宮ノ守奇譚 半宵の月 -5

 朝も早くに呼び出され、退治屋の本部で上役のありがたい御高説を聞かされた秋良あきよしは自宅に向かって歩いていた。くあぁ、と何度目かの欠伸をする。浮かんだ涙を拭っていると、小さな笑い声が聞こえた。

 辺りを見回すが誰もいない。気のせいか、と歩き出そうとしたところで、道脇の木が揺れた。はるか上方でがさがさと音がする。驚いて見上げると、何かが降ってきた。反射的に飛び退る。


「ああ、ごめん。そんなに驚かすつもりはなかったんだけれど」


降りてきたのは薄墨だ。着地の体勢から立ち上り、ひらひらと軽く手を振る。一拍遅れて状況を理解した秋良は、どうやら油断しきった大欠伸を見られていたらしい事に顔に血を昇らせた。


「お前は猿か! なんだって木に登ってるんだよ!?」


なかなかに立派な木だ。秋良なら三分の一も登れば恐怖で引き返すだろう。それを下から見えない高さにいたとなると相当だ。これは間違いなくだらだらと歩いていた姿を目撃されている。羞恥から荒くなる声に、君を探してたんだよ、と薄墨は口元を緩めた。


「はい、お土産」

「何?」

「唐菓子」


布に包まれた荷物を差し出され、思わず受け取る。中身を聞いて笑みがこぼれた。


「悪いな、いつも貰っちゃって」


我ながら単純だとは思うが美味い物は美味いのだ。今しがたの怒りはあっさりと記憶の隅に追いやり、上機嫌で礼を言う。どういたしまして、と応じた薄墨はしかし真剣な顔を作った。


「ちょっと君に頼みがあるのだけれど」

「頼み?」


今までに無い事態に警戒して尋ねる。菓子を受け取ったのは失敗だったかとちらと考えたが秋良はとりあえず話を聞くことにした。


「君、最近 鷹晴たかはるに会った?」

「鷹晴に? ずいぶん前に話したきりだけど……」


以前上の空の鷹晴と話をしてから会っていない。その間二度程屋敷へと訪ねたが鷹晴は不在だった。使用人のゆかりに大した用は無いからまた来る、とだけ言い置いてそれきりだ。


「それがどうかしたのか?」


最近の鷹晴の事なら、彼の家へちょくちょく出入りしている薄墨の方が詳しいだろう。問い返すと薄墨は少しの間視線を泳がせた。


「ここのところ鷹晴が可笑しいんだ。だから、君に様子を見てきてほしい」

「可笑しいってどういう風に?」


薄墨が考えるように口を閉じる。


「上手く言えないけれど、沈んでいるというか、覇気がないというか」

「お前、なんか困らせるような事したんじゃないのか?」


軽口に薄墨が眉を寄せる。意外なほど真剣なその様に、秋良はおや、と首を傾げた。


「してないよ。最近は食事もしていないし」

「食事をしていない?」


 聞き流すわけにはいかない台詞に、秋良が問い返す。目を伏せたままだった薄墨が驚いたように顔を上げた。しまった、というように口を押さえる。いつも小馬鹿にした態度の鬼にしては、この明け透けな表情の変化は珍しい。どうやら秋良が思っているより事は深刻のようだ。


「いや、なんでもない」


今更のように、薄い笑みを引いた薄墨に秋良は解りやすく呆れてみせた。


「お前、いつだったか人を食わないと生きられないって言ったよな、あれは嘘か?」


少しの沈黙の後、薄墨が溜め息をついた。


「違う。人が私にとって食糧なのは本当だ」

「それなら、なんで食べないんだよ」

「私が食事をすると鷹晴が決まって沈んだ顔をするからここのところ人を食べていない。鷹晴は私に気付かれていないつもりのようだけれどね。それにこの前高位の貴族を襲って迷惑を掛けたようだし」

「高位の貴族……?」


その言葉が引っ掛かり秋良が繰り返す。そういえば鷹晴がぼんやりしていたあの時、公卿の側仕えが行方不明だという噂に彼は食いついていた。薄墨が襲ったという高位貴族がその側仕えだとすれば鷹晴のあの態度も頷ける。

 なぜ、そんな事態になっているのなら自分に話さなかったのか。鷹晴に少しの苛立ちを感じたが、怒りを逃がすように秋良は頭を振った。


「お前は、人を食べなくても平気なのか?」

「人間よりは丈夫に出来ているからね、多少なら問題ないよ」

「へえ、仲良くなったもんだな」


人より強いとはいえ、食べなければ腹は減るだろう。もし本当に鷹晴の為に食事をしていないのだとしたら相当な入れ込みようだ。秋良が感心して呟くと、今の今まで真面目な顔をしていた薄墨がにんまりと笑みを浮かべた。


「なんだ、妬いてるのかい?」

「……やっぱりお前嫌いだよ」


せっかく少しだけ見直したというのに。この鬼はいちいち秋良を苛立たせるのが上手い。これ見よがしに嫌な顔を作って秋良がその場から歩き出すと、後ろから「頼むよ」と声が追ってきた。


「まぁ、鷹晴の家はここからすぐ近くだし」


薄墨の頼みを素直に聞くのは癪だ。が、鷹晴の事は気に掛かる。言い訳をするように呟いて秋良は友人の元へと足を向けた。




 屋敷へ着いた早々、使用人のゆかりが足早に寄ってきた。


「秋良様、よくいらして下さいました」

「どうしたんだ?」


顔馴染みとはいえ、普段は余計な事を言わない性質の彼女にしては珍しい。秋良が尋ねると、ゆかりが顔を曇らせた。


「このところ主様がお食事をほとんどお召し上がりになりません。理由を訊いても、夏の疲れが出たと言うばかりで、取り合ってくださらないのです。どうか様子を見てきてくださいまし」


懇願され、鷹晴の様子が尋常でない事を知る。ゆかりを宥めて鷹晴の部屋へと向かい、御簾の前で息を整えた。


「鷹晴、入るぞ?」

「どうぞ」


思っていたよりも快活な声が返ってきた。中に入ると鷹晴は笑顔で出迎えた。多少頬はこけ、痩せてはいるがおおむねいつも通りだ。


「久しぶりだね、秋良」

「ああ、久しぶり」


聞いていたよりも、元気がある。ほとんど普段通りの鷹晴に拍子抜けする。そんなに酷い状態には見えない。


「お前、ちょっと痩せたな。ゆかりが心配してたぞ」

「少し夏の疲れが出ただけだから気にするなって何度も言っているのだけれどね。秋良にまで相談するなんて仕様が無いなぁ」

「そう言ってやるなよ、皆お前のこと心配してるんだからさ」


先ほどからつつがなく会話が進んでいる。以前のぼんやりした鷹晴と比べれば今の方がよほど正常だ。この様子では本人が言うように夏の暑さに負けたのだろう。

 薄墨も、ゆかりも随分と大げさに表現したものだ。どうにも過保護な周りの者達を思い出して少し笑う。この話は切り上げて、秋良は先ほど薄墨に貰った包みを出した。


「これ、土産。さっき薄墨に貰った」

「薄墨に?」


菓子を受け取った鷹晴の顔が僅かに凍った。しかしすぐにその表情は笑顔に隠れる。いつもなら気の所為かと思うほどの微細な変化だが、薄墨の話を聞いた後ではその顔が見間違いではない事は解った。薄墨の言う「人間を食べると鷹晴が沈んだ顔をする」とはこの事だろう。

 優しい鷹晴は薄墨の事も人間の事も大切で、そのどちらもが選べなかった結果、導き出されるのが今の表情という訳だ。薄墨と初めて会った日に、自分から見逃すと言いだしたくせに、鷹晴は誰かが犠牲になる事が割り切れていないに違いない。しばし考えて秋良は口を開いた。


「最近、薄墨は人を食べてないらしいぞ」


先ほどの話を薄墨は言いづらそうではあったが、特に口止めはされていない。


「……え?」


とさり、と鷹晴が手にした菓子が床へと落ちる。予想以上に驚いた鷹晴に苦笑して、秋良は菓子を拾うために屈みこんだ。


「何故?」

「この前の、公卿の側仕えを襲ったのはあいつなんだろ? お前に迷惑かけたからしばらく自粛するんだってさ」


鷹晴が沈んだ顔をするから、と言っていたのはあの鬼の名誉のために黙っておく。口籠っていたのは気恥ずかしさのせいだろう。少しは可愛げがある。勝手に話したのは悪いが、これで鷹晴の気苦労も少しは軽くなるだろう。


「あいつは、少しくらい食事をしなくても大丈夫なんだってさ」


拾った菓子の包みを、鷹晴に再度手渡して秋良はぽんとその肩を叩く。


「そう、だね」

「おう。だからお前はもっとちゃんと飯食えよな」


晴れやかに笑った秋良に、鷹晴は少し微笑んで手の中の菓子に目を落とした。




 びちゃびちゃと音を立てて吐き出したものが穴へと落ちる。消化しきれなかった食物が胃液と混じって嫌な臭いを出した。自分で吐いておきながらその臭いにさらに胸を悪くする。荒い息のまま掘り返した土で穴を埋め、近くを流れる小川で手を洗った。口をすすぐと口内の汚れが流れ、少しだけすっきりする。

 ふらつく足で立ち上がると屋敷へと戻るため歩き出した。薄墨が人を食べていないと聞いたあの日から、体は完全に食物を受け付けなくなった。食べないとゆかりをはじめ家の者が心配するから口には入れるものの、結局胃からせり出す吐き気に隠れて外へ出す。

 いくら薄墨が人より強いとはいえ、食事をしなければ体は弱る。緩慢な自殺だ。それを薄墨に強いた自分がのうのうと食事を摂るわけにはいかない。食べて、吐いたものを見る度、安堵に似た感覚に身を震わせた。

 鷹晴が口を滑らせたあの雨の日から、薄墨は姿を見せない。代わりに秋良がこまめに訪ねてくるようになった。痩せていく自分を見る度、少し眉を潜めちゃんと食べろと説教をする。その言葉はうっとうしくもあり、嬉しくもあった。

 背後に、砂利を踏む音を聞いて振り返った。視界に飛び込んできたのは若い男だ。右手に太刀を握っている。薄汚れた衣服とぎらついた目に男が強盗の類であると知る。昨今、盗賊や夜盗など珍しくはない。まして退治屋なんて職業に就いていると、怪異だと言われて出向いてみれば盗賊の巣だったことも有る。その度にどうにか切り抜けてきたのだ。今更、強盗の一人や二人恐れるまでも無い。

 さて、どうしたものかと思案する間も無く、男から振り下ろされた太刀を横へと避けた。適当に威嚇して追い払うため、腰にさした刀を抜く。二、三、男の振り下ろす太刀と切り結ぶ。いつもならそれで終わる筈だった。

 食事を抜き続けた自分の体が先に悲鳴を上げた。もつれた足が、予定より一歩多く体を前に出す。振り抜いた刀の切っ先が、男の胸元を薙ぎ払った。力は入っていない。しかし対妖用にまじないで切れ味を上げたそれは男の皮膚を切り裂くには充分だった。ぱっくりと開いた布地の下から血飛沫が舞う。鮮血に染まる男の衣服に心臓が跳ねる。前のめりに倒れる男がことさらゆっくりと落ちていくように見えた。地に落ちた体の下からじわじわと赤い色が広がる。己の服にぽつりぽつりとついた赤い染みが、目に入った。


―――――その時、何かが、砕けて散った

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る