霧の中、君は何処・5

 キラキラと光る水の中、いつか聞いた水尾の声が反響して聞こえてきた。


『何でそんなとこに蹲ってんの?』

 気付くと病院の味気ない中庭に座り込んでいて、振り返ると見知らぬ男に怪訝そうに見下ろされている。それが水尾との出会いだった。何だこの人、と思いながら特段記憶に残らないほどの会話をして。麻来は何の意味もなくゆらゆら前後に揺れてから立ちあがろうとして、しかしうまくバランスが取れず、くらっと前のめりに倒れそうになる。

『おいっ』

 当時の目線で、再体験しているような気分。その肩を受けとめた彼の手に、懐かしさで涙が滲んだ。そうだ、きっと初めて会ったこの日に好きになったんだ。


 ふと水の流れを肌に感じて顔を覆っていた手を開くと、いつの間にか隣に座っていた水尾がこちらを覗き込んでいて。 

『——じゃあ俺のとこ来る?』

 これは別の日だ。出会ってから少し経って、幾つも話を聞いてくれた彼がポツリとそう提案してくれた。

『む、無理よ。家族が許してくれるわけない』

『余裕だよ。俺、そういうのには見つからない自信ある』

 不敵に彼が笑いかける。この頃は半信半疑だったが、まさか本当に誰にも見つからないで五年もいられるとは思わなかった。五年。ずっと水尾がいればそれでよかったので省みることもなかったが、今になって思い出す。家族はどうしているだろうか。

 いくつかまた記憶を巡って。

 これ、走馬灯か。水に落ちたから死ぬんだ。

 水尾が玄関で靴を履いて、こちらを振り返る。

『……すぐ帰ってくるから、ちゃんと待ってるんだぞ?』

 そう言って笑って。手を持ち上げて。撫でてくれると思ったらデコピンされた。

『痛い』額をこすりながら不満を言うと、今度は麻来の手に重ねるように手のひらを乗せてきた。

『じゃ、行ってくる。』

 麻来は口をへの字にしたまま、閉められた扉を蹴るふりをしてまたバランスを崩し、背中から倒れ込んだ。

 これは水尾が旧帝国へ出かける直前の記憶だ。つまり生きている彼との最後の記憶。

 ……それまでの人生だってあったのに、本当に水尾ばっかり。

(ってもう死んでるじゃん)

 廊下の床に背中をくっつけたまま、腕で顔を覆って。

 当時は何も知らずにいた玄関前の廊下で、水の中で、麻来は泣いた。

 寂しくて? 置いて行かれた悲しさで? 当時はそうだった。けれど今、同じように涙を流していても、その理由は違うものだった。

 あの人とは離れてしまった。

 あの人だけじゃなくなってしまったのだ。


 頭に直接流れてくる映像はまだ続く。麻来自身から遠く離れ、水尾が振り返らずに歩くのをただ意識がついていく。

 水尾の体に乗り移った……というより流れる空間の記憶そのものに溶け込んだような、水尾になった夢を見ているような曖昧な気分。微かに自分の感情ではないものが流れ込んでくるのを感じた。

 惜別、断腸の思い、心配。

 これは水尾の記憶だと、麻来は漠然と知る。

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