柳水尾・4

 この小さな首都で最も大きな建物はかつてこのあたりに興った国の王が建てたと伝わる古城である。今はそこを組織の本部とし、それを中心にこの街を作っている。その最奥部、正気のない廊下に、とある部屋の前で立ち止まる壮年の男がいた。

 執務室の扉をゆっくりと開けると、モニターと書類にあふれて、その中心には国の最高責任者を担う人間のものとしては控えめな装飾の机と椅子が奥にあるのみ。

 机にある電話が鳴っている。

 いつから鳴っていたのか。彼は慌てることなく、静かに歩いてきて受話器を手に取る。聞こえてきたのは女の声。部下の声だ。

『総監。柳水尾の身体を使う人物が城下に姿を現しました。破片を所持していると思われます』

「…………」

 朗報のはずなのだが、それを聞いて、元々疲れを帯びていたその顔がまたかすかに翳ってしまった。

「わかった。殺さずに捕らえろ」

『承知しました』

「ああ、あと……」

『はい?』

「……いや。慎重に行動するように」

『分かっております。失礼』

 彼女から電話を切る。いつも丁寧な受け答えをする東支部の彼女は、今日はなんだか焦燥に駆られているように感じた。

 と、そんな場合ではない。あの男が再び現れたという。

「何故…………」

 疑問が口をついて出そうになったとき、何かの気配を感じて振り返った。

「誰だ?」

 気配のした方にそっと近寄って部屋の中を見渡す。本棚、机の裏、床……。その床から、ふわりと植物が芽吹いたのを見逃すはずがなかった。

「——出ていっても即座に殺さないと約束してくれるかい。勿論、私はあんたに危害を加える気はない」

「お前は、」聞き覚えのある声。懐かしささえ覚える、この温かい声。しかしきっと時を重ね、変わってしまった声。「…………ニヌガル」

 名を呼ぶと、芽吹いた植物が一斉に人の背丈まで成長し、すぐに枯れて消滅していった。その中から人影が現れる。

「ニヌガル…………」

「やあ。突然忍び込んでわるいね」

 組織の最高責任者に片手を上げて軽い挨拶をした彼女は、この国の人間ではない。彼が生まれ育った少数民族の村で、シャーマンの家族に生まれた人だ。

 姿を見ることは、二度とないと思っていたのに。

「私が来た理由は分かるかい、シン」

「……」

 ニヌガルは静かに歩み寄ってくる。

「ああ。シン。あんたは、あんたたちはいつの間にこんなに自分本位になってしまったんだ」

「ニヌガル。君はこのようなことには興味がないと思っていたよ」

 ニヌガルは首を振った。彼にはそれが、幻滅したよと言っているように見えた。

「……仕方がないんだ。これ以外に、この地を潤す方法がない」

 降雨は年々減っている。山からの雪解け水も今年は去年の半分も届いて来ない。貯めた水も底が見え始めている。今後他国から買い続けるにも莫大な予算が必要になる。……これではこの国は遠からず衰退していくだろう。いや、今がそのさなかにある。

「どんどん痩せ細っていく土地を見ているのはもう耐えられない。託された以上、私はここを守らねば」

「アプスに手を出せば、死ぬかもしれないんだよ」

 不安で心臓がドクンと脈打った。

「……死ぬ? いいや、アプスは永遠の楽園だ。滅びることなどない」

「違う。アプスに触れて死ぬのはあんたたちだ。あれは今の人が手をつけていいものじゃあないんだよ」

 シンと呼ばれた総監は言葉を失った。

 これが本当なら、とんでもないことだ。大勢の命が犠牲になるだろう。

 血の気が引いて、手を震わせる幼馴染に、ニヌガルはまた話し出す。

「……古代、中世、大昔。いのちはもっとずっと大事で貴重で、重たいものだった。」

 掌を上に向けると、そこから葦がさらさらと伸びていく。それをニヌガルは容赦無く握り潰し、葦は幻のように消滅した。

「今では粘土のように軽くてボロボロと崩れてつなぎ合わせればすぐにくっつく。神によって作り出された完璧さなんてかけらもない、欠陥品だ。脆くて歪んだものばかり残ってしまったのだ。私たちの命とはそういうものだ……命とは、いまや尊いものではなくなってしまったのだよ」

 そんなことはない、とシンは反論する。

「命は尊いものだ。私は何万もの命を守る責務がある」

「あんたにそんな度量はないでしょう」

 ニヌガルにきっぱりと言われて何も言い返せなくなってしまった。

 どれだけ部下に隠したところで彼女には知られている。自分の臆病な性格を。しかしここで、抗うことをやめてしまうのはもっとおそろしいと彼は思う。だからここまで、【呼水】の総監として力を尽くしてきたのだ。

「……本当、なのか。アプスは無尽蔵の水を生み出す地下の楽園ではないのか」

「なら、川の水はどこへ流れていると思うんだ」

 ニヌガルはシャーマンらしく、澱みなく問いに答えた。

「人は、生き物は死ぬと川を流れていくんだ。死者はずぅ……っと川を旅して、アプスに辿り着く。——無尽蔵の水とはすなわち、常世のことなんだよ」

 ニヌガルは水を表す手の動きをつけ、湖に行き着く笹舟を表現した。懐かしい、生まれ故郷の舞踊の一部だった。

 シンの頬に汗が伝う。

「常世、だと……」

 今まで自分が抱えてきた漠然とした不安。この計画を実行して、損失が出ないという保障は元よりなかった。しかし決定的な事実を突きつけられ、それは形になってしまう。

 柳水尾よ。破片を持つものよ。何故、そのまま逃げてくれなかったのか。

「どうする? 『蓋』が欠けたんだってね。どうしてあんたたちが持っているのかは聞かないであげるけど、あまりずっと不完全なままにしないほうがいいよ。じゃないと、いつ勝手に噴き出すか私には分からない」

 彼は耳を疑った。今まで、どれくらいの間、あれが欠けたままの状態にしていただろうか。倒れそうなほど青褪めたシンは弾かれたように机へ走り、全体放送用のスイッチを入れた。

『全職員に告ぐ。柳水尾の姿をした者を至急探し出せ! 彼はこの街にいる。繰り返す、全職員、柳水尾を探せ!』

 緊急ボタンを押し、サイレンが一定時間響き渡る。スイッチを切り、息を切らしたままニヌガルを振り返る。

 彼女は笑みを残して、空間に溶けるように消え去るところであった。



「あ〜あ、技術の漏洩が……」

 ツィヨウは部屋に戻ってくると【カゲロウ】たちに荷物をまとめるよう指示し、自分は固そうなソファに寝転がった。【カゲロウ】を一機逃したことで気を落としているのだった。

「だから俺は聞いたんだ。判断を下したのはお前だろうが」

「うるさいな……ヤナギは気付いてたのかよ。視力は機能していなかったはずだが?」

 いいや知らないよ、と手を仰ぐように振る。心の底からどうでもいいという態度がいつも気に触る。

 久々に自由に動くヤナギを見るなあと眺めていると、やはりところどころの身体の機能にぎこちなさがあるように見受けられる。

「……思ったより負担が大きいようだな。まあ死体に魂が戻るなんてこと自体が尋常じゃないんだが」

「お前が正気に戻ったら全ておしまいだぞ」

 苦笑する水尾はどことなく上機嫌だった。無理もない、ようやく恋人とまた会えたのだから。こいつだけ得をしているようで癪だが放っておくことにして、ツィヨウは麻来の頭にコードを繋げ、点検に取り掛かる。

「ちょ、何これ? なんか線……」

「動くんじゃないよ、お前は俺のお陰でここまで歩いてこれてんだから。すぐ終わるから大人しくしてな」

 いきなり後頭部に何か差し込まれて、戸惑いながら水尾に目配せする。水尾はそいつの言うことを聞いて特に問題ない、というように肩をひょいと竦めた。

「やっぱり始まってはいるけど。……あ? なんか劣化遅くない?」

「何言ってんだお前」

「いやさあ、せっかく作った容れ物に入れてたって魂は少なからず劣化するわけじゃん。それが予想よりはるかにゆっくりなんだよな」

「そんなのお前の予想だろ」

 二人の会話をよそに立ったまま退屈になってしまって、【カゲロウ】たちがきりきりと働くのを麻来はちらりと眺める。ゴーグルは屋内なので外しており、風丸とほとんど同じ顔が見えた。けれどツィヨウの命令をただ聞いているその横顔は、風丸とは違って、なんだか硬くて温度がないように感じた。

「……水尾、」

「何、麻来。お腹すいた?」

 麻来は全然違うと首を振る。

「あ、別に減らないか。じゃあ何? ほらおいで」

 水尾は抱きしめてやるよと言いたげに腕を広げて、しかし麻来はそれも違うと首を振った。

「じゃあなんだよ!」

「どうして分からないの!? ラクダならそんなこと言わない……」

「はあ!?」

 突然声を張り上げる二人に驚いて、コンピュータに集中していたツィヨウの肩が跳ねた。

「ちょっ、大声出すんじゃないよ。何考えてんだっ」

 声を潜めた苦情に少し冷静になったのか、水尾は気まずそうに頭を掻く。それに追い打ちをかけるように麻来は問い詰める。

「今まで何してたの? こんな所でやることってなに? どうして、……どうしてわたしをおいて死んでしまったの!」

「…………」

 またこの顔。なんて説明するか考えている表情。何かを隠していますって、麻来にはひと目でわかる。

「また、何にも教えてくれないの?」

「……あのな、麻来。俺たちはすぐに逃げないといけないんだ。大人しくしてくれると助かる」

「なんで……」

「そいつが『蓋』の破片を飲み込んじまったからだよ」ツィヨウが麻来の高い声を嫌悪して口を挟んだ。「俺たちは今や組織の敵。国賊なのさ。時間が惜しいんだ。本当はお前に説明している余裕なんかない。今はお前のために手を動かしてんだから、わかったら黙っておいで」

 【カゲロウ】に指示を飛ばしながら忙しなく作業をしている彼は、そのまま会話に参加するのをやめた。

 水尾は麻来の手をとって囁く。

「三年も一人にしたことは謝る。だけど信じてくれ。俺は麻来、お前の足をどうにかしてやりたくてここにいるんだ」

 事故で失った麻来の足の指を、どうにか取り戻せたら。確かにそれは、一緒に暮らしている間にも幾度か聞いた言葉だった。

「俺はさ、新しい身体を用意してやろうと思ったんだ。麻来が思う存分走れる、丈夫な身体を。お前がまた陸上を始められる身体を。そのためにこいつと共謀して、材料になるからってアプスの呼び蓋の破片まで盗んだ。もう後には引けないところまできたんだよ」

 麻来はまた首を振る。そして涙が出るのも構わず声を絞り出した。

「……でも言ったよわたし、そんなのいらないって言った。わたしは水尾がいてくれたらそれでよかった、もう走れなくったってそんなの構わなかったの。愛してくれるなら、一緒にいてほしかったのに!」

「麻来…………、」

 水尾が何か言う前に、部屋中をサイレンががなりたてる。

 そして放送が流れ始めた。麻来には知らない声だったが、水尾とツィヨウははっと顔を上げた。

『全職員に告ぐ。柳水尾の姿をした者を至急探し出せ! 彼はこの街にいる。繰り返す、全職員、柳水尾を探せ!』

 その声こそ、【呼水】の総監であり最高司令官、シンという男のものである。組織を総動員させて、水尾を探しにくる。

「逃げるぞ、今すぐ! 荷物持たせてさっさと来い!」

「は!? 待て、だってもうすぐ完成」

「命の方が惜しいだろうが! 置いてくぞ!」

「こんのやろうがあ」

 麻来の手を引いてバタバタと扉のほうへ向かう水尾を、ツィヨウもコンピュータは【カゲロウ】に持たせ、罵りながら追いかける。

「何事?」

 麻来の質問に、水尾とツィヨウは今度は明確に答えて言った。

「亡命するんだよ」

「必要なものは手に入れたんでな」

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