霧の中、君は何処・7

 水の中では時間の感覚に麻痺してしまって、いつから泣いていたのかわからなくなった時、どこかここと隔たれた場所で誰かの声が届いた。

〈……どうして来てしまったかな〉

 その声は少年のようであり、成人した男性のようでもあった。

 麻来はその声に覚えはなかったけれど、ただただ透き通って、今まで聞いたこともないほどに綺麗な声だとぼんやり思った。

〈…………確かに言い伝え上はカルメル、妻であるキミがボクの中に来ることはおかしなことではないだろう。しかしボクはキミを、ボクの妻だと認めてはいない〉

〈わかっています。けれど聞いて、アプス。貴方の水があちら側へ逆流しているのです〉

 彼女の声も聞こえてくる。ラクダもいるんだ。ずっとラクダと呼んでいたせいで、本来の神様の名前がいまいちしっくりこないのだ。

 彼女が誰かと対峙して話をしているビジョンが頭の中に流れてくる。ランプの光が届かないかのように、男の顔だけは不明瞭だった。

〈そんなことはわかってる。ボクの体のことだし〉

〈生者が巻き込まれています。あれは例外でしょう。どうか奔流を収めて、生者たちの命を返してやってはもらえませんか〉

 ラクダは男に訴えかける。男は黙っているが、麻来からは彼の顔が見えないので、どんな気持ちで聞いているのかわからない。

〈まあ、あの蓋がひとりでにひび割れたのはこれが初めてというわけじゃない。かつて、いつだったかも似たようなことがあった。その時は、その一片を持ち去るような不届き者はいなかったからすぐに塞げたけど〉

〈……彼らはみんな夕の子。この地にいるものは、わたしの子どものようなものなのです〉

 男の感情のない言葉にも、彼女は折れずに頼み込む。

〈お願いです。わたしのこの身と引き換えにしてもいいから、彼らを導くのは待ってください。彼らは貴方の中ではなく、まだあの世界にあるべきなのです〉

〈…………〉

 男はまた少し黙り込む。

〈……しかし、あの失くした呼び蓋の最後のかけらはあるのか?〉

〈貴方がわたしの来訪を拒んだせいでどこかへ行ってしまいましたが〉

〈あれがなければ、ボクが抑えようとしても無意味だ。生きものが自らの血の流れを止められないように、水の奔流は容易に操作できるものじゃない。封じるものがなければ、何処までも流れていくだろう。川のように、伸びやかに〉

〈…………〉

 彼女は押し黙った。手のひらから弾かれた破片はどこへ行ったのか。水底まで来てしまったらもう分からない。

 男は困ったような吐息を吐く。

 話は終わりかと目を瞑り、水に溶けるように透けていく。


———っここよ!


 握りしめた手を高く掲げて、ここよ、と麻来は叫んだ。精一杯声を出したはずなのに麻来の耳には何も聞こえなかった。

 ここにあるよ。

 わたしが持ってるよ。

 気付いて。

 すると、不意にカルメルがこちらをみたような気がした。

〈……ボクはキミをボクの妻だと認めていない。〉

 男は同じ言葉を繰り返し言う。カルメルが視線を戻すと、暗い影のヴェールから出てきた水神がすぐそばに来ていた。

〈だって勿体無いだろう。キミは本来、どこへでも旅することができる自由な神なんだから。地下に眠ったまま、流れを生み出すだけのボクとは違って〉

〈————アプス?〉

 カルメルの頬に手を添えて、鼻がくっつきそうなほど顔を近付ける。カルメルとアプスの眩く輝く瞳が、至近距離で見つめあった。

〈キミを縛り付けるものはここにはない。キミは好きに行くといい。せっかくキミには足があるのだから————〉

 水の流れが急に強くなって、アプスは渦の中に身を溶かして見えなくなった。渦の流れは蛇のように麻来の元へ奔ってきて、手の中の破片を受け取って、大きくなりながら遠くへ消えていった。

 麻来はしばらく、キラキラと流れていく水に見惚れていた。


〈麻来〉


 名前を呼ばれて振り返ると、ラクダに抱きしめられていた。

〈麻来。ありがとう〉

 どうしてかわからないけど、また泣きそうだった。

 あたたかくて、安心する。水尾がいなくても、君がいれば心が安らいでいた。

 本当はずっと、君が何者でも構わなかったのだ。

「消えないでよ…………」

 他にも言いたいことはたくさんあるのに、まだ行ってほしくなくて、縋るみたいに声を絞り出す。カルメルは麻来の背中をあやすようにぽんぽんと触れて、抱きしめた肩口で優しく囁いた。

〈わたしはいなくならないよ。麻来、あなたと水尾を導かないといけない。夫に代わって〉

 麻来は何も言わない。目を瞑って、……先程の水尾のように、目を瞑って。身体を預けた。

〈大丈夫。ゆっくり行こう。わたしが運んであげるから〉

 

 白い、キラキラした道を、ずっと歩いていく夢を見た。


 その道の先に、見覚えのある背中が見えた気がした。

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