が、なんだか寂しそうに見えてマサキは首筋にぎゅっとしがみつく。狼は擽ったそうに身じろいだ。
いつものように狼と過ごし、日暮れ前に家に帰ったマサキは宿題のドリルが足りないことに気が付いた。狼のところに置き忘れてきた。明日にしようと思ったが、雲が増えはじめた空に思い直す。雨が降りそうだ。走って取りに行くことにした。
森の入り口まで戻って空を見上げる。もうずいぶんと暗くなった。
《だから、日が沈んだらここへは来るなよ》
木々の葉が光を遮り、薄暗い森の入り口を見て狼の言葉を思い出す。やはり明日にしたほうが良いだろうか。しかし宿題のドリルを濡らしたら代わりが無い。ほんの少し悩んだ末、マサキは足を踏み出した。
暗くなってから森に入るのは初めてだ。いつもは狼の場所まで直ぐなのに辺りが暗いと何倍も遠いような気がする。葉の擦れる音が大きく感じて身を竦める。早く狼の元に行きたくてマサキは走り出した。
「来るな!」
広場へ入ったところで鋭い声が響いた。その声に立ち止まったその先にはなんとも凄惨でシュールな光景が広がっていた。
マサキが目にしたのは、狼と、そして人間だった。狼の前で仰向けに倒れている男は片足の膝から下が無い。ズボンの裾は引き千切られたようにびりびりで、足の先は棒きれのように地面に転がっている。何よりも異様なのは、そんな状態であるにも関わらず男の顔には一切の苦痛が無い。青白い顔に何の表情も浮かべず、ただ目だけがぎょろりと動いてマサキを見た。
「う、うわああああああ」
目の前の出来事を理解するのに数秒を要し、遅れてマサキは悲鳴を上げた。ここにいてはいけない。考えるより先に襲ってきた恐怖に、来た道を走って戻る。夜を迎えた森に大きな葉擦れの音が響いたが、降り出した大粒の雨がそれを掻き消した。
マサキが走り去ってから三日が過ぎた。静かに過ぎゆく時が戻ってきたのに、何か物足りない気がして狼は小さく息をついた。もともと昼間は活動的ではなかったがさらに寝てばかりだ。
ふと、慣れた臭いに顔を上げた。茂みの少し奥、木の陰で子供の気配が揺らぐ。マサキに声を掛けようとして止めた。自分と関わることでマサキに得になることは一つも無い。喉元まで出掛かった名を飲み込んで狼は前足に顔をのせた。
寝たふりを始めてしばらく、子供の気配が少しずつ近づいてきた。何度も躊躇したようだが意を決したのかマサキは広場に顔を出した。
「狼」
逸らさないように必死に向けられた瞳と、震える足に狼は吹き出した。
「本当に物好きだな、お前は」
意味が解らないのかマサキが首を捻る。狼は喉の奥で笑った。
「そんなに怖いなら来なければいいだろう」
「だ、だって宿題置きっぱなしだし」
「それならここだ」
狼が前足で示した場所を見てマサキは息を飲んだ。宿題のドリルは崖下の岩の側に置かれている。そのマサキに先日の光景が脳裏に甦っただろうことが知れた。
狼はドリルを咥えてゆっくりと子供に近寄った。マサキの居る場所までは鎖に阻まれて届かない。限界まで近づいて、その場にドリルを置いた。そのまま崖下に戻って体を伏せる。
「持っていくといい。お前を襲ったりしない」
マサキがそろそろと宿題に手を伸ばす。ドリルを掴んだ手を素早く引っ込めて、マサキは一息ついた。胸に抱いたドリルを見て呟く。
「濡れてない……」
マサキが逃げ帰ったあの日、確かに雨が降った。
「もしかして狼が濡れないように守ってくれたの?」
狼は答えない。ただ真っ直ぐにマサキを見つめている。マサキは少し考えてその場に腰を下ろした。
「この前のアレは、何?」
今までに狼が子供を食べようとしたことは一度もない。それに、あの場で不自然だったのは男の表情だけではなかった。足が千切れているにも関わらず、一滴も血が流れていなかった。
「あれは、お前たちが言うところの『霊魂』だ。この世に強い思い入れを残して死んだ人間は地上を迷う。その人間たちをあるべきところに向かわせるのが私の仕事だ」
「つまりあの男の人は幽霊ってこと?」
「そうだ」
「じゃあ、狼は幽霊を食べるの?」
「人間の『執着』が私の糧だ。人間が地に接している場所、この世への執着の象徴が『足』だ。足を失い地上とのつながりが断ち切られると、人はあるべき処へ向かうらしい。時折、それでも強い妄執で足を失くしたまま彷徨う者もいるが、そこまでは私の知るところではない」
「ああ、そっか。だからお化けって足が無いんだ」
マサキがぽんっと手を打ち合わせる。すでに恐怖を忘れたのか好奇の目で身を乗り出した。
「あるべきところってどこ?」
「さあ。天に昇るのかもしれないし、地に潜るのかもしれない。無に還るのかもしれないな。私はただ食事をしているだけだ。人間がどこへ向かうのかまでは把握していない」
「そうなんだ。もし死後の世界が解かったら大発見なのにな」
マサキは楽しそうに笑っていたが、ふと真顔に戻って尋ねた。
「狼は生きている人間は食べないんだよね?」
「ああ」
「近寄っても平気?」
「今まで私がお前に何かしたか?」
納得したように頷いて、マサキはゆっくりと狼に近寄った。首筋にぎゅっとしがみつく。ふっと短く息を吐いた狼は、尻尾でその小さな背中をそっと撫でた。
「そういえば、お前はこの鎖のことを知りたがっていたな」
狼が前足を持ち上げる。じゃらりと金属音を立てた鎖に、マサキが視線を落とした。少し悩んでマサキが頷く。
「この鎖は、私が自分でつけた」
「え、自分で? 何で?」
マサキが目を瞠る。意味が解らない、とありありと顔に書いてある。
「以前、私に人間の友人がいたと言ったのを覚えているか?」
「うん。聞いた」
「
「その人、来たの?」
「いいや。そのうち草太を待っている間にいつのまにか鎖がついていた。私がつけた『約束』の鎖だから何をしても切れない。外れるのは草太が来たときか私が消えるときだ」
鎖を愛おしそうに見つめる狼に、マサキは悲しいような苛立たしいような気持ちになる。
「その人はなんで来ないの?」
「さて? ただ草太は『また来る』と言った。だから待っている。それだけだ」
「そっか」
以前友人のことを訊いた時、狼ははぐらかしたが、狼も友人のその後を知らないのだ。まだ他にも訊きたいことはある気がしたが、マサキはうまく言葉にできずに黙る。
「早く、草太さんが来るといいね」
「そうだな」
狼が穏やかに答える。その柔らかさがマサキを余計に悲しい気持ちにさせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます