約束小道 -1
――――また、明日来る
――――ああ、またな
「うわぁあああ」
蝉と、夏の涼風が鳴らす葉擦れの音だけが聞こえる森に子供の声が響いた。引き摺られるような音に続き、どさり、と大きな音がする。しかしそれも瞬く間の出来事で、森はすぐに静寂を呼び戻した。
小学校の高学年くらいだろうか。子供が崖の下に倒れている。崖、といっても三メートルほどの少々傾斜が急な斜面だ。上には遊歩道と呼ぶにはお粗末な細い道が通っている。足を滑らせて気を失ったらしい子供に見たところ大きな傷はない。その悲鳴を聞きつけたまだ年若い青年が、子供の顔を覗き込んだ。青年が、子供の肩を軽く叩く。
「おい、大丈夫か?」
肩からの振動で子供はすぐに目を覚ました。ニ、三度瞬いた後、青年の顔を見て上体を起こす。その拍子に子供は顔を顰めて頭を押さえた。
「落ちた時に頭を打ったかもしれないな。気持ち悪くないか?」
子供はゆっくりと首を振る。こぶになっているらしい後頭部が痛んだが気分は悪くない。
「平気」
その答えに表情を緩め、隣りに跪いていた青年が立ち上がった。
「あそこの獣道をまっすぐ行って突き当たったところを右に曲がれ。そのまま進めば崖の上の歩道の入り口に戻るから」
青年の指差す方向に子供が目を向ける。今いる場所は狭い広場になっていて、土の見える地面と短い下草がまだらに広がっている。少し先で地面は茂みにかわり、その奥には木が連なっていた。青年の言うように茂みの中に通路のような隙間がある。
「親に話して念のため病院へ行け」
子供を立ち上がらせると、青年は急かすようにその背中を押した。じゃあな、という青年の言葉を背後に聞き、子供は歩きだした。
さくさくと下草を踏む軽い音とともに子供が広場に顔を出した。昨日通った茂みを抜け、開けた視界に子供が立ち竦む。恐怖で声が出なかったのが幸いだった。子供の視線の先、崖から落ちた自分を助けてくれた青年が立っていた辺りに、見たことも無い大きな犬がいた。
この森は宅地開発の途中、業者の倒産で開発が中止された。引継ぎ先が見つからず、工事を再開しないまま既に五年が過ぎている。先の工事中に作業員が亡くなったという噂もあり、立ち入りが禁止されていた。しかし禁止とは名ばかりでフェンスも何もないそこは、入り込んで遊ぶ子供や何かしらの目的で侵入する大人達もいた。
地に伏せる犬を見て、逃げなければ、と思った子供が後退さった時には遅かった。大きな犬が顔を上げ、ゆっくりと近づいてくる。
子供が覚悟を決めたその時、犬の足に太い鎖がついていることに気が付いた。犬の動きに合わせて鎖がじゃらりと揺れる。犬は崖下の岩に繋がれているらしく、これならば飛び掛かられても子供には届かない。
ほっとして気が抜けた子供がその場に座りこむ。犬も興奮している様子は見られず、今すぐに逃げだす必要は無さそうだ。
「誰も取って喰いやしない」
へたりこんだ子供の耳に人の声が届いた。空耳、というには明瞭なその声に、子供は辺りを見回すがそれらしき人の姿は無い。ジージーとただ蝉の声が響くだけだ。
「わざわざ戻ってくるとは物好きな子供だな」
気のせいかと犬に視線を戻すと、また声が聞こえた。そしてその声に合わせて犬の口が動いたのが見えた。まさか、とは思うが今ここにいるのは子供とその犬だけだ。
「もしかして、おまえが話してるの?」
そんなはずは無い、と思いながらも子供は犬に向かって問い掛ける。
「他に誰がいる」
その答えに、子供は目を見開いて犬を見つめた。
「何をしに来たんだ?」
「あ、えっと、昨日帰り道を教えてくれたお兄さんにお礼を言わなかったから。ここに来れば会えるかと思って」
想定外のことに頭が回らず、ありのままを答える。理由を聞いて、犬は頷くように頭を振った。
「なるほど。律儀なことだ」
「お兄さんのこと知っているの?」
まるで全てを承知しているような犬に子供が首を傾げる。
「知っているもなにも、昨日の人間は私だ。目覚めていきなりこの姿の私が現れたらお前が驚くだろうと思って人の姿をとっていた」
「おまえがあのお兄さんに化けていたってこと?」
「そういうことだ」
「ねえ、犬に見えるけどもしかして狐なの?」
人間に化ける犬、なんて今までに聞いたことは無い。狐なら納得できるわけでもないが、これまでに蓄積した知識からいくらか今の状況に近い情報を抜き出す。犬にしては細い鼻筋は狐に見えないことも無い。ただ銀色に光る艶のある灰色の毛と大きな体は子供の知っている「狐」には当てはまらない。
「犬でもなければ狐でもない。狼だ」
「おおかみ?」
知ってはいるがあまり聞き慣れない単語に、子供はそのままを繰り返す。犬や狐と言われたことが不服だったのか、その「狼」は大きな体を誇示するように身を振るわせた。
「狼って話せるの?」
「そんなわけないだろう」
「だよね」
漫才のようなやり取りをして子供が頬を掻く。ではこの「狼」は一体なんなのか。困惑に視線を彷徨わせる子供を見て狼が言った。
「私はお前たちの言う『妖怪』のようなものだ。いくら考えても解からないからそれで理解しろ」
「ええ!? いいかげん!」
子供の返事に、狼は興味が無さそうに鼻を鳴らすと地面に身を伏せた。
「俺はマサキっていうんだけど、狼の名前は?」
「名など無い」
その返答に子供は少し困ったように眉を寄せる。しばし何事か考えて、その子供、マサキは狼に一歩近づいた。
「まあいいか。俺たちしかいないから名前なんていらないね。近くに寄っても平気?」
「問題無い。丁度私も暇をしていたところだ」
ゆっくりと近づいて、マサキが狼の隣に座る。狼は戯れるように大きな尻尾を振った。ふさふさの尾に撫でられた地面は箒で掃いたように均されている。
「面白いか?」
マサキがその動きに気をとられていると、狼はマサキの鼻先で軽く尻尾を振った。
「はーくしゅんっ!」
マサキが盛大にくしゃみをすると、狼は可笑しそうにクッと喉を鳴らした。
ここ数日で慣れた人間の臭いに狼が顔を上げた。
「また来たのか」
「ダメだった?」
「いや、構わんが」
くわぁと欠伸をする狼を見ながらマサキは隣に座る。真夏の昼下がりの焼けるような日差しもここでは木の葉に遮られて届かない。森を抜ける風は湿気を含んでいて思いの外快適だった。持ってきたドリルを開き、黙々と夏休みの宿題をこなすマサキに狼が言った。
「お前、友達と遊ばないのか?」
マサキが目を丸くする。その様に、いやなに毎日来るから暇なのかと思って、とのんびりと狼が付け足した。
「そんなに仲の良い友達いないし。ひとりの方が好きだし。それに……」
「それに?」
「なんでもない」
言葉を切った子供に狼が続きを促すが、マサキは首を振る。それきり話そうとしない子供に、狼はまた欠伸をした。その狼を目の端で追っていたマサキが口を開いた。
「狼は誰かに飼われてるの?」
「はぁ?」
心外だ、と言いた気に狼が呟く。動いた拍子に前足の鎖がじゃらりと硬い音を立てた。
「だって繋がれてるからさ」
その鎖を指差すマサキに、狼は、ああ、とひとつ頷いた。鎖のついた前足を持ち上げる。
「飼われてなどいない」
「えっ、じゃあ無理やり着けられたの、これ?」
「それも違う」
鎖は崖下の岩に鉄の輪で固定されている。そう簡単に外れそうに無い。錆びた様子もなく、まだ新しそうだ。
「いつからついてるの、これ?」
「もう随分前からだ」
「外してあげようか? 狼がそんな悪いやつにはみえないし」
「お前には取れないよ」
「そりゃ俺には取れないだろうけど、誰かに頼めば鉄を切る道具だってあるし」
頬を膨らませたマサキに狼が首を振る。何時もの狼とは違い、どこか悲しそうだ。マサキが狼の顔を覗き込む。実際に獣の表情は読み取れないが、やはりその声はどこか沈んでいるようだ。
「それでもこの鎖は切れないよ。お前の気遣いには感謝するが、私は問題ないから気にするな」
そう口にした狼はもういつもの狼だ。気のせいか、と思い直しマサキが質問を変える。
「ご飯はどうしてるの?」
「食事はお前が帰った後だ」
「夜ってこと? 鼠とか兎とか食べるの?」
「お前は質問ばかりだな」
興味津々なマサキに狼が呆れる。面倒になったのか、狼は地に伏せて何度目かの欠伸をした。
「だって狼のこともっと知りたいもん」
狼はマサキの言葉に鼻先を動かして、少し考えているようだった。大きな尻尾をゆるく振り僅かに砂埃が舞う。
「兎ではないが同じようなものだ。だから日が沈んだらここへは来るなよ」
今までとは打って変わって、狼は強い口調で言った。驚いたマサキが思わず頷くと、狼は寝る体勢で身を伏せた。それきり黙ってしまった狼に、マサキはなんとなく声を掛けられないまま宿題を再開した。
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