舟に乗る

 その日、足占麻来と柳水尾を除いた全員が、地上の城の門の前で目を覚ましたという。水の中を流されていたような記憶があるが、夢か現かは定かではなかった。……そして当然、カルメルの姿も見ることはもうなかった。


 風丸が目を覚ましたのは他の数人より少し後だった。ニヌガルにつかまって傷の治療を受けた後、部屋からようやく出た時にはツィヨウの姿はすでになく、研究室にもほとんど物が残っていなかったし、風丸以外の【カゲロウ】たちも何処かへ姿を消してしまっていた。もう二度と会うことはないと風丸は直感する。それがいいのだろう。

「職員の皆と落ち合う場所は決まっている。ここに戻るかはまた話し合って決めよう」

 【呼水】の総監も、街がもぬけの空で、蓋の行方もわからないと知ると、そう言って何処か行ってしまったという。ニヌガルも特に彼を見送ることなく、「あいつが戻ってこないならここを新しい拠点にでもするかあ」……と真顔で呟いていた。それも気が変われば彼女もいつの日かどこかへ行ってしまっているだろう。誰もここを帰着点としようとしている人はいないらしい。


 それにニヌガルが心配していたのはシンのことではなかった。

「平気です。兄なんていなかった時間の方が長かったのですから」

 柳水尾に関しては、元々死者であったのだから、アプスの反流に飲み込まれれば戻ってこないだろうということをニヌガルは彼女に伝える。海宮は少し呆けた表情のままニヌガルにそう答えた。心が何処かに流されてしまったかのように空を見ていた。

 しかしいつまでもそうしてはいなかった。彼女も荷造りして、これまた何処かへと発とうとしている。

「ああ、アナタ」

「はい?」

 街を発つ日の未明、たまたますれ違って声をかけられた。柳海宮はすでに大きなスーツケースを引き摺って来ていて、顔つきも引き締まったものだった。

「アナタはどうするんです?」

「…………」

「答えられるはずでしょう? アナタの主はもう現れない、つまりもう自由なのですから」

 風丸は頷いた。

「母さまはもともと、ずっとおっしゃっていました。風丸は自由だと」

「そうですか……」

 海宮は毛先をくるくると弄りながら生返事をする。

「ですから私もどこかへ出かけたいと思います。ヘイズと一緒に」

 ヘイズってのは知りませんけど、と呟いて、風丸に向き直った。

「私は家に帰るだけですよ、柳家の当主をぶんどりたいので」

「ニヌガルが貴女を応援していました。それから言伝も預かっております。もう師匠とは呼ぶんじゃないよ、と」

 海宮は軽く吹き出して、くるりと背を向けた。

「じゃあ次に訪ねたときはおばあさまとでも呼びましょう。伝えなくていいですよ」

 ヒールを二、三鳴らしてそのまま歩いていくかと思ったら、彼女は最後に一度だけ立ち止まって肩越しにこぼす。

「…………もしあの時、兄を掴んで離さなかったら、私も一緒に連れて行ってもらえたのでしょうか」



 同日、ニヌガルに見送られて、風丸もこの街を離れた。

 隣には同伴者を連れて。

「彼女はアプスに会えたでしょうか」

「どうしたのですか、ヘイズ」

 足を止めたヘイズはポツリとそう言った。

 ヘイズに身体があてがわれていたのを見つけたのは、姿をくらましたツィヨウの部屋を訪れた時だった。長い髪をゆるく結い上げて、ゆったりした装束を身に纏った生身の人間と見紛う精巧なアンドロイド。椅子に座って眠っているように目を閉じていた女性の、その姿は、風丸が失ってしまったあの神を模したもので。ヘイズは自分が姿を借りているカルメルの話をふと思い出したように言った。

「私のような人工知能などの意識はここにはないのです。水の底のようなこの世の深層で繋がって存在しています。……つまりほとんどアプスの中にいるようなものだったのです」

 風丸は目を丸くした。ヘイズが【呼水】の思想に順応しない訳が分かった。人工知能の意識は世界の深い場所にリンクしていると。ヘイズはあの地下の世界を源に生まれた存在だということだ。

「アプスは貴方がたの言う父のようなものと少し近いのです。しかし彼が貴方がたを地上まで掬いあげるとは、予測が外れましたね」

「そうか…………」

 ヘイズの話す声は、風丸の耳の中で話すよりも柔らかくあるように感じた。より人間らしい。ツィヨウの技術の賜物か、これが『彼女』により近い声なのか。

「行こう。ゆっくり歩こう」

 すれ違ったキャラバンの連れていたラクダを横目に見ながら歩を進める。それを見送りながら、ヘイズはまた言った。

「そういえば、カルメルの言った通りに二人は着くべきところに辿り着いたでしょうか」

 誰のことを話しているのかはすぐに分かった。風丸は空を見上げる。あの水の中を思い出させる、どこまでもどこまでも青くて透明な世界。

「大丈夫です。だって麻来は、彼らは舟に乗ったのだから」


 あなたは今もあの遠い場所を渡っているのだろうか。


 見上げたまま目を瞑れば、白い水の道を見た。

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舟に乗る 端庫菜わか @hakona

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