霧の中、君は何処・4

 その瞬間、しかし、破片がカルメルの手に収まることはなかった。

「————駄目」

 それはミクが突然走り出し、水尾を庇うようにして抱きついたせいであった。

「駄目です! やめて!」

「は……?」

 勢いのまま尻餅をついた水尾は目を白黒させて、彼女のつむじを見下ろした。

「いや、え?」

「ミクあんた、」ニヌガルが引き剥がそうと肩を引っ張るが、ミクはくっついたまま離れない。

「ミクじゃないの。それは師匠、あなたのために名乗った簡単なミドルネームみたいなものなのです。本当はそんな読み方しないの」

 水尾は眉間を寄せて思案していたが、ふと口を開いて、掠れた声で言った。

「海宮?」

「…………」

 彼女は水尾を抱きしめたまま離れない。

「うみみやとは?」

「妹だ。俺の」

 そういってぼんやりと自分に縋りつく海宮を見つめていた。


 見つけ出した時にはこの不安から解き放たれて、二人で喜び合って、父の命令なんて無視して国へ帰るのだ。そう思っていた。

 どうしてこう、最後まで何もかも予想通りにいかないものか。

 水尾は自分の歯がギリリと擦れる音を聞いた。

「……なんで」

 ふざけるなよ、運命。 

 それが今になってひょっこり現れるなんて。

 どうして生きている間に巡り合わせてくれなかったんだ。

 死んで、全て諦めた瞬間に、こんなことがあってたまるかよ。

「本物じゃん……」


 片手で顔を覆う水尾に海宮が一生懸命話をする。

「お、お兄ちゃん。私ね、私、東支部へ向かう途中で一人はぐれてしまったの。盗賊に襲われて、攫われかけて。でも大丈夫だったのは……そこにいる師匠のおかげなの」

 彼女はニヌガルを指差して水尾に今までのことを話し出す。

 堰が切れたように。

 今まで振る舞ってきた雪風を纏うような笑みを貼り付けた女性とはまるで違い、頭の中を整理しながらメチャクチャに話す少女のようだ。

「思ったより近くにいたんだわ。なのにあなた、私に気付かないんだもの……」


「ねえ。あっちの様子は? あんたわかる?」

 ニヌガルが霧に近付いて来て、何を考えているのか目を閉じてじっとしているカルメルにこっそり訊いた。彼女はそっと目を開ける。

〈アプスの方はまだ落ち着いてる。しかし時間の問題だね〉

「様子がわかるだけマシか……」

〈それでももう時間はない。……柳海宮。そこをどきなさい〉

「嫌です」

「ミク……」

「師匠は黙ってて下さい。」

 海宮は頑として動こうとしない。

「なら背中から、」

「いででででで」

 とシンが水尾を助け起こそうとしても、海宮が首にしがみついているのでまともに動けないようだった。

「お前〜〜、」

「だめ! だって、折角会えたのに……」

 

 パキン、と、穴の底で何か薄い陶器にヒビが入るような音を聞いた。

〈不味い。あちらが揺らいできている。〉

 ラクダの表情が険しくなる。

〈柳、こちらに、早く……〉

「一時的に抑えておく方法とかないの?」

 麻来に聞かれて、やきもきと待っているラクダは眉間を押さえていたがやがて言った。

〈……わかった。わたしが行ってとりあえず宥めておきましょう。そのあいだに彼女を説得するなり拘束するなりしてくれ〉

「それじゃ誰が破片を回収するんだよ。風丸、あの兄妹、さっさと引き剥がしな」

 ニヌガルがばっさり却下して、カルメルの前に正座をしていた風丸を呼び出す。

 風丸がカルメルを伺うように見上げて、それからすっと立ち上がる。

「承知しました」

〈待って。〉


 スパイに送られるくらい本当は優秀な子だったのに、兄に対しての駄々っ子は変わらないのかと笑いが込み上げて来そうなのをなんとか堪える。今はそんな場合ではない。

「ほら、兄ちゃんを困らせんな」

「子供みたいに言わないで……」

 だめだ。吹き出した。運命への恨み言なんてもうどうでも良くなっているようで、水尾は妹の頭をぽんぽんと撫でてやる。

「俺だってようやく会えたのは嬉しいよ。こんな時じゃなかったら多分泣けてたくらい。……でも兄ちゃんさ、泣くには、ちょっと疲れたかな」

 海宮の腕を掴んで首元から外すと、今回はあっさりと離れた。きっと彼女も状況は分かっているのだ。自分が大人になったように妹も成長している。

 これで満足したかといえば嘘にはなるが、もういいやという吹っ切れた気持ちが今や胸のほとんどを占めていた。

 座り込んだままの海宮を置いて立ち上がり、もう一度カルメルの元へ歩く。

 そして少し険しい顔をしてほっと息をついたカルメルがその身体に霧の掌をかざすと、鳩尾のあたりから影のもやがずるりと引き摺り出された。

〈こんなものを飲み込んだら、そりゃ死んでしまうよ……〉

 だからわたしの元に辿り着けたのだろうけど、と呆れながら溜め息を吐く。彼女の手元に引き込まれたもやの粒子は集結して、ごく小さな陶器のかけらに戻ってくる。

「————……」

 水尾は糸が切れたように目を瞑って後ろへ倒れていく、それを麻来が慌てて支える。閉じられた目は翳り、腕はだらりとぶら下がるだけで麻来の頬を撫でることは二度となく。……やっぱり、彼はもうここにはいないようだった。抱きしめても温もりを感じないのは水尾が死んだせいか、麻来にもう温度の感覚がないからか。

 その時、先程からずっと静寂であった穴の底から、低い低い喉歌のような洪水の呼び声が突然響き出した。

〈アプス…………〉

 霧に宿る神が下を覗いて蒼褪めたのを見て、ニヌガルは鋭く言った。

「これはまずい。風丸!」

 そして負傷している利き腕に構わず床をノックするように叩いて小規模の結界を張った。

〈全員、ここから離れなさい。いますぐ! 階段を登れ!〉

 そう言い残すと、カルメルの投影が四散して水蒸気の塊となり、深い穴の底へ魚のように飛び込んだ。底から届く音はどんどん大きくなり、彼女の接近を拒んでいるのか空気が激しく揺れて、カルメルの手から破片を弾き飛ばす。

「ラクダ!」

 高く高く上へ飛ばされた、キラリと光る破片を見つけて、麻来は反射で追いかけようとする。シンはその肩を掴んで止める。

「待ちなさい、君はただ巻き込まれただけだ! 君がいく必要はない」

 けれど、ぱっと振り返った彼女の目と対峙して、シンは息を呑んだ。

「でももう無関係じゃないでしょ」

 そう端的に言い返して、時が惜しいと麻来はまた走り出した。シンの手を振り解いて。

 関係ないわけないじゃない。わたしはこれでも自分の意志でここまで来たのだから。こんなことに巻き込まれたお蔭で、わたしは自分の足を取り戻したのだ。指が欠けてしまった麻来の足は本来ならこんなに本気で走れない。殻、とやらが麻来の身体を完全にしてくれているだけだ。

 だから走る、わたしは、最後くらい蛮勇になったっていい。

 というか、最後にこんな短い距離でも走りたかっただけかもしれない。何のために今、己の足は『ない』のだ、と。

 破片はずっと視界の中に捉えている。走ったところであれに届くなんて保証はないし、この脚が間に合っても上手くキャッチできる自信がない。

「マキ! 行ってはいけない、溢れてきている!」

 風丸の声がすごく後ろで聞こえた気がした。

 それでもあれを掴まなきゃ。

 真っ直ぐ走ってきたスピードを助走に変えて、手すりを飛び越える。

 落ちていく最中、途方もなく青い水に襲われながら、麻来は目の前の破片を追いかけ、しっかりと掴んだ。

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