霧の中、君は何処・3

 階段を下り、どんどんと地下へ下っていくと内装の様子が変わってきた。無機質な白い光沢の床や壁が平坦に続いている。総監が立ち止まったのはその廊下をずっと奥まで行った、大きな金庫のような金属の扉だった。

「……この部屋だ。ここに、厳重に保管してある。湿度が高いから注意してくれ」

 総監が示した扉を開けるとそこは巨大な筒状の空間であり、没国の飛空城を想起させた。しかし向こう側の壁がはっきり見えるわけではなく、白く薄ぼんやりとしている。雲のように白い、水蒸気が部屋中を覆っていた。その海のような霧の中で、何かが泳ぐように宙を飛び回っている気配がある。

 入ってすぐに手を広げた幅の足場があり、左側には鉄製の簡素な階段が壁に沿って螺旋状に続いている。足元に気を付けるようにとシンから喚起されながら、全員が部屋に入って階段を下りていった。

「こんな部屋がもうひとつあったとは……」

「この古城には元々いくつかこういった空間がある。それをこの組織が補強したんだよ。……かつてなんのために使っていたのか、それは謎に満ちているがね」

 先を下りるシンが水尾の呟きに答えて言った。

「それはそうと、あれを修復する手段とは一体どのようなものなんだい? 私たち【呼水】の人間ですら、あれの解明をできていなかったというのに。……もしかしてシャーマンの君は知っているのだろうか」

 階段を下り始める前に支えを断ったニヌガルは手すりに手を添えて歩きながら言った。

「まさか。この件に関して私は何もしてやれないよ。こういうのは持ち主が一番わかってるでしょう?」

「持ち主……?」

 シンは怪訝な顔で振り返る。

「ほら、紹介するから早く歩きな。もう着いてるはずだからね」

 ニヌガルが指を指した先は白い霧で何も見えない。

「…………持ち主とは……まさか、」

 何かを思い当たり、またニヌガルを振り返る。その額には霧の水か、あるいは冷や汗が滲んでいた。

 階段を下りきって床に立ったシンは壁にある調整装置を作動させて霧を払うと徐々に見えてきた人影。その奥にまた大きな穴があり、二人は手すりの前に立っている。

 二つの人影。片方はミク、もう片方は風丸であった。

「風丸!」

「マキ……」

 麻来は水尾の元から離れて走り出すと、総監を後ろから追い抜いて風丸に駆け寄っていった。

「マキはすぐに風丸のことを見分けてくれますね」

「え? だって他の子とは違うじゃない。ラクダは?」

「こちらに」

 風丸がスピーカーフォンを取り出す。

「うわ…………」

〈うわって何。…………無事でよかった、麻来〉

 よかった、と笑う声は暖かくて、うっかり泣いてしまうところだった。風丸が目尻を拭ってくれた。

「おい……おいヤナギ。顔が怖いぞ」

 ツィヨウが後ろで囁いたのは、ニヌガルくらいしか聞いていなかった。

「修復できる者がいると聞いたのだが、二人のうちどちらだろうか。……しかし君は組織のものであるし、そちらの君は【カゲロウ】なのか」

 首をかしげながら風丸とミクに話しかける総監。しかし二人とも名乗り出ない。

「シン、違う違う。見えてる方のやつじゃない」

 眉を顰めるシンにニヌガルが肩を叩き、その横を通り抜けていった。

「ラクダ…………いいや、もういいでしょう。今回の役目は終わるんだからね」そして歩み寄りながら風丸の掲げ持つスピーカーフォンに両手を乞うように差し出し、片膝をついた。

「その名をカルメル。水源を守る番人で、私たちアビン民族の母神。この霧に宿り、姿を見せ給え」

 すると風丸の手元へ霧が集まってきて、手すりの向こう側で白いカーテンのようにゆらめく。そこに投影のように現れた誰かの影。肩から足元まで隠れる裾の長い服を着たシルエット。首や肩の華奢な象を見る限り、女性の姿だった。

〈…………流石に機械の中には初めて入ったな〉

 ゆらりと佇むシルエットがつぶやくように発した言葉は穏やかで凪のようであったが、ちょっといたずらっぽい色が混じっていたのは麻来が知る『彼』の人物像を確かに思わせた。

「カルメルだと…………!?」

 シンやミク、ツィヨウまでもが驚愕の表情を浮かべて後ずさった。すぐそばで投影を浴びたミクは膝を折り、シンは立つのもやっとといった様子でその光景に見入った。

「……神様って、」

 ラクダのことだったの? と麻来は大声で叫びたいほど驚いていたのだが、周囲の人の反応を見て、何よりラクダの姿を、影を見るだけでも、喉が痺れて言葉が出なくなった。

 ニヌガルと風丸はいつの間にか片膝を折って最敬礼の姿勢を取っており、シンも震える足を半ば頽れるようにして床につけた。

 ラクダ……カルメルは少しずつシルエットから顔が見えるようになってきて、美しい女性が霧の中に浮かび上がった。その目をゆっくり動かすと、奥に立っていた水尾を捉える。

〈……おまえにはもはや拒否権はないよ。きっと納得してきてくれたのでしょう。……もしくはわたしの友人が何か仕込みましたね。お生憎様〉

「まあほとんど脅したようなもんだよ」

 ニヌガルはいつの間にか立ち上がって楽な体勢に戻っており、いつもの調子であっけらかんと肩をすくめる。ラクダはにっこりと笑った。

「まさか、お前、あんな神を使い走りに使うとは…………」

「水尾は知ってたの?」

「……まあ、死の淵で契約を持ちかけたのは俺だしな」

 水尾は頭を掻いて、霧のヴェールの方へ歩み寄っていく。

 途中ですれ違った麻来の頭に、手を置いて。

「…………水尾?」

 前に立つ水尾を、神はじっと見つめる。それからいつものようなゆるやかな笑顔で言った。

〈全てはあるべきところへ還るように。おまえの魂も同じく送るから、心配はいらない〉

「…………もういいさ。やりたいことはやったし、大きな願いはいくつか諦めた。」

 麻来とのあの緩やかな二人暮らしを放り出して【呼水】に戻ってきたのは、ほとんど麻来のためだった。

 妹の事を半ば諦めたときに出会った女の子。気まぐれで声をかけていただけだったのに、気付けば懐かれ縋りつかれ、結果自発的に家に上げてしまった。そんなよくわからないところからはじまった関係ではあるけれど。

 彼女のこともなんとかしてやりたいと思ったのに、結局その間に彼女は死んでしまっているし、共犯者からは死者では希望はないと言われるし。

 足掻こうとすればこの惨状。諦めるしかないところまで追い込まれてしまった。

「ギリギリ保って誤魔化してたこの命もちょっとずつ削れて、今が返還の時なんだ」

 麻来は二人の表情ややり取りに不安が募った。どうにもこの次の瞬間、水尾が死ぬイメージしか浮かばなくなっている。

「……ねえ、」耐えきれずに声を出した麻来は、やっぱり喋ってはいけない空間だったかもしれないと口を押さえた。

〈どうしたの、麻来〉

「…………、破片を取るのと水尾が何か関係あるの? 今の話じゃ、まるで水尾が、」

 次に来る言葉が言えなくて語尾が消えていく。ラクダは息を吐いて、麻来の疑問を掬いとるように口を開いて。

〈彼の身体はすでに死んでいるでしょう。その身体と魂が再び結びつくことなんて、本来はないんだ。それを偶然にも実現していたのは、彼の中にある『呼び蓋』の破片の霊力が彼に影響してるせいだ。それを抜き取るのだから、通常の状態に戻るだろうね〉

 戻る、ということはやっぱり本当に。

 つまりは柳水尾はここで、本当に死を迎えるということだ。

「……そんなの、」

「そんなの当たり前だろう」

 ツィヨウが麻来の声を遮って口を挟む。

「死者の魂は返還される。当然の摂理だ。だいたい、俺は死者の魂をいつまでも保とうとすることには疑問がある。……研究者としては怠慢なのかもしれないが、生とこの世は満ち欠けと進行で成り立っていると言うのにそれの一端にしがみつこうとするその妄執こそ魂の劣化を引き起こすんじゃないかと思うんだよな」

「本当にお前が喋り始めると止まらないな。時間がないからあんまり邪魔すんなよ」

 ツィヨウを嗜めて、麻来のことは見ずに正面へ向き直る。

「俺のメチャクチャな頼みに付き合ってくれてどうも。カミサマ。……ああ、あとそこの相棒。無謀だって全部わかってたんだろ、最後までよく投げ出さなかったもんだよな」

「誰が相棒だよ」

「お前に言ってるとは限らんぞ。気が向いたら麻来を頼む」

「他に誰がいるってんだよ馬鹿たれが」

〈もういいだろうか〉

 焦れたカルメルが水尾に手をかざして。水尾はこれ以上何も言わないというように目を閉じる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る