宮ノ守奇譚 半宵の月 -6【最終話】

 ゆかりが秋良あきよしの家を訪ねてきたのは名残の橙が空の端へと追いやられた頃だった。戸を叩いたゆかりの周囲を見ても、鷹晴たかはるはおろか、共の者ひとり居ない。星が瞬き始めたこの時間、ゆかりは一人でここまで来たらしい。こんな時間に女性の一人歩きなど正気の沙汰ではない。しかしゆかりは一時の感情で職場を飛び出すような愚かな女ではない。そうせざるを得ない何かが起きたのだ。家に入れ、いつになく険しい顔をしたゆかりに笑いかける。


「どうした?」


 普段通りの秋良に安心したのか、僅かにゆかりの顔が緩んだ。潤んだ瞳の、目じりに溜まった涙は落ちることなく留まっている。己を律するように胸に手を置いたゆかりは小さく深呼吸をした。


「主様が退治屋の方たちに捕まりました」

「……は?」


想定外のゆかりの言葉に間抜けな声が出る。少しずつ、しかし日に日に痩せていく鷹晴に、とうとう倒れたのだろうと覚悟を決めたが、違ったようだ。


「なんで?」

「詳しくはわかりません。則之のりゆき様が伝えに来て下さって。なんでも主様が物の怪に憑かれたとか」


 則之は退治屋の同僚の名だ。鷹晴とも懇意にしている。様々な身分の人間の寄せ集めの退治屋の中には貴族である鷹晴を快く思わない者もいるが、少なくとも則之は悪意のある嘘をつくような関係ではない。


「良くわからないけれど、とりあえず俺が今から本部に行ってくる。ゆかりはここに、……いや、一緒に来た方がいいな」


鷹晴の家と違ってここに使用人は居ない。ゆかりをこの家にひとり残すよりは自分と来た方が安全だ。ゆかりは胸に置いた手をぎゅっと握りしめて頷いた。



 退治屋の本部ではじめに会ったのは則之だった。彼は鷹晴の家に報告に行ってから、本部に戻っていたようだ。小さな炎の明かりでも解るほど青い顔をした彼は、秋良を見て目元を緩めた。


「ああ、良かった。秋良を呼びに行こうか迷ってたんだ」

「鷹晴が捕まったってどういうことだ?」

「僕も、詳細はわからない。聞いた話では鷹晴は死体を背負ってうろついていたらしい。今しがた鷹晴に会ってきたけれど、確かに少し変なんだ」

「変って?」

「上手く言えないけれど、とにかくおかしいんだよ」


則之の歪めた顔には隠しきれない恐怖が浮かんでいる。


「ゆかりは、ここにいて。則之、彼女を頼む」


ゆかりにそう言いおいて、秋良は則之から手燭を譲り受けた。そのまま鷹晴のいる牢屋へ向かう。

 本部の屋敷の裏は崖になっていて、小さな窟がある。そこに格子を組んで牢屋としていた。物の怪に憑かれた者や、時には罪人を入れる事もある。あまり使用される事のない牢獄は、今は明々と火が焚かれていた。だが火の番をする人間の他は誰もいない。

 怯えた顔で薪を足していた男に声を掛ける。鷹晴以外の人間の存在に安堵したのか男は嬉しそうに言った。


「上の人たちは妖憑きだと言っていますが、特に暴れる様子もないので夜が明けてから調べるそうです」


男に軽く礼を言い、秋良は牢屋に近づく。男は一人にされるのも嫌だが牢にも近づきたくないといった風で恐々と秋良を見ていた。

 格子の間から覗きこむと、石の床に申し訳程度に敷かれたむしろに座る鷹晴が見えた。牢の中に明かりはなく、背後で焚かれた火が格子の隙間に沿って切れ切れに光を投げている。


「鷹晴」


小さく声を掛けるが、返事は無い。もう一度呼び掛けると、ようやく鷹晴が顔を上げた。


「ああ、秋良」


いたって変わったところはなく秋良に気付き笑みさえ浮かべている。両手は背中でひとつに括られていた。


「お前、何したんだよ」


秋良の問いに鷹晴が首を傾げる。やつれてはいるがその顔に疲労や焦燥は見えない。


「特別、何もしていないよ。ただ、薄墨の食事が手に入ったから彼を探してたんだ」

「薄墨の食事?」


言葉を繰り返してしばし考える。先ほど則之が話していた事を思い出して、息を飲んだ。


「お前、死体を背負って歩いていたって本当か?」

「河原で若い男が襲ってきたから追い払おうと思ったけど失敗しちゃってね。だから、もったいないから薄墨にあげようと思ったんだ」

「もったいないって」

「酷いと思わないかい、私はただ運んでいただけなのにせっかく手に入れた食事を皆に取り上げられてしまった」


仕事の愚痴でも言うような調子だが、取り乱した様子は見られない。うっすらと笑みさえ浮かべている。

 秋良は後ろで燃えているはずの火が一気に冷えた気がして、背中に駆けあがってきた冷気に身を震わせた。鷹晴の周りだけ闇が一層濃く淀んでいるようだ。ぱちぱちと薪がはぜる音だけが他人事のように耳に届く。

 一見した限り鷹晴は普通だ。けれど、普通すぎる。恐らく鷹晴は自らが可笑しな事を言っている自覚はない。



狂っている



頭に浮かぶのはただそれだけだ。牢の格子に掛けている手が震える。足に力が入らずその場に膝をついた。


「ど、どうしたんだい、秋良。どこか痛いの?」


縋るように座り込んだ秋良に、鷹晴が身を乗り出す。縛られていて手を差し伸べられないのがもどかしそうに身動ぎをしている。


「い、や、なんでもない、平気」


絞り出した声は掠れていて、鷹晴はますます心配そうに眉を寄せた。その鷹晴のどこまでもいつも通りの反応に目の奥が刺すように痛む。知らぬ間に水気の増した瞳で見上げた鷹晴の顔は、ただただ友人への慈愛に満ちていた。




 秋の日差しが板の間に穏やかな光を投げている。吹き抜ける風は時折冷たさを含み、すぐに冬が来る事を教えていた。濡れ縁に、見慣れた鬼が音も無く降り立つ。麦色の髪の美しい鬼を秋良は鷹晴の部屋で出迎えた。

 屋敷のあるじはここには居ない。鬼に魅入られた友人はいまだ本部で幽閉されている。暴れる様子が無いことから数日前に座敷牢に移されたが、自由になる事は叶わなかった。

 何かがあった事は察しているようで、薄墨の表情は硬い。薄墨が懐から紙を取り出した。


「これ、読んだよ」


鷹晴の屋敷に来い、とふみを書いたのは秋良だ。薄墨を訪ねようにも彼が何処で暮らしているのか皆目見当がつかない。しかし一つだけ薄墨が立ち寄りそうな場所に心当たりがあった。

 以前、薄墨が葉擦れの音とともに降りてきた大木だ。あの木のいただきならば、そう遠くはないここ、鷹晴の屋敷が見える。あの時、あの木に薄墨が居たのは恐らく偶然ではない。そう信じてあの木に文を括りつけてきた。


「何があった?」

「とりあえず、座れ」


薄墨は動かない。


「このところ鷹晴を見かけないけれど……」

「座れ」


秋良がもう一度強く促すと、薄墨は渋々正面に腰を下ろした。


「お前、最近人に見られただろ。退治屋の一部で、鬼が出たって噂になってる」

「ああ、ちょっと失敗して」


秋良が尋ねると、薄墨はバツが悪そうに視線を逸らす。

 薄墨は「何に」とは言わなかったが、人を襲うのに失敗したのだろう。その時に誰かに見られたに違いない。これまでも物好きな貴族のところへふらふらと遊びに出ていた薄墨が、今になって騒がれるのだから『食事』に失敗したのだ。


「何、説教するために呼んだの?」


眉を顰めた薄墨に、否、と返す。深く息を吸って呼吸を整えた。


「鷹晴が、退治屋に捕まった」


秋良の言葉に薄墨が目を瞠る。ありありと疑問の浮かぶその瞳に、一連の事情を話して聞かせた。


「鷹晴は、お前に食わせる人間が必要だ、と馬鹿みたいに繰り返している」


一見正常に見えるのに、人間は食物だと言う。それでいて秋良や則之の事は「友人」と認識しているのだ。今の鷹晴にはそこに何の矛盾も無い。その迷いのない瞳は思い出しただけで背筋が凍る。


「退治屋の連中はお前に鷹晴が操られていると思ってる」


 秋良たちが薄墨と出会う前、満月の夜に血溜まりだけが残される怪異の恐怖を街の人間はいまだ覚えている。その原因の人食い鬼を退治したとされるのが表面上は鷹晴と秋良だ。退治屋の中では鬼が復活しただとか、鷹晴に取り憑いているだとか噂は際限なく広がっている。秋良にも謂れのない視線が飛んでくる。もし鷹晴が暴れてでもいれば、秋良も何事か難癖を付けて捕らえられていただろう。


「ねえ、秋良」

「何?」

「私が死ねば鷹晴は解放されるのかな?」

「は?」


向けられた視線は真剣だ。薄墨はとても冗談を言っているようには見えない。


「私に操られていると思われているなら、私の死体が出れば退治屋の連中は安心するだろう? それに鷹晴だって正気に戻るかも知れない」


ゆっくりと紡がれた言葉は落ち着いていて、とても自分を殺す話をしているようには見えない。


「お前の、そういう変に冷静なところがすっげーむかつく」

「秋良?」


戸惑った様子の薄墨をよそに、秋良は目を閉じる。ふつふつと沸いてきた怒りを、一度深く息をすることで逃がした。


「鷹晴はお前を生かす為にああなった。そのお前が簡単に死ぬとか言うな」


薄墨は一つ瞬きをして、それから小さく吹き出した。


「嬉しいね。私、思ったよりも秋良に好かれているのだね。初めて会った時は問答無用で退治してやるって言われたのに」


本当に嬉しそうな薄墨に言葉が詰まる。秋良は頬が赤くなるのを感じて目を逸らした。


「そうやっていちいち茶化してくるとこも嫌いだ。けど、死んでほしいとまでは思ってねーよ」


あさっての方を向きながらも、ちらりと目の端で捕らえた薄墨の顔がほころんだのが解る。なんだか意味もなく悔しくて秋良は唇を噛んだ。


「でもね、秋良。私はもう人を食べないから、どのみち長くは生きられない。だから、鷹晴の為にこの命を使っても惜しくは無いんだ」

「どういう意味だ?」

「言葉の通りだよ。私はもう人を食べない。いや、食べられない、が正しいかな」

「は? だって、さっき……」


今しがた、人を襲って「失敗した」と言ったのは薄墨だ。


「そう、食事をしようと思ったんだ。けれど、出来なかった。目の前の相手が本当は君や鷹晴みたいな人間なのかな、と思ったら手が震えて力が入らなかった。もう今更食べるなんてできやしないよ」


穏やかに紡がれたその言葉は、つまり彼自身の死を意味している。生き物は糧が無ければ生きられない。それがこの世の理だ。



出会ったことで鷹晴には人が食物になり、薄墨には食物が人になった。

それは、なんて皮肉だ。



「なんで、お前そんなに嬉しそうなの?」


薄墨の静かに微笑む顔は今までに見た事がない。出会ってからこっち、小憎たらしい顔しか見せなかったのに。卑怯だ、という言葉のかわりに視界が滲む。


「秋良は、なんで泣いてるの?」

「知らねぇよ。こういう時は見ない振りしろ。いちいち性格悪いな」


吐いた悪態も薄墨の笑みを深くする以上の効果は無い。顔を隠すように袖口で涙を拭う。


「ちょっと待ってろ」


それだけ言い置いて、部屋から出た。

 勝手知ったるなんとやら、鷹晴の屋敷を探って目当ての物を見つけるのはすぐだった。部屋に戻り、拳ほどの大きさの壺を薄墨の前に置く。灰釉独特のつやのあるそれは、それなりに値の張るものだろう。鷹晴の許しを得ていないがこの際目を瞑る。


「これにお前を封印する。そうすれば死にはしない。お前が鷹晴の為に死ぬ必要は無いし、鷹晴もお前が死ぬ事は望まない」

「それで、鷹晴は助かるかな?」

「わからない。でも上手く話して退治屋の連中を納得させられれば鷹晴を外に出せる」


だが本当に難しいのは皆を説得する事よりも、鷹晴を元に戻す事だ。死なないとはいえ、結局は薄墨を犠牲にしたこの方法で、彼を元通りにする自信など欠片も無い。黙りこんだ秋良に薄墨が意地悪く笑った。


「すぐ顔に出る君が、そんなに上手く立ちまわれるかな?」


薄墨はいちいち秋良を苛立たせるのが上手い。しかしもう薄墨がただの底意地が悪い鬼では無いと知ってしまった。おそらく自分は彼にそう言わせてしまうほどに不安気な顔をしているに違いない。


「うるさいな。交渉事が苦手なのは俺が一番良くわかってるよ。こういうのはお前や鷹晴の方が得意だろうけど仕方ないだろ」


拗ねた振りをして口を尖らせる。それを見て、ごめんごめんと薄墨が笑った。


「わかった。君の言う通りにしよう。後始末を押し付けて悪いけれど、それが最善の策みたいだ」


世間話でもするようにあっさりと薄墨が承諾する。それに驚いて秋良は声を荒げた。


「なあ、もうちょっと悩めよ! 封印されたらずっと闇の中だぞ」


自ら提案した事とはいえ、言いながら涙が滲む。確かに死ぬことはない。しかし永遠に独りで生きるのが、死ぬより幸せとは限らない。そんなこと、この聡い鬼ならとっくに気付いているはずだ。


「存外泣き虫だね、君」

「うっさい、誰の所為だ」

「うーん、私の所為かな。君にこんな重荷を背負わせてしまうのは申し訳ないと思うよ」

「俺の事はどうでもいい、自分の事を考えろ」


涙を流したまま薄墨を睨む。薄墨は小さな壺を大切そうに撫でて、そうして秋良の頬に手を伸ばした。親指の腹で秋良の涙を拭う。


「君たちと出会うまで、私はずっと孤独だった。今までだって独りだったんだ。元に戻るだけだ」

「でも、」

「少しの間黙って私の話を聞いてくれるかな、秋良」


まっすぐに秋良を見るその真摯な視線に、仕方なく頷く。


「強がってはいたけれど、本当は人の血を啜る度に死にたくなったんだ」

「え?」

「月が満ちると自分がどれほど異端か思い知らされた。人の腹から産まれた私が人を食う。可笑しいだろう、そんなの。生きるために人を食うのに、そうすることで死にたくなるんだ。死ぬのは怖くない、でも何も無いまま死ぬのは嫌だった。それだけの為に何人も殺した」

「誰だって死ぬのは嫌だろう、人だって生きるために生き物を殺すし、」


秋良が全てを言いきる前に、薄墨が人指し指で秋良の口を塞いだ。まだ言いたい事はあったが、話を聞くと頷いた手前言葉を飲み込む。


「人を食べられなくなって、死が近づくのを感じた。だけど前のように嫌では無いんだ。上手く言えないけれど、満たされた、のかもしれない。同時に、死ぬのは少し怖くなった。だから、封印は私にとって願ってもない話だよ。死なないのだからこれ程良い事は無いだろう」

「……やっぱりお前はずるいよ」


綺麗に、微笑まれてしまってはもう返す言葉は出てこない。収まりかけていた涙がまた頬を伝う。


「私の為に泣いてくれる君に出会えて幸せだ。それから私の為に狂ってくれた鷹晴にも、いつか同じように伝えてくれたら嬉しい」


迷う素振りなど微塵もない。言葉の通り、本当に幸せそうに微笑む薄墨に、今更秋良が言える事など何ひとつ無かった。



 泣きながら床に封印の陣を引く。中心に小さな壺を置いた。これから長きを過ごすこの暗闇が少しでも彼にとって優しいものであればいい。そう願いながらまじないを紡ぐ。



「一千年生きて死ね、馬鹿野郎!」



堪らず叫んだ言葉に、薄墨は最後まで嬉しそうに笑ってみせた。



宮ノ守奇譚 半宵の月

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