霧の中、君は何処・6

 サイレンが響く。それはもちろん自分が、水尾が【呼水】の最奥部に紛れ込んでいるのが感知されたせいである。

 ツィヨウの遠隔案内だけを頼りに潜れば潜るほど迷路のようになっていく古城を進んでいく。

 麻来に新しく身体を与えようと言う試みはありとあらゆる実験を経てどれも失敗に終わってきた。元々試験官から命と身体を併せ持って生まれてくる【カゲロウ】とは状態が違うので、ツィヨウに器だけを作って欲しいと頼んでもほとんどゼロからのスタートだったらしい。よく引き受けてくれたものだ。ちょっと探究心が働いただけかもしれないが。

 しかし、ツィヨウも組織にいる以上完全に自由な身ではない。その試みの中でいくつかの実験とその結果が【呼水】の研究開発部門の規約に引っかかり、ツィヨウは厳重に監視がつけられ、水尾は組織を追い出されることになった。

 なので組織にマークされた後もある程度動きやすいように、水尾は情報工作を行った。

『柳水尾が航空事故で死んだ』と。

 その後二年は隠れながら変わらずに西都の周りを転々と暮らして、……白状すれば海宮の足跡を探しつつ。本当に見つからなかったが。もしこの頃も魔女のもとにいたのだとしたら見つかるはずもない。


「柳水尾って、ツィヨウ博士の助手だろ!? それは二年前に死んだはず……」

 ほとんど【カゲロウ】と自分だけでかけた偽装が二年も暴かれずにいられたのは、こうやって本部に忍び込むことに役立ったのかどうか。内部にいた職員たちに顔を覚えられていたことを考えるに有効だったように思われる。

〈で、戦えんの?〉

 【カゲロウ】は組織で管理されていたためツィヨウの協力は連絡機と武器提供のみであり、耳に装着する連絡機からツィヨウの試すような質問が音声として届く。

「戦闘経験なんてないに決まってんだろ」

〈なら使うしかねえな〉

 ニヤリと笑うのが見なくてもわかる。

 頭に巻いていたせいでターバンのようになっていた顔全体を覆うマスクを、はじめから着けていれば顔もバレなくて楽だったんじゃと後悔しながら装着する。サイレンはすでになっているのですぐに警備隊が侵入者を捕らえるためにこの窓のない部屋に踏み入ってくるだろう。水尾は自分を警戒するような視線で見てくる、何か言い合っている内部職員たちの目の前でゴトリと硬いカプセルと落とした。

「目は瞑れ」

「は——ゲホッ」

 軽い毒性の煙幕が部屋に充満していく。職員たちが抵抗する意思を持つ間も無く白煙がもたらす軽い痺れに惑う。やがてくる警備隊も部屋を開けて突入すればこうなるだろう。水尾は白煙と混乱が満ちる部屋を静かに抜けて、奥の小さな扉を手で開けてこっそり出ていく。

 事前に盗んでおいた鍵を通した後、ガン、と重い扉を押し開けて目的の場所に辿り着く。こんな強行突破でもなんとかなるものだなと我ながら感心しつつ周囲を見渡す。

 当然この記憶では初めて見る光景だが、麻来の意識は確かに記憶に新しい構造の空間だ。麻来たちが『呼び蓋』の破片を返しにきた、あの円筒の地下空間に酷似した別室であった。

〈とりあえず手すりまで降りてけ。中を覗けばあると思うぜ〉

 なんでそんなことまで調べられるんだと言うのは今は余計な会話はいらないのでやめた。螺旋を降りて鉄の手すりに辿り着くと、大きな穴が手すり越しにぽっかりと口を開けている。

「なんだこりゃ…………」

 底も見えない穴の闇を冷たい空気が渦巻いているのが感じられ、流石に背筋に寒気が走る光景だった。

 なんのために開けられたのか、得体の知れない深い穴。『蓋』どころか塵芥すらないじゃないか。

「おい、どうすりゃいいんだよ」

 次の指示を待つが応答がない。

「ツィヨウ? おい、」

 やつの気が変わって協力はここまでということだろうか。それともまさかあっちで捕まったのか?


 穴を覗いたまま次の行動を考えていると、穴の底から、パキン……と何かが割れる音がした。


 井戸のような穴に満ちる霧の海から、魚のような光がじゃれつくように昇ってくる。目の錯覚か、空気の流れか、何かここで異常なことが起きているのか。しかし魚の幻想は煙のようにふわりと形を崩して消える。

 見間違いか、そう首を撫でた時。

 穴の奥から、水尾の足元から、この部屋の床全体から。同じような形の光が一斉に跳ねるように昇ってそのまま通り過ぎる。眩暈すらしそうな圧倒的な幻想空間と言ったらいいのか、実際に目を閉じてしまうほどの青い光が水尾を一瞬包んで、全て消えていった。

「…………なんなんだ……?」

 先程まで何も持っていなかったはずの手のひらに何かがあって、それが皮膚をなぞるように切り破る感触に顔を顰める。尖った部位以外は冷たくてすべすべした、陶器のような肌触りのもの。割れたひとかけら、なのかもしれない。

「は…………?」

『これだ』、と本能のようなものが、それを目で見ぬうちから確信を告げた。

 これが蓋だ。

「いたぞ!」

 手すりに軽く体重を預けたまま振り向くと警備隊の数人が階段の頂上からこちらを指差しているのが微かに見えた。

 袋小路。逃げられない。

 水尾は手の中の『蓋』であるはずのものに目を落とす。

「何もない……」

 手の中は空っぽだ。いいや。『ある』。重みは確かにある。この手のひらに、確かに求めたものがある。

『冥界の蓋は死者の魂を封じ込める。それがあればもしかしたら俺にも魂の容れ物を作ることも可能かもな』

 ツィヨウがそう言っていたのだ。何がなんでも持ち帰って、作ってもらおうじゃないか。

 警備隊が自分の行動をはっきりと視認できない霧の向こうにいるうちが吉。水尾は逡巡なく手の中のそれを口の中に含み、飲み下した。

「…………っ」

 当然痛い。割れたカケラを飲んだのだから覚悟はしていたが。

 痛みで首に手をやる水尾を、駆け降りてきた警備隊が取り押さえようと手を伸ばした、その瞬間。

 水尾を穴の中に突き落としたのは突風……いや、感触は水流だった。勢いに負けて身体は手すりの向こう側へ越えてしまった。


 水で満ちたような空気、しかし溺れることもなくゆったりとした落下速度で————ぶくぶく、水泡が水面へ上昇していくような音が耳元を通り過ぎる。は、と自分の浅い息がやけに響いた。


 気が付くとどこか浜辺にいて、波打ち際で白波に軽く揉まれながら寝転がっていた。

 なんだここ。どこだ。

 途方に暮れてしばらく呆然としていると、一際大きな波が頭までかかって慌てた。

〈そんなところでなにをしているの〉

 ザ、ザザ、ザザ、と何処かスキップをするような砂を踏む足音。

 なんとか身体を起こして近付いてくる人物の正体を確認しようと顔を上げるとあまりに予想外の顔があった。

「え…………ラク、ダ……」

 黄土色の顔に気候に合わせた長いまつ毛、背中にはふたつのコブ。絵に描かれるラクダである。それが気遣わしげに水尾を見下ろしている。

 ラクダはそっと沖の方へ鼻先を向けながら言った。

〈あなた、ここは終着点じゃないよ。のんびりでもいいけれど、あちらへ行きなさい〉

 言葉を失った水尾を少しの間眺めて、ラクダはまた言った。

〈あなたは死んだの。ここは冥界の端っこ、入り口から入ったところ。戻ることはできないから、この浜を真っ直ぐに進みなさい〉

「…………」

 水尾は砂から立ち上がるとラクダを見上げた。

「俺はまだ死ぬわけにいかない」

〈それはだめ。ここに来たからには——、おや〉

 ラクダはゆったりこちらに向き直る。すると微かに目が見開かれたように見えた。

〈どうして人間がそんなものを持って……〉

 ラクダが歩み寄って、一歩後ずさった水尾の胸にそっと鼻を寄せる。近くで見ても、やはりラクダにしか見えない。

〈確かに『呼び蓋』の気配。これは人が触れてはいけないものよ。まさか壊してしまったの……? いいや、あれは人間ひとりに傷をつけられるほどやわな聖具ではない〉

「……この『蓋』を盗もうとはした。それで飲み込んだんだ。器をつくるには『呼び蓋』のひとかけらがどうしても必要だったからだ」

 悪びれも言い逃れもせず水尾は言う。

「でも俺は壊してない。見つけ出したときには既に欠けてたんだ。盗んだのは言い逃れようがないけどな」

 ラクダは大きな顔をするりと引いて蓋の光から離れる。そして悲しげにまつ毛を伏せる。

〈……なんてことを。返さなきゃ駄目。これが壊れたままでいいわけがない〉

「でも、」

 俺は何と会話をしているんだと頭の隅で思いながら、このラクダからどこか気品と気高さを感じて、質問には誠実に答えなければという気持ちにさせられる。

 水尾を諌めるようにラクダは首を左右に振った。

〈身体のある時に飲み込んだんだね? なら破片はあちら側に残っているわ〉

「ああそうだよ。でも返せない! 俺は、麻来に完璧な身体を与えてやらないと——」

〈身体? 中身を移すと言うの?〉

 ラクダは譲る気はないようで、麻来と同じくらい真っ黒な目で水尾を見つめる。

〈……あなたには不可能だ。とにかくあなたは進みなさい。〉


 もう何もかも忘れてあの家で二人暮らしていたかった。

 俺にとって離れるということは重大な事のようで、何より怖いことだった。手の届く場所にいてくれないと、また失ってしまう気がして。だから麻来をあの家に一人隠すように置いていくのは最後まで迷っていた。

 それでも彼女に与えたいものはとても遠いところにあって。

 見ていればわかった。麻来は本当は走ることが大好きだったんだ。事故がなければ、今もきっと陸上部を続けて、グラウンドを駆け回っていたのだから。

 彼女は純粋で、何も知らないままであるべきで。

 見つかるかもわからないものを探すこの道に連れてはいけない。

 だから一度手放してきたんだ。でもこれを彼女に伝えることなく出てきたのは、やっぱり関係を繋ぎ止めていたかったから。あの子のことを忘れる自信も、忘れられる勇気も、俺にはなかったんだ。


「……あの〜、ラクダ」

〈カルメル〉柔らかい声で答えるのは確か、この地の神の名。〈わたしはカルメル〉

 ああ、やっちまったかもしれない。ただの人間が駆け引きしていい相手じゃない。

「取引しよう。破片はここに落ちる前、俺が飲み込んだ。俺の身体が【呼水】の手に渡ったら利用されるぞ。……俺にもやらなきゃいけないことがある。俺が失敗したらこの破片は返すから、破片と麻来を一度預かってはくれないか」

 この神に人間の都合がわかるのだろうか。言葉に人間味を感じなくて心配になる。これが聞き入れられなければおそらく柳水尾の人生はここで終わりなんだろう。

 けれど耳を貸すように、一生懸命話す子供を見守るように、ラクダがじっとこちらを見ているから。

「大事なものなんだ。俺の、命よりも大事な人なんだ」




 どうして、何を選んでアプスはこの記憶を見せてくるのだろう。

 わたしの記憶じゃないのに。


 最後の最後に、ものすごく大事なものをもらってしまったような。もっと早くに知りたかったし、わがままを言うなら水尾本人から教えて欲しかった。

 ううん、そうじゃないんだ。

 わたしが自分で気付かなきゃいけなかったんだ。

 水尾がどんな気持ちでわたしのそばにいてくれたのか、本当の意味で考えたことなんてなかったかもしれない。


 なんでこんな終わりの終わりに、自分の勝手のせいでずっと気付けなかったことを知るのだろう。

 答えはすぐ近くにあったのに。



———そんなにたいそうなことは願ってこなかったはずだ。

   わたしたちは、ただ。


『君のそばにいられたらそれでよかったのに。』

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