西都

柳水尾・1

 ツィヨウという男は元々一般の家庭で生まれた子供であったが、研究に目覚めた幼い頃に組織に目をかけられ、生まれ故郷を後にした。

 本来、一介の研究者である彼は組織の目的や計画に興味を抱くことはなかったし、それゆえ関わることはなかった。しかしその振る舞いが不本意ながら変更されることになったのは、本部に現れたとある外国人との出会いが原因である。

 その元凶は、当時ツィヨウを管理していた上官の召使として入ってきた少年であった。

 ツィヨウも人のことは言えないが、彼は自分とそう変わらない歳でありながら些か大人びた態度の少年だった。上官に言い付けられた通り研究室に足を運び、ツィヨウの監視がてら連絡事項を伝えたり届け物をしたりする。

 組織内では兵器開発を役目とするツィヨウは、謀反の企てをしてはいないかと嫌疑の視線を受けることはよくあった。しかし彼の探るような目は他の人間とはまた違った類いのもののように直感で感じ取った。それはどこか俯瞰しているような、全てを警戒しているような視線。そこで彼がまた訪れたある時、あえて直球でこう言った。

「君、組織の人間と違うだろ。間諜か?」

 この時、気まぐれで暴いた彼の素性。この一言を言わなければ、彼との関係がこんなに続くことにはならなかっただろう。

 その一言がスイッチになったのか、指摘された少年の表情はがらりと変わった。

「チッ、やっぱバレるか」

 訓練された愛想笑いは舌打ちと共に霧のように消え失せ、不機嫌そうで、しかし挑戦的な微笑に切り替わる。

 すいと自然な動きで迫ってきた手にツィヨウは襟を掴み上げられ、「ぐえ」とうめく。

「お前、他の奴より聡そうだったから気を付けてたんだけどな」

 いくらからしくなったものの、その隙を見せない顔つきはやはり子供のものではない。どこから差し向けられたのかなど見当もつかない。というかどうでもよかったので聞く気も湧かず、しかしツィヨウは意識下で彼に興味を抱き始めていた。

「本当だったのか」

「…………おい、カマかけやがったな」

 別に罠にかけようとしたつもりはなかった。気になったから訊いただけなのだ。

「それでどうすんだ。上官に俺のこと話すか? わざわざこんな召使の正体をお前みたいな非力な子供が聞いてしまって、どうなるか考えもしなかった?」

「……口封じするのか? やめておいた方がいいと思うけど」

 何せツィヨウは十四にして組織設立以来最も優秀な開発者である。それが突然死んだり行方をくらましたりすれば必ず調査されるだろう。そうなればいくら証拠をうまく隠せても、命令でよくここに足を運ぶ彼が危うい立場になるのは目に見えている。

 すると彼もツィヨウの発言の意図がわかっているのだろう、乾いた吐息と共に襟を放し、掌を上げて見せた。

「わかってるよそんなことは。だいたいこんな兵器開発室で喧嘩なんて吹っかけたくないしな。やるならこんなまどろっこしい前置きなんかなしに後ろからぶっすりやるわ」

「君って暗殺者なのかよ?」

「さあな」

 後から聞けば、そんな教育は受けていないと彼は言う。なるほどここで能力をあやふやに提示したのは虚勢と牽制だったわけだと納得したのは数年後のこと。

 少年はツィヨウの机にひょいと腰掛け、ローファーを履いた足を自分の膝に乗せて組んだ。

「だけどバラされるわけにはいかないな。どうしようかな」

「別に誰かに言う予定はないよ。そんな義理ないし」

「え?」予想外のことを言われ、間諜は疑いの眼差しを向けた。「そんなわけないだろ、お前は【呼水】の研究者だろ?」

「でも裏切り者を見つけたら報告しろ、なんて言われてないし。どうしようと俺の勝手だよ」

 肩透かしを食らった彼は信じられないものを見るような目で黙りこんでしまった。実際、この時点では信じられたものではなかっただろう。

「ほんとだって。俺は研究さえできればそれでいい。【呼水】はいい器具や素材がたくさんあるから、潰されるのは困るけど」

「…………お前、利用されてるんだぞ。気付いてるだろ」

「あたりまえだ」

 ツィヨウは淀みなく即答した。

「利用されてこそ研究開発は磨かれる、いいものなら使われて当然だ。何に使われてるかは重要なことじゃないんだよ」

「じゃあ俺らはあんな奴らに使い壊されていいってのかよ!」

 少年は自分の声にビクッとして、慌てて扉の隙間から外を覗いた。誰もいないことを確認したのか、安堵の混じった溜め息を吐く。

「俺はそんな暴論、賛同できない」

 少年はキッパリと否定した。「…………だけど、それなら。俺にも少し使わせろよ。お前の頭、身体。俺の目的のために、使わせろ。——妹を探してるんだ。一緒に来るはずだったのに出発が遅らされて、未だに音沙汰がない」

「は?」

 そんなの嫌に決まってる。ツィヨウは研究だけをしていたいのだ。そう切り捨てようとした時。彼はこう提案した。

「ここよりもっといい研究所をやるって言ったら?」

「おっと…………」それは魅力的。提案者が見るからに大富豪なら、即決していただろう。

「俺の目的が果たされれば、ちょっと東の方に新しく建ててやるよ。必要なものがあれば用意するし、誰にも邪魔させない。どんな兵器だろうが使ってやる。」

「そんなの一介のスパイのがきんちょが、どうやって手配するって言うんだよ」

 スパイならツィヨウの研究の概要は知っていただろう。しかしこの頃はまだ【カゲロウ】は設計段階であり完成には至っておらず、使い方も定まっていなかった。それを使おうとは、出任せにすら聞こえた。

「お前の技術を買うのは俺じゃない。この名前、聞いたことくらいあるだろ」少年は襟口からネックレスの細いチェーンを引っ張り出す。「没国の柳だ」

「乗った」

 ツィヨウはそれを見るなり即答する。彼が見せたのは、誰もが知る一族の子孫、柳の家紋を象った時計だった。



 さて現在、全く連続であるわけではないがこうして口頭の契約を交わしてから十年前後の長い付き合いになってしまったわけであり、初対面からすでに遠慮のなかったツィヨウがまともに言葉を選ぶようになるわけはなかった。

「彼女をほっぽいてこんなところまでバカンスに来るんだからおまえはとんだ甲斐性なしだよなあ」

 唐突に彼女の話を勝手に始められて些か癇に障ったが、この状態で自分がツィヨウにできることは何もない。身体があれば殴って……このくらいでそこまではしないか。結局こいつに彼女の話をされたくないだけではある。

〈……バカンスに来てるんじゃない。そんなワクワク感のある渡航に見えるか、これがよ〉

 彼は不機嫌にそう返す。

〈俺は可能な限り尽くしてるんだぜ。目的を果たすためにお前みたいなやつとも契約も結んで、あちこち駆けずり回ってさ。流石にお前が一番知ってるだろ、意地悪なことを言うなよ〉

「でもその彼女にそれを話したわけじゃないだろう? 事情も言わずに相手にしてみりゃそいつは遊び歩いてるのと大差ないと思うね」

 こいつ、相手もいたことないくせにいちいちうるさいな。

〈成功するかも分からない企みを先に話して、無駄に期待させたくない。もし成功すればあの子もきっと分かるさ〉

 失敗を前提に考えてる時点で負けじゃないかね、と奴が鼻で笑う。そんなことを言うならそれに付き合ってるお前はなんなんだよ。そう思ったがどうせこいつは専門分野の研究と開発をしていられれば幸せなのだから、こうして共謀しているのも一つの暇つぶしの一環にしか過ぎないのだろう。

 それを肯定するかのように、ツィヨウはさらにくだらない話題を出してくる。

「しかしお前、本当に手を出してないのか? よく我慢できたなあ、お前が」

 お前がお前がと強調されたのが腹に据えかねる。イラつく言い方ではあるが、確かに何もせずに一緒に暮らして二年は長かった。

〈だって没国を出た時点でもまだ十七だったし。本来なら学校に通ってる歳だったんだぞ。手なんか出して捕まったりしたら離ればなれになっちまうだろ。そしたらあの子はどうやって生きていけばいい?〉

「変わらんと思うけどな。どうせ住所登録の変更もしていないだろう未成年を無断で家に住まわせていたんだ。それを巷では誘拐というんだ。犯罪だよ、それ」

〈…………〉


 栄養ブロックを腹に詰め込んでいたツィヨウは【カゲロウ】からの報告を受けてのっそり重い腰を上げた。

「ヤナギ、『あれ』が戻ったようだ。会いに行くかい?」

 声をかけると、ややあって聞こえる、少し不満そうな声。

〈思ったより時間がかかった。だからお前は余計なことをするなって言ったんだ〉

「はいはい、済んだことだろう。じゃあ俺だけが迎えに行ってもいいのか?」

〈うるさい。さっさと連れてけ〉

 彼はぶっきらぼうに言った。

〈お前や俺が迂闊に動けないからこんな敵地まで来てもらうことになっちまったんだろうが。それにもうそろそろ返してもらわなければ〉

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